1983年に杉山清貴&オメガトライブのシングル「SUMMER SUSPICION」でメジャーデビューを果たした杉山清貴。近年では同バンドの7inchシングルをまとめたボックスセット「7inch Singles Box」、オリジナルアルバムの新ミックス盤など数々の作品が発表され、改めて注目を浴びている。そしてデビュー40周年を迎えた2023年5月、ニューアルバム「FREEDOM」と、全キャリアから選りすぐりの楽曲を集めたベストアルバム「オールタイムベスト」がリリースされた。
音楽ナタリーでは2作の発売を記念し、杉山へのインタビューを実施。近年のソロ活動を中心に、ニューアルバム「FREEDOM」とベストアルバム「オールタイムベスト」発売に際しての心境、杉山清貴&オメガトライブ以前に所属していたバンド・きゅうてぃぱんちょすを含むこれまでの活動について語ってもらった。
取材・文 / 秦野邦彦
杉山さん、自由にやってきたんだね
──デビュー40周年おめでとうございます。40年にしてニューアルバムのタイトルが「FREEDOM」というのは、とても素晴らしいですね。
ははは。これね、制作中はタイトルのことを全然考えてなかったんです。2017年に発表した「Driving Music」というアルバム以降、「MY SONG MY SOUL」「Rainbow Planet」と、Martin Naganoさんというプロデューサーと一緒に作っているんですけど、たまたま僕のアマチュア時代にやってたバンド、きゅうてぃぱんちょす時代の音源が出てきたから、Naganoさんに送ったらハマっちゃったみたいで。「あれ聴いてると杉山さん、自由にやってきたんだなと思って『FREEDOM』しか浮かばないんだよね」と言われて、アルバムタイトルが決まったんです。
──ぴったりのタイトルだと思います。「Driving Music」からの三部作に続いて、今作も楽しく聴かせていただきました。
どんどん新しい世界へ連れていってくれる気がしますね。「Driving Music」を作ったときにmanzoというアーティストを紹介されたんですけど、彼が作った曲にものすごく触発されて詞を書いたことで、自分の中で新たなAORの時代が始まって。続く「MY SONG MY SOUL」では前作のサウンドを踏襲しながら、澤田かおりさんに「月に口づけ」というそれまで歌ったことのないタイプのバラードをいただいて、「これまた新しい世界だね」って思った。「Rainbow Planet」も若い世代のアーティストが曲を提供してくれたので、さらに新発見があったし。それらが融合したアルバムが今回の「FREEDOM」なので、ちゃんと流れを追って作ってきたな、という感じです。
──今作「FREEDOM」の1曲目を飾る「Too good to be true」は作詞が杉山さん、作編曲が前作「Rainbow Planet」の収録曲「Other Views」でもタッグを組んだブルー・ペパーズの福田直木さんですね。さすが、あの若さでAORマスターと呼ばれるだけあって見事な完成度でした。
福田くんは本当にAORに詳しいんですよ。「なんでそうやって親父の心をくすぐるんだ、お前は?」みたいな(笑)。AORのいろんな話ができるから、すごく楽しかったです。そもそも何がAORなのか?というところを理解していないと、話に入っていけない部分はありますから。
──確かにAOR=アダルトオリエンテッドロックというジャンルは説明が難しいものです。
きゅうてぃぱんちょすもAORの元祖、The Doobie Brothersのコピーバンドとして活動を始めましたからね。僕は音楽の変遷が面白い時期に青春時代を過ごしていて、1970年代前半のストレートなロックの時代から始まって、後半になるとパンクが出てきて、いつの間にか流行のサウンドが優しくなっていったんです。それがだんだんAORというニュアンスになっていって……。
──今で言うシティポップの原点みたいなところにつながる。
いろんなジャンルがクロスオーバーして、のちにフュージョンになっていったり、刺激的でしたね。僕は1980年代前半までの音楽が一番好きなので、きゅうてぃぱんちょすの頃はそれを追求したいと思っていました。最近よく過去を振り返るんですが、当時は洋楽にどこまで近付くことができるか、日本の若いミュージシャンたちが切磋琢磨していた頃だったんですよ。だからこそ質の高い音楽が作れたんじゃないかと。それに加えて洋楽にはない、日本人の心に触れる切ないメロディラインが盛り込まれ、当時の若者たちに影響を与えたのが、たぶんシティポップだと思うんです。シティポップの楽曲の中で描かれているおしゃれな世界って、実際は1980年代にしか存在しなかったじゃないですか? そこから音楽だけが時代を超えて、令和の現代にやってきたのがちょっと不思議で。普通はファッションとかも一緒に再評価されますよね。でも、肩パッドの入ったジャケットを着てる人はさすがに今はいない(笑)。当時のコンサートに来る男性はみんな肩パッド入りのジャケット、パステルカラーのシャツ、裾の狭まった幅広のパンツを着ていたんです。まだまだ泥臭かった1970年代に対抗して、1980年代に入ってからは都会的にしたかったんでしょうね。それが音楽にもファッションにも影響したのかもしれない。
──きゅうてぃぱんちょすが目指していたのもAOR路線だったんですか?
その路線に行きたかったんですけど、僕含めメンバーは音楽の専門的な勉強をしてなかったし、一歩先へ行くには知識が必要になったんです。例えばCってコードがあったら、僕らはCやC7しか使ってなかったけど、メジャー7thだの11thだの、テンションコードが出てくると、それはもう勉強していないとわからないわけです。そこを乗り越えるには高い壁があって、知識がある人に教えてもらわないと無理なんですよね。限界を感じて、「俺たちはここまでしかいけなかったか……」ということで、きゅうてぃぱんちょすの活動を終了したら、ちょうどオメガトライブのデビューの話が来て。オメガトライブではいろんな音楽理論が勉強できて、そのおかげでアマチュアのロックンロールバンドではたどり着けなかった場所まで行くことができました。
──1970年代後半の音楽シーンを振り返ると、どこへでも自由に行けそうな、独特な空気感がありますね。
そうですね。きゅうてぃぱんちょすを組んだのが1977年だったんですけど、1978年に高校を卒業して「やっと髪の毛を伸ばせるね」とか言って、みんなでパーマをガンガン当てたし、高いヒールのブーツも履いたり。それが1980年代に入ると「さすがにもうこういう髪型はねえか」という話になって、みんなで髪を短くしましたね。でも抵抗があるから、襟足だけは伸ばしたり(笑)。たかだか4、5年の間で、若者のファッション感覚だけじゃなく、いろんなものが目まぐるしく変わったんです。「POPEYE」とか雑誌の影響はものすごく大きかったし、泥臭い時代から、しゃれた街とリゾート……みたいなムードに移行していく過渡期でした。
俺、よくこんな詞書けたな……
──1983年、杉山清貴&オメガトライブの登場で日本のポップスシーンが更新された感がありました。アルバムに収録されている「Too good to be true」では1992年生まれの福田さんとタッグを組まれましたが、いかがでしたか?
「Too good to be true」は曲をもらったとき、サビの頭で「good to be~」って言葉が思い浮かんで、そこから出てきたのが「Too good to be true」で。「人生は思っているよりいいもんだよ」「深く考えていないで生きていればよくなるんだよ」という感覚で使いたかったんですね。あとは「その言葉からどういう状況を作っていこうかな」となったときに、初めて言葉が降りてくる体験をしました。特にワンコーラス目のサビなんて「俺、よくこんな詞を書いたな」と思ってしまうぐらいで。ちょっと照れくさい世界観なんですけども、それが伝えたかったんだろうなって。
──40年活動してきたからこそ書ける言葉ですね。
だと思います。自分でも驚くほど客観的になれましたね。これまでの楽曲でも、「俺が詞を書きたい」と思った曲は絶対自分で担当してきたんです。なんか、相性みたいなものがあるんですよ。デモテープを聴いたときに「うわ、ここにいい言葉がハマっちゃった」「これは俺が書くしかない。ほかの言葉は乗せないで!」みたいな(笑)。そうなると自分で書いちゃいますね。オメガトライブの頃は林哲司さんが曲を書いてくれて、最初に作ったメロディの大事さはよくわかるんです。だからこそ、それをいかに崩さず、どこまで世界観を広げていこうか考えて詞を乗せますね。僕の作詞作業は書き始まるまでが長くて、1日中曲を聴いて、なんとなく頭の中で言葉がぐるぐる回っている中、書いては「違うな」を繰り返して、「これだ」と感じた言葉を当てはめていくんです。これが不思議なもので、一度書き出したら途中でやめて、次の日に続きを書くことは絶対にない。止まっちゃった場合は全部捨てるか、一部の言葉だけ拾い集めて再構築します。
──40年間で、作詞のアプローチの仕方で変わったと思われる部分はありますか?
オメガトライブにいたときはプロの作詞家が書いていたので、「こんなの書けるわけがねえ」という思いがハナからあったんです。特に1980年代のシティポップと言われるような時期の歌詞って、もう小説みたい。ただ気持ちを乗せるんじゃなく、ストーリーを描いているんです。だから「言葉のプロが書いてるもんな……」「俺にできるわけがない」と考えていたので、当初作詞については全然興味がありませんでした。そこからソロになって、「歌詞は自分で書いたほうがいいかな」と思って書き始めるんだけど、うまく思いが伝えられない、いい言葉が当てはめられないっていうのをずっと繰り返していくうちに、なんとなく作詞のコツが見えてきた気がします。
──杉山さんと作詞家の松井五郎さんはアマチュア時代からの友人で、1980年にきゅうてぃぱんちょすで「ヤマハポピュラーソングコンテスト」に出場したときに披露した曲「乗り遅れた747」は松井さんが作詞、杉山さんが作曲をしました。その後も松井さんとは数多くの曲でご一緒されて、最近では2020年発表の配信シングル「Hand made」では作詞を松井さん、作曲をきゅうてぃぱんちょすの2代目キーボーディストだった千住明さんが手がけて話題になりました(※「Hand made」はベストアルバム「オールタイムベスト」にも収録)。
松井くんはアマチュアの頃から作編曲しつつギターも弾いてましたけど、やっぱり詞はダントツでしたからね。彼以外にも、周りにはギター、ボーカル、作曲、アレンジ力がすごいやつがたくさんいたので、刺激になりました。そういう積み重ねはあると思います。
男臭さが似合わない杉山清貴×成田忍コンビのソウルチューン
──1980年代に4-DやURBAN DANCEで活躍されていた成田忍さんとの出会いも刺激的でした。今作の「オレたちのナイトフィーバー」も意外性があって最高です。
成田さんは僕とは全然違う音楽ジャンルの人ですからね。彼がロンドンなら、僕はウエストコースト。成田さんの楽曲は世界観がしっかりしているから、「詞もぜひご自身で書いてください」と毎回言っているんです。ただ、僕はいつも成田さんが作ってくれた曲をレコーディングまでに覚えきれなくて。スタジオで成田さんが「そこはメロディがちょっと違うんで……」と指摘してくれて、「あ、すいません」って直しながらレコーディングしてきました。それは別に嫌なことじゃなくて、作った人の意思が反映されることだから全然いいんですけど、ちょっと悔しい気持ちもあって。だから「オレたちのナイトフィーバー」はいただいた仮音源を100%覚えて、ご本人がいらっしゃる前でガッツリ歌いました(笑)。実は成田さんが提供してくれた曲を歌っていくうち、「もう一発抜けると全然違うのにな……」と思うところがあって。それで「オレたちのナイトフィーバー」のレコーディングのとき、Naganoさんが「成田忍の世界にソウルはない。でもUKな男が書くソウルを聴いてみたいと思った」と話していたことを思い出して。試しに歌い方を変えたらばっちりハマって、すごいエモーショナルな男の世界になったんです。僕も男の友情は好きですけど、あんまりベタベタしたくないほうなので、男臭さが似合わない2人が男臭いソウルを作る意外さもあるのかなと。そういう意味では、「オレたちのナイトフィーバー」はアルバムのいいフックになったと思います。こういう勢いのある曲は前半に持っていきたくなるんですけど、あえて終盤に持ってきて、ラストはバラードで締めました。
──「Goodbye day」のトベタ・バジュンさん作詞、松室政哉さん作編曲という顔合わせも意外です。
トベタさんも若いのに、面白い感覚を持った人ですよね。彼はアルバム「Driving Music」制作時、成田さんが作ってくれた曲に詞を書いてくれたんです。それがすごくよくて、「こんなに甘い詞を書く人がいるんだ」と思った。「Goodbye day」はもともと僕が詞を書く予定だったんですが、あまりにも考えすぎて「これは無理だ」とNaganoさんに別の作詞家を手配していただいたんです。誰を選ぶのかなと思ったらトベタさんで、さすがでしたね。松室くんも若者ですから、若いエネルギーがあるメロディとリズムには、トベタさんの歌詞を乗せるのが正解だったんじゃないかな。
──松室政哉さんもいい曲を書かれるシンガーソングライターですよね。
ええ。彼が書いた曲を歌うのはいい挑戦になります。最近流行っている曲を家で聴くことがあるんですけど、チャートの上位に入るようなものは「ちょっと自分には若すぎるな」と思っちゃうことが多くて。それでYouTubeで松室くんの曲をいくつか聴くと、関連したミュージシャンがバーっと出てくるじゃないですか。それをいろいろチェックすると勉強になります。あとはアニメの主題歌は「今どきの音の世界は面白いなあ。こういう曲歌ってみたいな」とか思いますね。自分じゃ作れないけど、誰かが提供してくれたら絶対歌いたい。
──それはぜひ聴きたいです!
やってみたいですね。せっかくだから、なんでもやろうかな(笑)。