川添象郎&大郷剛インタビュー|YMO楽曲をアイドルがカバーするPrincessnext始動

荒井由実、Yellow Magic Orchestra(YMO)らそうそうたるアーティストを世に送り出し、数々の伝説を日本の音楽史に刻んできた川添象郎と、ファッションショー「GirlsAward」の立ち上げやアイドルグループ・放課後プリンセスのプロデュースで知られる大郷剛。2人は親子ほど世代が離れているものの、SoulJa「ここにいるよ」、そのアンサーソングである青山テルマ「そばにいるね」を手がけてヒットさせるなど、大きな接点を持つ。そんな川添と大郷が、YMO楽曲のカバープロジェクト・Princessnextを始動させた。

このプロジェクトで歌唱するのは、大郷が2021年に設立し、代表を務めている芸能プロダクションFORZA RECORDに所属するAMI、KARIN、YU、YUMIのアイドル4名。アイドルがYMOの曲をカバーするというこの斬新な試みは、どのような経緯でスタートすることになったのか。音楽ナタリーでは川添と大郷に話を聞いた。なお、取材場所は川添の両親である川添浩史・梶子夫妻が1960年に日本初の本格的なイタリアンレストランとして開店し、各界の著名人、文化人が集う交流の場として親しまれてきたキャンティ。そんな歴史ある場所で、川添の口から数々の伝説的なエピソード、大物たちの逸話が語られた。

取材・文 / 秦野邦彦撮影 / 吉場正和

SoulJa「ここにいるよ」ヒットの裏側

──SoulJa「ここにいるよ feat. 青山テルマ」を大ヒットさせた川添象郎さん、大郷剛さんのコンビが、このたびYMOとアイドルをキーワードに、新たなプロジェクトをスタートさせるとうかがいました。本題の前に、まずはお二人の出会いからお聞かせください。

大郷剛 知り合いのフラメンコギタリストが川添さんのお弟子さんで(※川添はフラメンコギタリストとしての肩書も持つ)、川添さんの話を聞いてこんなすごい人がいるんだと思って、ぜひご挨拶に行きたいと思ったのが最初です。2006年ですかね。そのとき自らスカウトして育成中のSoulJaがヒップホップアーティストながら、バイオリンやチェロも弾けるクラシックの教養がある子だったので、もしかしたら川添さんに認めてもらえるかもしれないと思い、インディーズで出していた音源と資料を持って一緒に挨拶に行ったんです。

川添象郎 僕はラップが大嫌いだったんですよ。あんな愚痴言ってるみたいなものが日本で大ヒットするわけないと思ってた。それでSoulJaの曲を聴いたら、案の定、暗い作品ばっかりでイヤになっちゃったんです。そこでハッと思いついたのが、絵で言うとラップがモノクロ、メロディが色彩感で、その両方を合わせたらお互いが引き立っていい作品になるかもしれないなということ。そのときたまたま佐藤博というスーパーミュージシャンが僕のところに来てたから、ちょうどいいからSoulJaやってよって。それで佐藤さんならではのメロディアスな要素と組み合わせて「ここにいるよ」という作品を作った。そして、そのときに参加したシンガーが青山テルマちゃん。

──青山テルマさんは現在「PRODUCE 101 JAPAN THE GIRLS」のボーカルトレーナーとしても若い女の子の間で大人気です。

川添 当時はまったく無名の女の子だったけど歌はうまくて。佐藤くんが連れて来るぐらいだからね。英語もしっかりしてるし。

左から川添象郎、大郷剛。

左から川添象郎、大郷剛。

大郷 SoulJaはメジャーデビューしていきなり「ここにいるよ」で売れたわけじゃないんです。1stシングル「DOGG POUND」のときは2000万円でバスを1台買って映画制作会社のロボットに改造を頼んで、金ピカのバスにムッシュかまやつさん、ミッキー・カーティスさん、細野(晴臣)さん、高橋(幸宏)さんを乗っけて渋谷を走るミュージックビデオを撮ったり、華々しくデビューしたんですけど、結果オリコン初登場100位だったんです。次に出したシングルも99位で。

川添 佐藤さんとSoulJaに任せたままできあがった作品を聴いたら、どうも帯に短し襷に長しで。決定的にダメだったのがラブソングが1曲もなかったこと。それでSoulJaに「ラブソングを1週間以内に作りなさい」と言って、できたのが「ここにいるよ」。自分の体験を歌にしたらしいんだけど、これはすごくいいねって話になって、案の定大ヒットしました。

大郷 実はあの歌、僕の体験も入ってるんですよ。当時仕事が忙しすぎて付き合っていた女性と別れてその話をSoulJaにしたら歌詞に使われたんです。「昔 君が俺の隣で座ってた席には もう誰もいないって」という歌詞は僕の車の話(笑)。

──そうだったんですね。

大郷 SoulJaは音楽的素養のある良家の子がラップをやってるところが魅力なんですけど、まだ若かったから本人はヒップホップの不良っぽい感じに憧れていて。それで当初担当していたディレクターはストリートのラッパーとして足りない部分を補わせようとしていたんだけど、むしろそこを目指したらダメじゃないですか。SoulJaの作曲能力やラップの方向性を引き出してくれたのは川添さんなんです。

川添 僕は100万枚売りたい人なんです。ヒットさせるのが目的だから、「あなたの世界のことなんて知らない。俺とやるならこういうふうにしてやらなきゃダメだよ」って。

大郷 「こんなのやったことない」「みんなやってないし」とか言うアーティストもいるけど、川添さんから出てくる意見のほうが新しいし、的確なんです。作る音楽も世代を超えて残り続けているじゃないですか。実際に川添さんの言う通りにやってみたらそれが正解だったと思えるんですけど、当時のSoulJaにはなかなかわからなかったみたいで。

川添 ジレンマが起きることは僕は百も承知なんです。いろんなアーティストとやってきたから。だけど僕は仕事に入ると「プロデューサーの言うことは全部聞いてくれ」って仕切り方をする。SoulJaも結果それでよかったです。「ここにいるよ」が大ヒットしたから。

大郷 よかったです。本当に。

大郷剛

大郷剛

川添 そしたら今度はユニバーサルJのレーベルヘッドから連絡が来て、青山テルマとソロアーティストとして契約したんだけど、なかなかヒットが出ないと。「ノルマをこなさないと他レーベルに移籍させられるから川添さん手伝ってくれませんか」と言われて、それで僕が作ったのが「そばにいるね」。これは「ここにいるよ」のアンサーソングにしたんです。「ここにいるよ」は男の子から女の子への曲で、それに対して「そばにいるね」は、女の子が「あなたのそばにいるから、安心して私と付き合ってよ」と語りかけるというコンセプト。そしたら有線で火がついて、CDの発売前に先行配信した着うたが20万ダウンロードいって初日でノルマを達成。あれよあれよと大ヒットしました。遠距離恋愛を歌った曲だから広告代理店に携帯電話のCMタイアップとして売り込んで、NTT DoCoMoの春のキャンペーンソングになったことも後押しになりましたね。

大郷 「ここにいるよ」のときもCMを狙ってたんです。MVに携帯電話が出てくるので、いろんなキャリアの機種で複数パターンの映像を撮っておいて、どこからお話が来ても大丈夫なように動いていたんですけど、うまくタイミングが合わなくて。それが「そばにいるね」のときに花開いた感じです。

川添 ああいうスーパーヒットは作品の出来とかプロデューサーの力だけじゃなく、世の中全体の流れの中にうまくはまったという偶然の部分が大きいですね。僕が昔やったYMOもそうです。日本が1978年、79年頃にようやく戦後の打ちひしがれた感じから抜け出て、電気製品で世界を席巻した。そういうときにコンピューターを使った電子音楽の作品を作ったから、ちょうど日本の状況とうまくハマった。そういうふうにシンクロしないとミリオンセラーなんてなかなか出ないです。

たまたまサルバドール・ダリがついて来た

──さかのぼると、YMO以前から川添さんと細野晴臣さんは縁があったんですよね。細野さんは、1971年に川添さんが立ち上げたマッシュルームレーベルからリリースされた小坂忠さんのソロデビューアルバム「ありがとう」や、4枚目のアルバム「HORO / ほうろう」の制作に参加したほか、大ヒットしたGAROのシングル「学生街の喫茶店」のベースも宇野もんど名義で弾いています。

川添 マッシュルームレーベルはミッキー・カーティス、内田裕也、木村英樹、僕の4人で立ち上げた日本で最初のインディーズレーベルです。木村英輝は芸術大学を出てロックのイベントプロデューサーをやって、今は京都で絵を描いてます。僕の自伝「象の記憶」の表紙や、プロデュース作品集「象の音楽」のジャケットも彼の作品。当時、「日本の音楽はダサいから、もっとカッコいいの作ろうよ」って話していたんだけど、みんなお金がなかった。それで村井邦彦に相談したら3日もしないうちに日本コロムビアに話を通して、始まったのがマッシュルームレーベル。いいレコードを作っていたんだけど、ちょっと早すぎたんですよね。お金がなくなっちゃって最後の1枚のつもりでやけくそで作ったのがGAROの「学生街の喫茶店」だった。村井くんと僕はそんなことばっかしやってました。土俵際で寄り切られる寸前で、うっちゃりみたいな特大ホームラン(笑)。

川添象郎

川添象郎

大郷 川添さんはそういう、あっと驚くような話が多いですよね。

川添 1969年に渋谷の東横劇場で上演されたロックミュージカル「ヘアー」の日本公演を僕がプロデュースしたときもそう。パリで「ヘアー」のリハーサルを観に行ったら、たまたま画家のサルバドール・ダリが一緒について来たんです。まったく面識もないのに。

大郷 それもすごい話だ(笑)。

川添 それでとても面白い舞台だったから、これを日本でやろうと思ってプロデューサーのベルトランド・キャステリのところに談判しに行ったら、ダリもついて来ちゃって。キャステリはダリのことばっかり見てましたね。そのおかげか僕も信用されて日本でやれることになった。「ヘアー」は大ヒットしたけど、芝居の素人ばかり集めてやったから、上演が終わったら残党がいっぱいできちゃって。その中にいたのが小坂忠や、のちにGAROを結成する大野真澄、堀内護といった面々。その流れで日本の新しい音楽がだんだんできあがってきたわけですね。