ナタリー PowerPush - 高野寛
研ぎ澄まされたポップスの魔法 20年の軌跡とこれからの音楽
1988年10月7日、シングル「See You Again」でデビューした高野寛が、2009年10月7日にニューアルバム「Rainbow Magic」をリリースする。あらためて「歌と言葉」を見つめ直し、時間をかけて丹念に磨き上げられた、色とりどりの魔法のようなポップスが合計16曲。20年間の積み重ねと21年目のこれからを感じさせる、記念碑的な作品が完成した。
ナタリーでは今回、高野寛自身にこれまでの歩みを振り返ってもらいながら「Rainbow Magic」に至る背景や心境の変化、そしてこれから彼が向かおうとしている新たな世界を探るインタビューを行った。
取材・文/臼杵成晃 撮影/中西求
バンドのギタリストとしてデビューしていたかもしれない
──アルバムの発売日は、ちょうど1stシングル「See You Again」のリリースから満20年になるんですね。
たまたまなんですけどね。まぁキリがよくていいだろうっていうことで。
──当時、どのような形でデビューされたんですか?
1986年に、ムーンライダーズと高橋幸宏さんがやってるレーベルのオーディションがあったのね。そのオーディションは、バンドの各パートを募集して合格者でバンドを作るっていう趣旨で。僕はギタリスト部門に応募して選ばれたんだけど、結局デモテープを作っただけでそのバンド構想は空中分解してしまって。その話がいろいろと流れて、幸宏さんのプロデュースで僕がソロでデビューするっていうことになったんです。
──ちなみに、そのオーディションに参加してた方で、高野さん以外に今でも音楽活動をされている方はいるんですか?
うん、僕と同じ年だとm.c.A・Tが。
──えっ!? それって有名な話ですか?
たぶん(笑)。彼がボーカルで、僕がギターで、もう1人ベースがいて、っていう構想が最初あったんだ。
──もしそれでデビューしてたら、まったく違う20年を歩んでいたかもしれませんよね(笑)。
ね。だからその頃は、自分がまさかセンターで歌う立場になるなんて思ってなくて。当時は日本語の歌もあまり書いてなかったんだよね。だから1986年からの2年間くらいはひたすら曲を作って。今みたいな日本語の、オリジナルのスタイルができたのはその2年間なんですよ。
──元々は完全に洋楽志向というか。
そうですね。しかも結構マニアックな(笑)。
──洋楽志向で、かつシンガーソングライターになりたいと思っていたわけではなかった?
うーん……そうですね。“宅録”の人になりたかった。
──そういう音楽志向は、やはりムーンライダーズやYMOといった先輩たちの音楽から受ける影響が大きかったんでしょうか。
大きいですね。今みたいに手軽に機材を手に入れられない、かなり試行錯誤しないと音楽を形にすることができない時代だったし。宅録っていうスタイルも当時は全然認知されてなかったから。
──いざソロデビュー、というときに「こういう音楽をやろう」という明確なビジョンはあったんですか?
たまたまその頃「THE BEATLES再発見ブーム」が訪れたんですよ。XTCの「Skylarking」とか、ジョージ・ハリスンも自分のソロアルバムでTHE BEATLESっぽい曲をやったり。そのあたりの音楽がすごく自分にしっくりきたので、たぶんそれが合うだろうなっていうイメージはあったかな。でも最初はね、本当にいろんなタイプの曲を作りました。完全にプログレみたいな曲も結構あったし。
──プロデューサーの幸宏さんは、高野さんのそういう方向性を理解してくれてましたか?
うん。だけど本当にいろんなタイプの曲を作り過ぎていて、幸宏さんは「1stアルバムにそれを全部入れちゃうとすごくわかりにくくなるだろう」というアドバイスをくれた。それで「“ネオ・ビートルズサウンド”で、シンガーソングライター色を強く出そう」というコンセプトにして、厳選した、トーンの近い曲だけでまとめました。
完全に想定外だった「虹の都へ」大ヒット
──そういった初期の試行錯誤を経て、一番最初に「高野寛」という名前が世間に大きく認知されたのは、やはり1990年の「虹の都へ」ですよね。
うん。そうですね。
──「虹の都へ」は大ヒットしましたけど……当時のヒット曲の中でもひときわ浮いていたように思いました。あの現象を高野さん自身はどういうふうに捉えていたんでしょうか?
いや、もう完全に想定外です(笑)。スタッフもあそこまでいくとは思ってなかったんじゃないかな。
──ものすごくメロディアスでサビはキャッチーなのに、全体的なムードはすごく不思議で。「他のヒット曲と違う!」というショックを受けたのを覚えています。
そうなんですよね。まあ浮いてるのは今も昔も変わらないけど(笑)。常に居場所がないんですね。あの曲はCMソングで、リリース前に「ねるとん紅鯨団」の枠で半年ぐらい流れたんですよ。僕自身も最初CMの曲として作ってたので全然気負いがなくて、なんか今思い出してもかなり職人ぽく作ってた思い出がありますね。
──15秒で完結するCM向けのポップスとして?
うん。ただ、歌詞はわかりやすくはないよね(笑)。あの曲の舞台は……「地球空洞説」ってSFがあるんだけど、その「地球の中の太陽が当たらない街」っていう設定をヒントにしていて。そんなこと誰も意識しないで聴いてたでしょう(笑)。
──このヒットがきっかけで、テレビに出演する機会も多かったですよね。テレビ出演は当時の高野さんにとって苦痛でしたか?
うーん、楽しんでる余裕はなかったですよね。苦痛、というよりは緊張してましたね。
アーティストとしての立ち位置と時代の変遷
──1990年代の半ばぐらいになると中村一義さん、クラムボンといった下の世代のアーティストとの交流やスタジオミュージシャンとしての仕事が多くなりましたよね。
それもね、自分の中では自然なことで。やっぱりトッド・ラングレンにしてもYMOにしても、セッションとかプロデュースワークをしながら自分の表現をしていくっていう、そういう人たちの音楽を聴いてたから、自分もそうなりたいし、なっていくんだろうなと思ったんですね。ただ、レコード会社の人には「なんでソロアーティストとして活動してるのに、他の人のバックをやるんだ」って理解されていないところもあったけど。
──高野さんの自身の考えるアーティストのあり方としては、むしろ自然だったわけですね。
そもそも、自分のことをあまりボーカリストだっていうふうに強く思ってなかったのね。それに、今でこそ若いバンドのメンバー同士での交流なんていっぱいあるけど、あの頃はデビューしたらそれぞれ自分の世界で活動するっていうのが常識だったから。
──そういった意味では、この10年でアーティストを取り巻く環境は大きく変わりましたよね。
“コラボ”って言葉が一般的になったことも大きいと思う。当時はコラボレーションという考え方もあまりなかったし、宅録っていうのもなかったし……僕のスタンスを説明するのは結構難しかったですね。
CD収録曲
- Hummingbird
- LOV
- 道標(みちしるべ)
- Timeless
- 初恋プリズム
- each other
- CHANGE
- 今日の僕は
- 小さな"YES"
- 季節はずれの風吹く街で
- Winterlude
- PAIN
- 明日の空
- あけぼの
- Black & White
- 虹の都へ(ver.09)
ライブ情報
- 2009年11月13日(金)
東京 SHIBUYA-AX - 開場 18:30 / 開演 19:00
全席指定 5500円 (別途ドリンク代500円)
チケット発売中 - 2009年11月19日(木)
大阪 umeda AKASO (旧バナナホール) - 開場 18:30 / 開演 19:00
自由空間 5000円 (別途ドリンク代500円・整理番号付き)
一般発売日 2009年10月10日(土)
高野寛(たかのひろし)
1964年生まれ静岡出身の音楽家。1988年に高橋幸宏プロデュースによるシングル「See You Again」で鮮烈なデビューを飾る。1990年にリリースした「虹の都へ」のヒットにより、一躍脚光を浴びる存在に。90年代後半からはソロのみならず、ギタリスト/プロデューサーとしての活動をスタートさせる。また2000年に入ってからは、BIKKE(TOKYO No.1 SOUL SET)、斉藤哲也とともに結成したNathalie Wise、宮沢和史率いる多国籍音楽集団GANGA ZUMBA、高橋幸宏が結成したpupa(ピューパ)など、複数のバンドやユニットに参加。豊かな音楽的才能をさまざまな形態で発揮し続けている。