SHARE LOCK HOMES|急ピッチで上を目指す!念願のメジャーデビューで武道館達成を狙え

ニコニコ動画の「踊ってみた」動画で人気を集め、影山ヒロノブや遠藤正明のライブでバックダンサーを務めたことでも話題を呼んだ4人組ダンスグループ・SHARE LOCK HOMES。今年4月には自主音楽レーベル・What'son Recordsを設立し、初のフルアルバム「FRONTIER」を発表。そして12月、ドリーミュージックとタッグを組みメジャーデビューシングル「パリ↓↑パニ」をリリースした。怒涛の快進撃を見せる彼らだが、今年で結成14年目というキャリアを持ち、長い下積み期間を経験している。音楽ナタリーでは謎の多い彼らの経歴を、メンバー同士の出会いからさかのぼり解き明かしていく。

取材・文 / 真貝聡 撮影 / 中原幸

みんなYUMAの父親から逃げて上京(笑)

──結成14年目を迎え、満を持してメジャーデビューされたSHARE LOCK HOMESの皆さんですが、今日はその成り立ちもお伺いできればと思います。YUMAさんとSHIRAHANさんは中学の同級生なんですよね?

SHIRAHAN

SHIRAHAN YUMAとは中学2年生のときに出会いました。渡り廊下で急に肩を組んできたんですよ。

YUMA 「お前がシラハマか?」と言ったんだよね。

SHIRAHAN めちゃめちゃヤンキーノリっていうか(笑)。共通の友人がいまして、YUMAとは幼稚園、俺とは小学校が一緒だったその友人からYUMAの噂は聞いていたんです。その後3人とも同じ中学校に入って。で、ある日YUMAが肩を組んできたのをきっかけに話をするようになりました。

──中学生時代の忘れられないエピソードってありますか?

YUMA 文化祭でダンスパフォーマンスをやりたかったんですけど、その頃はまだダンサーというのが流行ってなくて、学内で踊ってるのは俺1人だったんですよね。当時はバンドブーム全盛期で、みんなバンドを組んでいたから「それならバンドと一緒にステージに立てたら面白いな」と思って、SHIRAHANに「バンドを組んでるよな? 俺が踊っているときにベースを弾いてくれない?」とお願いしたら、なぜか「イヤだ、俺も踊る」と言って。SHIRAHANはそのときに初めてダンスを踊ったんですよね。

SHIRAHAN YUMAの踊っている姿を見たら「こっちのほうが面白そうだぞ! 俺もやりたいな」と思ったんです。だから俺とYUMAの初ステージは中学の文化祭でしたね。

──中学卒業後、YUMAさんはダンスを極めるために山口県から上京するんですよね。

YUMA 思春期のときはみんなあると思いますが……当時、実は親父が嫌いで、実家から逃げたかったんですよ。正直、ダンスは半分言い訳でしたね。最初はめちゃくちゃ甘く考えてて、20代前半で売れるだろうと思っていたんです。だけど、現実はそんなうまくいかなかった。16歳のときにSHIRAHANと2人で上京をして、ずっと地獄を見てました。

──あ、2人で上京したんですか?

SHIRAHAN 当時、俺は高校に通っていたんですけど、途中でYUMAの親父から逃げたくなって(笑)。

──ハハハ。YUMAさんはわかるんですけど、SHIRAHANさんはよその家の親だから関係ないじゃないですか。

SHIRAHAN それがめちゃくちゃ関係あるんですよ。家族みたいな感じだったんで……。

YUMA

YUMA 親父が下関でイベンターをしていたんです。地元で行われるイベントにはどれも関わっていたから、俺だけでなく友人も絶対に避けて通れなくて……でも、親父は俺の人生でいろんなきっかけを与えてくれた人ではありますね。

──いろんなきっかけ?

YUMA 親父はイベンターだけでなくバンドもやっていたので、知り合いのバンドマンが頻繁に家に来てたんですね。俺はそれがすごく嫌だったんですよ(笑)。それでも自分は音楽がめちゃくちゃ好きで、「どうにか音楽に関われないかな」と思った小学5年生のときに、路上でダンスを練習している大人たちを見つけて「俺にもダンスを教えてください」と言ったんです。で、その路上ダンサーというのが俺やSHIRAHANの師匠で、RYOにダンスを教えた人でもあるんですよね。

──じゃあ、3人の恩師というか。

YUMA まさに恩師ですね。俺とSHIRAHANは中学を卒業してから真面目にダンスチームを組んで、まずは地元で活動を始めたんですよ。RYOはその頃の俺らのイベントに来ていたんです。

RYO 僕はサッカーで山口県の選抜にも選ばれて、将来はプロになるつもりだったんです。だけど「本当にプロサッカー選手になれるのか? ダメだったらどうする?」と考えて、ほかでがんばれることを始めたいと思いました。いろいろと模索していたある日、初めてクラブに足を踏み入れたら、ステージで踊っているYUMAとSHIRAHANを見つけて。2人が気になって、イベントが終わったあとに声をかけたんです。

YUMA ステージが終わってクラブを出たら、RYOがいきなり近付いてきて、鼻と鼻がくっつくくらいの近距離で「ダンスを教えてください!」って。

──それがRYOさんとの出会いだった。

RYO その後、2人は東京に行っちゃって。僕は僕でしばらく地元でダンスをめちゃくちゃがんばっていたんですけど、YUMAから「お前も東京に来いや」と誘われたんです。何度か断っていたんですが、最終的には2人と同じように、YUMAのお父さんから逃げるように上京しました(笑)。それで僕も合流して、チームを結成することになったわけですね。

想像してた東京暮らしと全然違う

──上京後はどんな感じだったんですか?

SHIRAHAN ひどいもんでしたよ。いきなりダンスだけで食えるわけじゃないので、仕事を探すところから始めました。

YUMA 仕事が見つかるまでは貯金でなんとか食いつないで、とにかくギリギリでしたね。電気やガスが止まるのはしょっちゅうでしたし、お風呂にも入れないから公園で体を洗うような生活を送ってました。16歳だから雇ってもらえる場所が見つからなかったんだよね。

SHIRAHAN 最初の頃は真面目にダンスの練習をしていたんですけど、途中からお金を稼ぐことに必死にならないと生活できなかったので、バイトをいっぱい入れていたから、家に帰ったあともクタクタで寝るだけになってましたね。地元にいたときは毎晩練習していたんですけど、そんな時間もなくなって。「せっかく上京したのに、これからどうなるんだろう」と思いながら日々の暮らしに追われていました。

YUMA 思い描いてた生活と違ったよね。

──それでも地元に帰ろうとは思わなかった?

YUMA 上京した身なので地元の人にはカッコつけたかったんですよ。たまに地元に帰ってイベントに出ていたんですけど、「向こうでいい感じにやってます」みたいに、めちゃくちゃ見栄を張ってました。

RYO

RYO まだ山口に残っていた僕からしたら、地元に戻ってきた2人は輝いて見えてました。東京のオーラを漂わせていたので「都会でがんばってるんだな。すげえな」と憧れるじゃないですか。その後YUMAに誘われて上京したら、想像していたのと全然違ったんですよ。

──「話が違うじゃん!」と。

RYO 今にも潰れそうな家に招かれて「お前は今日からここで暮らすんだぞ」と言われたのが押し入れで。「なんだよコレ!」って。

YUMA 2DKに5人で住んでましたからね。

RYO みんなでダンスができると思っていたのに誰も練習してないし、何もかもが違ったんですよ。

YUMA やっとショーケースに出られることになっても、チケットのノルマがあるわけですよ。当時、東京に知り合いなんていないから全然チケットが売れなくて。1回踊るのにポケットマネーの2万円を払って、誰も見てない空っぽのステージで踊る。そんなのが5年くらい続きました。

──そして2007年にSHARE LOCK HOMESを結成するんですよね。

SHIRAHAN 20歳の頃に結成しました。そこから7年くらいはたまにクラブに出て、バイトをしながら人脈を広げるためにいろんな飲み会の席に出て。でもお客を呼ぼうと飲み会に参加したのに、ただ財布からお金が消えていくだけで「何をやってるんだろう?」と思いながら不毛な時間を過ごしてました。

──当時はどういうパフォーマンスをしていたんですか?

YUMA 元SMAPの中居正広さんがやっているような、ロックダンスというオールドスクールなパフォーマンスをしてました。それもあってグループ名に「LOCK」を入れているんです。

──シェアハウスで暮らしているロックダンスチームだから、SHARE LOCK HOMESと。

YUMA 本当は成人式で1回踊るためだけに結成したんですけど、気付いたら13年も続いちゃってます。

「このダンスは真似できんやろ」「俺らは踊れるぜ」

──かなり下積みが長いと思うんですけど、最初の転機はいつでしたか?

YUMA ニコニコ動画ですね。ニコニコ動画は、画面の横に視聴者のコメントが流れてくるのがいいところで。今まではファンの声が聞けなかったので、動画投稿を始めたことで自分たちがどう見えているかわかったのは大きかったです。続けていくうちに視聴者の数も増えて、動画内でイベントの告知をしたら、東京で初めてお客さんを呼ぶことができたんですよ。

SHIRAHAN しかも自分たちの知り合いじゃなくて、動画で知ってくれた純粋なお客さんなんです。それが衝撃だったんですよ。

KARASU 知り合いの知り合いが観に来るのはわかるんですけど、まったく知らない人がお客さんとして来てくれるって、当時のダンサーからすれば信じられないことだよね。

──SLHがニコニコ動画を始めたのは2011年。2012年には踊ってみた動画「如月アテンション」が初のカテゴリランキング1位にランクインしますね。何が要因だったのでしょう?

RYO すぐハネたわけじゃなくて、ずっと圏外が続いてたんですよ。どうしたら100位以内に入れるのかめちゃくちゃ考えて、まずはサイト内で宣伝を打つ必要があった。ただ、SLHにスポンサーがいるはずもないので、とりあえず自らかき集めたバイト代7万円を宣伝費に突っ込んでみたんです。そしたら6位とか7位になったんだよね。それが最初の転機でした。

SHIRAHAN どう踊ったらお客さんは喜ぶのか、どうすればランキングが上がるのか、研究に研究を重ねていたんです。そのときにKARASUくんのことを知りました。KARASUくんは大阪で別のダンスグループを組んでいて、ニコニコ動画に映像を上げていたんです。当時はスキルフルなダンスをしている人が少なくて、みんな趣味感覚で独学のダンスをやっている中、ガッツリとストリートダンスのテイストを取り入れていてビックリしました。

KARASU

──KARASUさんはSLHのことをどう思ってました?

KARASU 当時、僕はヤマトという後輩にダンスを教えていたんです。「ダンスを発表する場がアンダーグラウンドだったらハードルが高いので、ニコニコ動画に上げましょう」と誘われて「ちなみに、こんな人が人気あるんですよ」といくつか動画を見せられたときに驚いたんです。「全然スキルもないし、カッコよくないやん。なんでこれが売れてるの?」って。そこで火が点いて「絶対に俺らのほうがすごいから動画を出そうや」と。

──本物のダンスを見せてやるよ、みたいな。

KARASU そうです(笑)。「ニコニコ動画のやつらには、俺らのダンスは真似できんやろ」と思ってました。そしたら後輩に「SLHというチームが踊ってますよ!」と教えられて。

YUMA ニコニコ動画内の「踊ってみた」カテゴリは自分で振り付けを考えて投稿するだけでなく、誰かのダンスを真似して披露する場でもあったんです。そこでKARASUくんは「踊れるもんなら踊ってみろ」と高度な振り付けを提示してきたから、「じゃあやってやろう」と完全コピーした動画を上げたんです。「踊れる人がいないと思ってたでしょ? 俺らはやれるぜ」って。

SHIRAHAN まだ面識はなかったけど、お互いにライバル視してましたね。

SHARE LOCK HOMES

YUMA 初めて会ったのがとあるイベントだったんですけど、なんかバチバチな雰囲気だったよね。

──そんな中、皆さんはいつ打ち解けたんですか?

YUMA んー……気付いたら仲よくなってました。

KARASU そうだね。なんやかんや絡むようになったら、ある日SLHのツアーに誘ってもらったんです。ただ、そのツアーというのが……めっちゃキツかったんですよ。

SHIRAHAN お金がなかったから西から東まで全部深夜バスで移動して。目的地に着くのは早朝で、みんなグッタリしてるわけですよ。どのお店も開いてないから公園に行って、本番を迎えるまでキャリーバッグの上で寝てました。そんな過酷なツアーを一緒に乗り越えたから、ツアーが終わった頃には戦友になっていたんです。そこから1年くらいは、ことあるごとにKARASUくんとSLHで踊っていて。お客さんからすれば「KARASUくんってSLHに正式加入してるの? してないの?」みたいな状態でした。それでSLHにはもう1人メンバーがいたんですけど、彼が抜けたあとにKARASUくんが加わりました。