大月みやこ デビュー60周年記念インタビュー「今が一番楽しいです」 (2/2)

使命は“歌の表情”と“日本語の豊かさ”を届けること

──10月6日に行われた60周年記念コンサートでは、セットリストに驚かされました。大月さんの代表曲のみならず、大正時代の流行歌や戦前の歌謡曲まで網羅していましたが、これはどういった意図があったのでしょうか?(参照:大月みやこ、17歳での歌手デビューから60周年を迎える「本当にずっと、幸せでした」

歌う曲の選定に関しては、私1人で決めたのではなく、長く一緒にやっているスタッフもいろんなアイデアを出してくれました。その辺りはチームとして動いている感じなんですよ。ご指摘の通り、今回のコンサートに関しては往年の名曲も多く含まれていました。これは結局、私が日本の歌謡曲というものに根ざしていたいからなんです。世の中から私は演歌歌手と呼ばれていますけど、自分の中では歌謡曲の歌い手という意識が強いかも知れません。

──コンサートのMCでも、「演歌」ではなく「歌謡曲」と表現していたのが印象深かったです。

誤解のなきように言っておきますと、演歌という言葉が嫌いなわけではないですよ。だけど、それこそ大正時代から綿々とつながっている歌謡曲の歴史が日本にはあって、そこには、日本ならではの感性や日本語の美しさがあって、長く愛され続けてきたと思うんです。私はそこが素晴らしいと思いますし、大事にするべきだという考えなんですね。

「大月みやこ60周年コンサート~このひと時 今もあなたと~」DVDジャケット

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──演歌というジャンルが定着したのは1960年代ですし、意外に歴史は長くないという説もあります。歌謡曲がその前から存在していることは間違いないでしょう。

それと、このコンサートの会場になった浜離宮朝日ホールは、クラシックでもよく使われる格調高い場所でしたでしょ。会場の厳かな雰囲気も利用させていただきながら、日本の歌謡曲の素晴らしさを届けたいという思いもありました。もっとも私としても、ここまで歌謡曲の原点に迫るような試みは今までしてこなかったから、大きな挑戦ではあったんですけどね。

──そうだったんですか。

秋のコンサートなどで1、2曲、大正時代の曲を歌うようなことはありましたよ。でも、ここまで大々的にやったのは初めてです。昔から存在する日本語の歌謡曲を、年月を重ねてきた今の大月みやこの声で歌うからこそ意味があると考えました。

──実際、日本の歌謡史にとっても非常に意義深いことをされていると思います。

話は戻りますが、私が大阪の歌謡学校に通っていたのは60年以上も前の話。だけど歌謡学校と謳いながらも、その当時に流行っていた歌謡曲を教わる機会はなかったんです。10歳とかの子供に向かって、当時からしても大人の流行歌だった「カスバの女」(1955年発表)みたいな曲の譜面を渡してくるんですよ。当時はコピー機もない時代だったので、課題曲の五線紙を必死になって写したことを覚えています。当然、子供だからそんな曲を知るわけないじゃないですか。それでも歌っているとすごく気持ちいいなと感じたことは確かなんです。私は今年で77歳になりますが、同年代の方よりも昔の曲に詳しいのはそういった理由があると思いますね。

──その話を伺うと、なおさら大月さんが歌謡曲の伝道師として適任な気がします。

レコードが普及する前の昔の曲は、ノイズまみれで録音状態もよくないし、歌い方も今とはだいぶ違うんですよ。それを今の時代に合うように、私なりの表現方法で伝えたかったんです。どんな感じに曲が生まれ変わるのか? それは私にとって、とても楽しみなことでした。

──そんなご自身にとっても新たな挑戦である60周年コンサートで、改めて発見したことはありますか?

それはやっぱり言葉の大切さですね。日本語という言語の美しさ。どこまでいっても私は日本の歌謡曲にある日本語の響きが好きなんですよ。

大月みやこの考える「歌手」とは

──60年前と現在では流行歌のあり方も大きく変化しています。今の音楽シーンは、大月さんの目にはどのように映っているんでしょうか?

時代が違うんだから、音楽の楽しみ方が違うのは当たり前の話なんです。人々の好みも時代によって変わってきますしね。そのことは私もすごく理解できますし、今の音楽を否定する気持ちは毛頭ありません。今の時代の歌い手だって、その人なりのポリシーを持っているはずだし、それは本当に素晴らしいことだと思います。全体として言えるのは、今はシンガーソングライターの方とかも増えて、自分で自分の音楽をトータルで作る傾向が強くなっていますよね。逆に私はスタッフの方を絶対的に信じて、どんな曲を与えられても全力でこなすようにしているんです。そのへんは大きな違いかもしれません。

──力点が違うということでしょうか。

「こういう歌詞は歌いたくない」「こんな曲調は好きじゃない」とは絶対に言わないようにしています。私は歌のプロなので、作詞家や作曲家の先生に希望を出すこともまったくありません。これがいいことなのか悪いことなのか自分でもわかりませんが、与えられた曲を自分なりに表現するのが歌手という考え方なんですよ。

──本当の意味でプロフェッショナルですね。

そのへんは春日八郎さんと三橋美智也さんの影響が大きいかもしれませんね。デビューしてからの私は、同じレコード会社の大スターである春日さんと三橋さんの前座を務めることがすごく多かったんです。当時は専属システムというものが明確に作られていて、コロムビアさんやビクターさんといった別のレコード会社に所属する歌手の方と一緒に歌う機会は少なかったんですよ。

顔と同じように歌にも“表情”がある

──先ほども「キングレコードに“入社”」と発言されていましたが、正確には所属アーティストですよね。やはり当時は“チームの一員になる”という感覚だったのでしょうか。

当時ですら「入社」という言い方をしている人は珍しかったかも(笑)。でも私としては、それくらいキングレコードのスタッフさんを信用していたんです。まだ17歳で社会の常識もわからなかったですし。だからこそ、春日さんと三橋さんからは地方巡業で本当に多くのことを学ばせていただきました。お二人が楽しそうに歌っている生のステージを観てしまったら、「ダメだったら1年で大阪に帰ろう」なんて甘い考えは吹っ飛びますよ。

──そこまで圧倒的でしたか。

ええ、感動します。お客さんも本当に心から喜んでいて……。巡業だから、毎日のようにお二人の歌声を聴けるわけじゃないですか。それがまったく飽きないんです。当時の私はせいぜい1曲歌えるくらいの立場でしたけど、毎日がすごく幸せでしたね。本当に楽しかったです。

──まさに大月さんの原点ですね。演歌は「生き様が反映される」とよく言われます。例えば大月さんが悲恋系の曲を歌っているのを聴くと、「この人はどれだけ苦しい恋を乗り越えてきたんだ?」と感じることがあるんですよ。

そういうの、私に関してはまったくないです。普段の生活は普段の生活でしかないので。

──では逆に、どうしてあそこまで人の心を揺さぶるように歌えるんですか? 思い切り感情を込めているようにしか思えないのですが。

歌に感情がこもっているかどうかは、聴いてくださる方が判断することなんです。歌う側が押し付けるのは絶対に違うと思うんですね。もちろんプロである以上、新しい曲をもらったら全力でどう歌うかを考えますよ。そして自分なりの表現を作っていくことになります。だけど、その過程をお客さんに見せてはいけない。押し付けない。自然に感じていただきたいんです。例えば「この曲に出てくる主人公の女性は、こう感じているに違いない」と自分で解釈します。それを伝えるのが歌ですから。

──含蓄のあるお言葉です。

顔に表情があるように、歌にも表情があるんですよ。そして言葉にも表情はある。昔、レコーディングでバンドの方にうらやましがられたことがあるんです。「歌手の人は言葉があるから幸せですね」って。その方が言うには「楽器というのは必死で悲しく演奏したり、楽しいニュアンスで演奏したりしても、伝わらないことが多い」と。言葉を持っているというのは、歌い手にとって最大の武器だというわけですよ。ハッとしましたね。

──同じ「さよなら」という言葉でも、別れ話で泣きながら言われるのと、小学生が下校時に言うのでは意味合いがまったく違ってきます。

そうそう。さらに言えば、笑顔で「さよなら」と口にしても、それは強がっているだけかもしれないわけで。そうすると、印象としてはさらに悲しくなりますよね。それが私の言う言葉の表情。だから、大事なのは言葉の響かせ方なんですよ。何が悲しいのか? どう我慢しているのか? それを考えながら表現を作っていくのが、歌で一番面白いポイントでしょうね。

──お話を伺ってエンタテインメントの真髄に触れた気がします。演歌は昔から根強いファンがいますし、今はサブスクやYouTubeなどで海外や若い世代にもリーチしやすくなっています。今後、演歌はどうなっていくと思いますか?

わかりません(笑)。私もそれを探っている最中ですから。時代によって流行歌のスタイルが変化するのは当たり前ですし、おそらくそれは今後も続く話だと思うんですよ。でもどんなに音楽ジャンルが広がっていっても、歌というのは同じところに行き着くんじゃないでしょうか。つまり聴いていて楽しくなったり、感動したり、感情を揺さぶられるのが歌ということですから。その中で私は繰り返しになりますが、日本語の響きを大切に歌っていきたい。それが私の一貫したテーマですね。

プロフィール

大月みやこ(オオツキミヤコ)

1946年4月23日生まれ、大阪府八尾市出身の歌手。1964年にシングル「母恋三味線」でデビュー。芸名は当時の大阪における2つの有名レコード店「大月楽器店」「ミヤコ」にちなむ。趣味はゴルフと車で、好きな食べ物は魚、野菜、果物。デビュー20年目のヒット作「女の港」で、1986年の「NHK紅白歌合戦」に初出場を果たした。「紅白」には1996年までに10回出場し、1992年には「白い海峡」で、「第34回日本レコード大賞」を受賞。2008年には東京・国士舘大学世田谷キャンパスで自身初の学園祭ライブを行った。2016年に文化庁長官表彰、2017年に旭日小綬章を受賞。2023年6月に通算136枚目のシングル「今も…セレナーデ」を発表した。10月にデビュー60周年記念コンサート「このひと時 今もあなたと~」を開催し、大正時代から現代に至るまでの歌謡曲の数々を披露した。2024年3月に、この公演の模様を収めたDVDとライブCDと、ニューシングル「恋人のように…」が同時発売される。