pinokoが1月22日に2ndアルバム「リバース」をリリースした。
トラックメーカーのillmoreやラッパーのケンチンミンらと共にライフスタイルレーベル・Chilly Sourceに所属するラッパーのpinoko。2018年10月に発表した1stアルバム「Hotel」は、心のひだをそのまま音源に刻みリスナーに突き付けるようなプリミティヴさも感じさせる作風だったが、新作「リバース」は表現方法がよりコントロールされ、リスナーへ向けてpinokoのメッセージをしっかりと訴求する作品となっている。音楽ナタリー初登場となる今回は、pinokoにラッパーとなった経緯を聞きつつ、「リバース」に込めた思いを語ってもらった。
取材・文 / 高木"JET"晋一郎 撮影 / 入江達也
手術が終わったらラップしよう
──pinokoというアーティストネームにはどういった意味が込められているんですか?
手塚治虫さんのマンガ「ブラック・ジャック」のピノコからきています。私、23歳のときに2つの病気が見つかったんですが、その1つが卵巣嚢腫という病気で。その話を友達にしたら、「『ブラック・ジャック』のピノコが生まれたきっかけの病気だよね。それをMC名にすれば?」って。卵巣嚢腫は卵巣の中にドロドロした未分化のものが溜まる病気なんですけど、自分の音楽もグチャグチャした気持ちやドロドロした部分を曲にする部分があるので、pinokoという名前にしました。
──子供の頃は和太鼓を習われていたそうですね。
その前にピアノもやっていたんですけど、私が育った地域に和太鼓で全国大会に出るような強いグループがあって、そこで和太鼓を習ってたんです。和太鼓って楽譜がなくて口譜で覚えるので、それでリズムキープとかが感覚的に習得できたのかなって。ただ、その住んでいた地域はクローズドな環境で、すごく抑圧を感じていました。とにかく周りになじめなくて、どこに行っても浮いちゃうというか。
──そういう感情や状況について、例えば日記にしたり言語化していたんですか? それとも頭の中で考えていた?
ずっと頭の中で考えてました。自分の思っていることをなかなか口に出せなくて、すごくモヤモヤした気持ちでしたね。田舎なのでヤンキーも多かったし、私もそういう友達も多かったので、見た目で判断されたりして、なんでなのかな……って。だから、高校も地元じゃなくて県庁所在地に近いところに通って。地元から遠くに行けば行くほどいろんな人がいて、自分を受け入れてくれる場所があるんだなって気付いて、18歳で東京に出たんです。
──ヒップホップやラップを聴き始めたのは?
中3か高1の頃です。DJをやってる友達がいて、その人が作ったミックスCDが出会いだったと思います。でも、音楽をジャンル分けして考えたことがなかったので、それがヒップホップだってわからずに聴いていたんですよ(笑)。小さい頃から母が演歌を聴いていたり、叔父が長渕剛を聴いていたりしてジャンルレスすぎて、子供の私は何がどのジャンルなのかわからないまま育ってきたんです。重視していたのは歌詞ですね。リリックが一番好きだなと思ったのは鬼束ちひろさん。言いたいことを直接言うんじゃなくて遠回りして表現するのが、すごく素敵だなと思って聴いていましたね。ヒップホップだと、私はギャルだったので(笑)、OZROSAURUSがすごく好きでした。
──15歳の頃から路上ライブもされていたそうですね。
フォークデュオという形でした。私が歌ってピアニカを弾いて、一緒に組んでいた人がギターを弾いていました。
──歌詞はそのときから自分で書いていたんですか?
自分でもちょこちょこ書いていたんですけど、本格的ではなかったし、歌詞もあんまりうまいこと言えないというか、自分の気持ちが出せなくて。
──なるほど。ではラップを始めたきっかけは?
23歳で病気になったときに「やり残したことはなかっただろうか」って考えたら「みんなでラップをしたかったな……」って。
──そう思ったのは?
上京してからできた友達にラップが好きな人が多くて、たまにカラオケにみんなで行くと、サイファーが始まることがあったんですけど、私は「いや、無理」って、いつもパスしてたんですよね。それが急に悔やまれて、手術が終わって元気になったらラップしようと思ったんです。
ダメな自分を肯定するリリックに救われた
──ラップには興味があったけど、一歩踏み出す勇気がなかったと。
そうですね。いろいろ重なって家から出られないような状態だったときがあったんですけど、そのときにヒップホップにすごく救われたんです。音源やライブを通してすごく人生観が変わったというか。それでラッパーの人たちはどういう気持ちで曲を書いたり、どういう生活をしたりしているのか会って聞いてみたい……と思ったんですけど、ファンとして会うんじゃなくて、ラッパーとして会わないと話をしてくれないんじゃないかなって。でも、ラップをやったこともないしな……と悶々としている時期に病気が発覚して、それならラップをやってみようと思ったんです。
──その当時会いたいと思ったラッパーは?
SALUさんと、電波少女のハシシさんです。ダメな自分を肯定するようなリリックがすごく響いたんですよね。けっこうメンタルが落ちやすいタイプなんで、当時はメンヘラって言われて傷付いてたんですけど(笑)、「落ちててもいいんだ」「メンヘラでもいいんだ」って。そういう部分に救われたし、そういう部分を出すことで救われる人もいるんだって思いました。だから私も「自分でいいんだよ」ってメッセージを曲中に絶対入れるようにしているところもあります。
──ラッパーとしての活動はどのように始めたんですか?
最初は「戦極シンデレラMCバトル」みたいなMCバトルにも出ていたんですが、「これは向いてない……」と(笑)。それでnanaっていうスマホのカラオケアプリがあって、曲を作ってそこに毎日アップしていました。nanaってそもそもカラオケアプリなので、曲を作っている人は少ないし、ラップを作ってる人はさらに少なくて。だから逆に注目してもらえたんです。そこでつながった人から「ちゃんと録り直してSoundCloudとかで世に出したほうがいいよ」ってアドバイスをもらって。それで、ちゃんと録ったのが「たばこ」(1stアルバム「Hotel」収録曲)だったんですよね。
──反響はありましたか?
「戦極MC BATTLE」を主宰しているMC正社員さんが発見して広げてくれたこともあって、反響はかなり大きかったですね。その後、新しくレコーディングして、自分でCD-Rに焼いて、コピーしたジャケットを付けて自主制作した「WING NOTE」が最初のリリースです。完全に現場での手売りだったんですけど、それでも3カ月で200枚を完売して。
──現場へのエントリーはどういう筋道で?
「『たばこ』をサンクラに上げたほうがいいよ」って言ってくれた人が、「tidal flow」っていうイベントをやっていたんです。そのイベントは踊Foot WorksやOZworld、唾奇とかブレイク前夜のアーティストをフックアップしているイベントだったんですよね。そこに呼んでもらったことをきっかけに、いろんなイベントのオーガナイザーとか箱の人に声をかけてもらえるようになって。
──その後、Chilly Sourceクルーに合流し、2018年10月に「Hotel」をリリースされますが、Chilly Sourceに合流したきっかけは?
クルーヘッドのKROさんが「いい曲があれば無料でミュージックビデオを撮る」という企画をされていて。私はそれまでMVを作ったことがなかったので、ぜひ撮ってほしくて、KROさんに音源を送ったんです。それでMVを撮るための打ち合わせで、Chilly Source入りを打診してくださって。私も入りたいと思ってたし、なんなら私のほうから言おうと思っていたところで言ってくださったので「ぜひ!」と。
──入りたいと思った理由は?
1人でやるのに限界を感じてた部分もあったんですけど、Chilly Sourceの作品に触れたら、どの曲も、どの映像もすごく自分が好きなタイプだったんです。お会いしたこともなかったから、どんな方たちかはわからなかったんですけど、こんな作品を作る人に悪い人はいないだろうと思って(笑)。
──「Hotel」をリリースされての感触はいかがでしたか?
今までグチャグチャしてまとまらなかった感情が曲になって、その曲たちが集まって1つになったのはすごくうれしかったです。制作もChilly Sourceのメンバーが手伝ってくれて。「いろんな思いが1つになるのはこんなにうれしいことなんだな」って本当に感動したし、自分にとってターニングポイントになった作品でした。
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「リバース」は複数の視点で客観的に描いた物語