竹内まりや|キャリア42年で初めて映像作品リリースに至った理由

難しいからこそポピュラーミュージックは面白い

──「プラスティック・ラブ」と言えば、40周年の流れとちょうど並行するような形で世界的に広がるという現象がありましたよね。

不思議な現象ですよね。それについては達郎と「狐につままれた感じだね」って話してるんです。Night Tempoさんがきっかけを作ってくださったとか、そういう流れはわかるんですけど、なぜあそこまで海外に広がったのかは分析しきれない。私も「プラスティック・ラブ」は自分の曲で最も好きなトラックの1つなので、実にありがたい現象ですけれど。外国の若者が日本語のあの曲にあれほどたくさんのコメントを寄せるのはなぜなんでしょうね。曲が醸し出すグルーヴに、失われた時代へのノスタルジーを感じるんでしょうか。彼らが上手な日本語で歌っていたり、踊っている映像などを観るとびっくりしますよね。

──そうなんですよね。どういう解釈で受け止めているのだろうかという。日本の80年代の音楽を知らない若い子たちが新しいものとして聴いてるみたいなところもありますよね。

アナログレコーディングの持つ音圧感や、打ち込みでないドラムやベースの持つ力があのリズム隊にはありますよね。さらに、ストリングスやブラスを含めた達郎の洗練されたアレンジの80年代的なグルーヴに、逆に新しさや珍しさを感じるんでしょうね。

──今回の映像の中で達郎さんが、まりやさんのような特殊な活動形態でここまで続けてこれたのはレアケースだとお話しされる場面がありましたよね。あのお話を聞いて僕は、音楽そのもののクオリティを徹底的に追求しながら“商業音楽”であるポピュラーミュージックを作り続けてこれたからこそ、まりやさんのこの40年があるというふうに解釈しました。

彼がそのように作ったということなんですよね。私は私の中から生まれる言葉とメロディを託して、彼がプロデューサー、アレンジャーとしてポピュラリティを得られる形に具現化してきた。それはイコール彼がそのようにしてきたということだと思っていて。プロデュースの妙ということですよね。ポピュラーミュージックを作るうえで大変なことは、自分としてはいいと思っている楽曲が必ずしも世の中にウケるわけではないということ。どれくらい人々の要望に寄り添うかというところは常にジレンマで。そのちょうどいい塩梅を探りながら曲を作っていくわけですが、完全に自由にやればいいのであれば、自己満足の音楽を作ればいい。でも自己満足で成り立たないところがポピュラーミュージックの難しいところで、それを信念を持ってやってきた歴史を達郎の音楽の中に私は感じるんです。シュガー・ベイブというある種サブカルなバンドから始まった彼のキャリアですが、「RIDE ON TIME」などでブレイクするまでの作品も私はすごく好きで。でも彼は「いつまでも“夏だ海だ達郎だ!”では絶対にあとが続かない」「自分の言葉で自己哲学を伝えることをしないと生き残れない」とどこかで思ったらしくて、自分で歌詞を書くようになった。中でも、アルバム曲だった「クリスマス・イブ」が大きなポピュラリティを得たことは、彼にその発想が正しかったという確信をもたらしたんだと思うんです。そして本来は玄人受けする音楽を素人にわかるように運んでいく方法を、テレビにも出ず映像作品も出さずに見つけたんですよね。ドラマや映画のタイアップはありましたが、あとは「サンソン」のみをメディア窓口として音楽を届けてライブを続けるというその姿勢が、音楽家として活動するうえでの理想形だなと私は思います。

──作家としてのまりやさんは、広く求められるポピュラリティとご自身がやりたいことの乖離がそこまでないんじゃないかなと思っていて。そもそもポピュラリティのあるものを根っこに持ってらっしゃる方なのかなと。

どうなんでしょう。私は、この歌手ならこういう曲を歌ってもらったらどうかなとか、職業作曲家的な自分を楽しんでいる部分があるんですよ。リスナーが、竹内まりやという歌手にはどういう歌を求めているのか、というようなことを分析してみるのが好きなのかもしれない。じゃあ今65歳のその歌手にどういう曲を歌わせたら面白いだろうかと客観的に見るもう1人の自分もいますし、これまでもそんなふうに試しながらやってきたというか。例えば「シングル・アゲイン」みたいな曲は確かにヒットしそうだけれど出すべきなのかどうか迷ったんですね。「プラスティック・ラブ」が売れるなら「やった!」と思うけれど、「シングル・アゲイン」みたいな歌謡曲然とした詞曲は果たして私の目指すポップスと呼べるのだろうかとか、そういうところは自分とのせめぎ合いですね。でも歌は人々のものになったときに自分を離れて育っていくので、最初の予想を遙かに超えるような楽曲に変わっていくこともある。その曲がどんな曲調であるかが重要なのではなく、リスナーにとって、その歌と共に呼び起こされる感情や思い出がそれぞれの中に生まれていくことに意味があるんです。その公約数が大きいものがヒット曲なんでしょうね。

──なるほど。

だから今でもライブで「不思議なピーチパイ」を歌うと、お客さんみんなが手拍子をしながら一緒に歌ってくださる。「不思議なピーチパイ」は私にとって初のヒットをもたらしてくれたという意味では大きいしもちろん好きな曲だけれど、この歌よりも思い入れが深い曲もほかにいろいろあったりするわけで。でも「ピーチパイを待ってました!」という皆さんの気持ちはすごーくよくわかるし、ヒット曲を持つというのはこういうことなんだなと思いますね。だから自分さえ満足してればOKという曲はないですし、商業音楽は最終的に聴いてもらってなんぼだと思っています。そこはずっと追及していかなければいけないことですし、それが難しいからこそポピュラーミュージックは面白いんです。

──お話を聞いていると、まりやさんの中にはファン目線みたいなものが根強くあるんだなと思いました。

ファン目線というより、自分が音楽リスナーとして好きな音楽を聴いたときにどう感じるかを考えると、自ずとそのように導かれるということかもしれないです。私自身が私をどれだけ正確に分析できているかわからないですけど、例えば達郎の音楽だったらもうちょっと客観的に聴けるとか、そういうことはあるんですよね。

「souvenir the movie ~MARIYA TAKEUCHI Theater Live~(Special Edition)」より。

「不思議なピーチパイ」と「September」「五線紙」以外はライブ初披露

──僕は今年46歳なんですけど、「駅」や「シングル・アゲイン」を学生時代にリアルタイムで聴いて、歌謡曲が持つ叙情性に惹かれてまりやさんの音楽に興味を持ったんです。「シングル・アゲイン」を聴きたくて「火サス」を観るみたいな感じで(笑)。その後、シュガー・ベイブの再発盤などを通して過去の作品を掘り起こしていく中で「Sweetest Music」のようなソウルフルで洋楽的な曲があることを知って。

そうなんですか! 意外だなあ。「シングル・アゲイン」はね、どんなに濡れたメロディであっても、ドロッとした歌詞であっても、山下達郎がアレンジすれば絶対に単なる歌謡曲にならないって知ってたから書いた曲でもあるんですよ。「駅」はもともと中森明菜ちゃんのセルフカバー曲ですが、私用に達郎がアレンジした「駅」のトラックには独特のグルーヴがあって。重厚なドラムとベースに加えて達郎のあのギターカッティング、さらに服部先生のすばらしいストリングスという絶妙なアンサンブルを奏でているんですよね。だから達郎に託せばどんなに濡れたメロディでもそこに自然と洋楽的なニュアンスが加わる。「告白」も達郎のアレンジでなければ、ああいう洗練されたビート感のある曲にはならなかったんじゃないかな。

──「駅」はカンツォーネのようにも聴こえますもんね。「駅」と「シングル・アゲイン」はこの作品にも入っていますけれど、過去に時代を彩ったヒット曲をライブで歌うのはどういう感覚ですか?

「不思議なピーチパイ」と「September」はテレビでずっと歌ってきた曲で、「五線紙」は独身時代のライブで歌い慣れていた曲なんですけど、それ以外はレコーディング以降初めて歌う曲ばかりだったのでリハーサルが大変でした。

──そういえばそうですね。結婚後はずっとライブがなかったわけですから。

「家(うち)に帰ろう」や「元気を出して」も初めて歌ったんですよ。「カムフラージュ」の冒頭の多重コーラスはテープでしか再現できないよねということで、それを流して歌ったり、いろいろ初挑戦のことばかりでした。体に染み付いている曲はほぼ「不思議なピーチパイ」と「September」だけですから(笑)。私にとっては初演だけれど、バンドはほとんどレコーディングメンバーなので原曲に近い音で歌えるのが強みでした。ライブ初演作品をそのような形で再現することができて幸運だったと思っています。

人間生活を普通に営むことが私たちにとってはスタンダード

──今までいろんなお話の中にも達郎さんの名前が出てきましたけど、この映像の中で達郎さんについて「失いたくない大親友」だとお話されているのが印象的でした。そのあとに「Let it Be Me」を2人で歌っているのもよかったんですよね。

達郎との関係を表す一番適切な言葉は「親友」だなと思ったんですよ。2000年の武道館のアンコール最後に「Let it Be Me」のデュエットをセットリストに入れることは自然の流れで決まっていたんです。映画では1つ前の「リンダ」との間に何か挟みたいなと思って、ここに達郎へのコメントを入れました。

──かなり特別な関係ですよね。

そうですか? 「同業者との結婚は難しくないですか?」とよく聞かれますけど、逆に同業者だからうまく運んだのかなと私は感じていて。我々はごく普通の人間なんです。当たり前の普通人同士だからこそ、親友でいられるんでしょう。キャリア的には60代にもなればすごく大御所扱いされるかもしれないですけれど、お互い普通の感覚でいられる同士だからうまくやれている気がします。達郎は天才的なミュージシャンだと私は思っているんですけど、努力家でもありますからね。ポテンシャルとしての天才に努力が加わったミュージシャンだから、そこへのリスペクトはあって。音楽面では彼が引っ張っていくにしても、違う部分では私が引っ張っていることもあるかもしれない。そうやって補い合える関係だから友情が長続きしているんだと思います。

──お二人は押しも押されもせぬ“大御所ミュージシャン”ですけど、同時に普通の生活者としての目線を持っている感じがすごくします。

人間生活をごく普通に営むことが私たちにとってはスタンダードなんです。

──達郎さんもまりやさんもショービジネスの世界にどっぷりじゃなくて、軸足はあくまでも普段の生活にちゃんと置いていますよね。だからこそ子供が小さいからまだコンサートはやめておこうとか、そういう考え方があるんだと思います。

いや、それは子育てが単純に面白かったから優先したということなんですよ。確かに、子供をシッターに預けてでもライブをやりたいという人のほうがショウビズ向きではあるでしょうし、そういう意味では、私は音楽ビジネスに向かないところはあるかもしれない。だから自分を分析して、私に合う独自のやり方を選んできました。無理をしても絶対に続かないことは自分が一番わかっているわけですから。そして、そのやり方だったから今があるんだと思っています。休業後の復帰作だった「VARIETY」(1984年4月発売のアルバム)を出したとき、私はお腹が大きかったのでほとんどプロモーションができませんでした。「不思議なピーチパイ」のヒットから4年空いてのリリースだったので、周りもあまり期待をしていなかったんですが、蓋を開けてみたら「Portrait」(1981年10月発売のアルバム)よりもはるかに売れたんですね。サイレントリスナーの存在を実感した瞬間でした。本当にありがたかった。作品を真摯に届ければそこには聴いてくれる人が存在すると信じられるきっかけを「VARIETY」が与えてくれたんですよね。これだけの人がアルバムを聴いてくれたのであれば、ライブはできなくてもその人たちを裏切らない作品を作っていこうと思えた。だからそのあとも子育てをしながら「REQUEST」「Quiet Life」とアルバムを出し続けられたんだと思います。

──それはまさに達郎さんが映像の中でおっしゃっていた言葉ですよね。ライブみたいなファンサービスの場がなくともお客さんが離れなかったのは、まりやさんの音楽そのものの強度を証明していると思います。その強い音楽さえあればビジネスが成立するというのを証明しているのが、まりやさんの40年なのではと。

強度の高い音楽をやっているという自覚はないけれど、音楽を音楽として届けたいという強い思いはあって。だから達郎がテレビに出ず、ラジオを大事にする理由もわかる。昔、「RIDE ON TIME」がヒットしたときに彼が街を歩いていたら「サインをください」って頼んできた人がいて、その隣で「この人誰? 有名な人なの? 知らないけど私もついでにサインもらうわ(笑)」って言われた体験があったらしいんですね。達郎は自分がどんな音楽をやっているかもわからない誰かに、有名だからという理由で認知されるような存在にはなりたくないと言ってました。そんなポピュラリティならいらない、ということなんでしょうね。だから耳から入ってくるものを一番信用しているし、結局はコンテンツこそが最も大事だから何十年経っても古びないオケを作らないとダメなんだといつも言っています。話は戻りますが、「プラスティック・ラブ」の海外への広がりは、図らずも達郎のその言葉を証明したような形になりましたね。ですから、彼がそうやって普遍的なアレンジを施した楽曲、例えば「駅」や「元気を出して」なども今の若い人が聴いても違和感がなく、カラオケでも歌ってくれるんだと思います。

──ここで言う“強い”というのは、曲に付随する歌い手のキャラクターとかそういう部分を抜きにした、曲そのものの説得力のことですよね。その音楽そのものが求められている状態というか。

そうですね。そういう強さは意図してなかなか持てるものではなく、自分がいいと思って作っているものがたまたまその強度を持つんだったら理想だなと思います。

──まりやさんも達郎さんも人気者商売ではなく、あくまでも作品やパフォーマンスを大事にしていますよね。それは芸能界的な慌ただしいサイクルから意識的に距離を置くことで獲得したものなんじゃないかなと思います。

表に出ることで話題を優先させるやり方を続けていくと疲弊してきますからね。自分がどうありたいかを考えたときに、居心地がいいほうを選ぶと自ずとそういうことになったという感じでしょうか。人気を得るノウハウのようなものが仮に100個あったとして、その中からそのときの自分にとって必然性があるものであれば1個試してみる、みたいな臨機応変さはあってもいいと思うんです。それが私にとっての紅白出演だったりするのかもしれない。これほどまでに出てほしいと頼んでくださるスタッフの熱意に私が応えられないことが心苦しいという思いのほうが、出なくてもいいかなという思いに勝ったりすることもあるわけで。だから今回「souvenir the movie」を出すのもファンの皆さんの思いに応えるという同じような理由なんですよね。