MOROHAのMC・アフロが初主演を務める映画「さよなら ほやマン」が11月3日より公開される。
「さよなら ほやマン」は宮城県石巻のとある離島を舞台に、漁師の兄弟と東京からやってきたワケありマンガ家の共同生活を描いた作品。主演のアフロのほかに、メインキャストとして呉城久美、黒崎煌代、津田寛治、園山敬介、澤口佳伸、松金よね子といった個性的な面々が名を連ねている。アフロは監督を務めた庄司輝秋の熱烈なオファーを受けて出演を決意。島の外への憧れと葛藤、家族の絆とそれ故にのしかかる重責、震災が人々の心に残した深い傷跡にスポットを当てた本作で、両親を亡くし弟と懸命に生きる漁師・阿部アキラを演じた。
音楽ナタリーでは、映画界では“無名中の無名バンド”としてプロモーション活動に日々駆け回るアフロにインタビュー。長野県の田舎町から上京し音楽活動を続ける彼に、島の中で苦悩するアキラの姿はどう写っていたのか。震災とMOROHA、演技とライブの共通点、プロの役者の表現に触れて感じたことなどについて語ってもらった。
取材・文 / 秦野邦彦インタビュー撮影 / 大城為喜
映画「さよなら ほやマン」予告編公開中
「この役はアフロさんにしかできないので」
──アフロさんの初主演映画「さよなら ほやマン」、堂々とした演技で素晴らしかったです。
おー、よかった。ありがとうございます。10年くらい前から知り合いの映画監督やいろんな方に「役者に向いてるんじゃない?」と言われ続けてたんですけど、一向にその人たちはオファーをくれなくて(笑)。ずっと待ってたところで庄司(輝秋)監督が「この役はアフロさんにしかできないので」とお話をくださったので、すごくうれしかったです。
──とはいえ、それが主演となるとのしかかる責任も大きくなってくるのかなと思うのですが、出演を決めたきっかけはなんだったのでしょう。
最初にいただいた台本の表紙にでかでかと「ほやマン」と書かれてあって。タイトル的に少しB級の匂いがするじゃないですか。「もしかして俺の主演デビューは『ほやマン』じゃないかも?」と思ったんですけど、台本を読むと自分が指名された理由がよく理解できる内容だったので、ぜひやってみたいとオファーを受けることにしました。自分がアキラを演じることが決まってから書き足されたシーンもあるんですよ。自分で自分をビンタするシーンなんですけど、庄司監督は「アフロさんがアキラを演じるなら、このシーンもできる」と思ったらしくて。監督はMOROHAのライブに何度か来てくれているので、ステージに立つ自分の姿が「ほやマン」のプロットにハマったのかも。
田舎と都会、アキラに重ねた別世界の自分
──「さよなら ほやマン」は、庄司監督の故郷である宮城県石巻市の沖に浮かぶ網地島で撮影されました。監督が2013年に発表した短編映画「んで、全部、海さ流した。」とも共通するテーマの話でしたね。
「ほやマン」も東北の島の話で、海と向き合うシーンがたくさんあるので、そこで育った監督の内なる思いみたいなものが伝わってきました。俺は長野の山に囲まれた町で育ったから10代の頃は海と無縁だったんですけど、心境的にはアキラとすごく近いものがあるんじゃないかと思うんです。俺は山に「お前はどこにも行けないんだぞ」と言われ続けてきたけど、アキラは30年間ずっと海にそう言われ続けていたのかなと想像したりして。だから「ここじゃない、どこかへ」みたいな気持ちは共通して持っていたと思う。
──アキラが島から出ることができない生活の中、「クリエイティブな仕事をしたかった」とつぶやくシーンも印象的です。
田舎で育つと、実際にその目で見れる職業というのが学校の先生だったり、農協や役場の人、スーパーの店員だったり……1つずつ丁寧に並べても都会と比べたら圧倒的に少ない。逆に東京は数え切れないぐらいの職種に触れる機会がありますよね。街に設置されている看板1つ取っても、「定期的に広告が変わるってことは、これをデザインする人がいるんだな」と考える。そういうふうに想像力によって頭の中で職種の選択肢を増やせるのは東京のいいところだと思います。それは田舎にはないものだから、俺自身そういったところで葛藤したりして。それに俺は長男だから、じいちゃんから「お前は家を守れ」みたいなことを言われて育って、家族の絆が鎖になってしまうことってあるよなと考えたりもしました。
──MOROHAの「上京タワー」や「遠郷タワー」を聴くと、そうした思いが伝わってきます。
でもね、田舎に対して抱いていた葛藤は上京すれば全部解決すると思ってたけど、そんなこともなかったんですよ。さっき言った職業の数とはまた別の感覚で、自分の至らないところを「全部この町のせいだ」「俺はこんな田舎にいるからダメなんだ」と環境のせいにしていたけど、いざ自分が望んだ通り上京しても別に何かが変わるわけでもなかった。結局、俺は田舎のせいにさせてもらっていたんです。MOROHAのキャリアはその気付きから始まっていて。それでも田舎を蹴飛ばして出てきた以上、地元を懐かしんで、いいところだったと素直には歌いたくない気持ちもある。俺はアキラのことが長野から上京しなかった別の世界線の自分に見えるんです。だから20代前半の頃のアキラのことが気になって、もっと島を出たい気持ちが強かったんじゃないかなと思ったり。映画の冒頭でホヤの生態についての説明があるんですよ。最初はオタマジャクシみたいに海を泳いでいるけど、「ここだ」っていう岩場を見つけると定着して、背骨が溶けて、脳みそが溶けてなくなってずっとそこにいる……。「ほやマン」は「それは人間も一緒じゃないか?」と問いかけている感じがするんですよね。で、アキラは映画の序盤からもう脳みそが溶けてなくなってるんですよね。
──はい。
そこに東京から呉城久美さんが演じるマンガ家の美晴がやってきて、いろんな要因によってアキラは脳みそを取り戻していくんですけど、俺は最後にまた彼の脳みそは溶けてなくなってしまった気がするんです。最後は迷いがない、いい顔してるんです。そうなると脳がある状態とない状態どちらが幸せかはわからない。更に言えばきっとこの先もまた、アキラは脳みそが溶けたり、取り戻したりを繰り返したりするのかなと思っちゃいましたね。もちろん1つの壁を乗り越えたことによってまったく同じことで悩むことはなくなるかもしれないけれど、また何かのタイミングで「ここじゃない気がする」と思って、島を出て、仮にうまくいったとしてもまた別の場所で脳みそが溶けてなくなるんだろうなって。で、自分はどうだろう? 望んでいた東京の街に住んで音楽やって、外側から見たら自由に泳いでいるように見られてるかもしれないけど、実際のところルーティンになってないか? 俺もホヤの状態になっていないかな?と考えたりしました。この「脳みそが溶ける」っていうのは「納得する」と言い換えていいんじゃないかな。納得している状態を安定だとすると、選択肢が多くあることが、果たしていいことかどうかはわからないですよね。
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矛盾し続けるものに理解を深めていく