歌手・大月みやこを知る人の多くが思い浮かべる楽曲は、ヒット曲「女の港」だろうか。1964年、17歳でデビューしてから今年で60周年を迎えた大月。代表曲である「女の港」がヒットしたのは1983年、デビューからほぼ20年というタイミングだった。今の時代に置き換えてみると、活動を続けて20年で“やっと”ヒット曲が生まれるという状況は、想像を絶する苦労があったようにも思える。しかし、本人はいつだって「歌うことが楽しい」と思っていたそうで、それはデビュー60周年を迎えた今も変わらないようだ。
音楽ナタリーでは、長年のキャリアを誇る大月に初インタビュー。日本語の持つ美しさを含め、日本の歌謡曲を“歌いつなぐ”というテーマを持って70代になってからもはつらつと活動する彼女は、本当に歌うことがずっと楽しかったのか? そんな素朴な疑問を抱きながら話を聞いてみたところ、「歌うことが楽しい」と思えるその理由が言葉の端々から見えてきた。
取材・文 / 小野田衛
60年歌い続けて「今が一番楽しい」
──デビュー60周年、おめでとうございます! 最前線で60年活躍してきたことは、改めて言うまでもなく偉業だと思います。今も現役でステージに立ち続けていることを、ご自身ではどのように捉えているのでしょうか?
特に感慨はないんですよね。周りから「60周年だ」と言われると、確かにその通りではあるんですけど、だからって何も思わないというか……。私が17歳のときにデビューしたのは事実ですよ。その当時のことも100%に近いほど覚えています。そこから毎日毎日が楽しかったし、1年1年が楽しいまま過ぎていったような感覚があるんですよ。そしてはっきり言えることは、今が一番楽しい(笑)。
──挫折を味わったり、歌を辞めようと考えたりしたことはなかったんですか?
それがまったくなかったんですよね。ただただ楽しいだけの60年。自分でも恵まれていると思います。
──素晴らしいことです! 楽しみを持続する秘訣はあるんでしょうか?
どうでしょうか……。とりたてて何も考えていなかったんですけどね。そもそも私、歌手になろうと思ってなったわけじゃないんですよ。上京してすぐにキングレコードに入社して、いきなり「大月みやこ」という芸名をいただいて、気付いたら世に出ていたという感じなので。歌手になりたくてもなれない方も大勢いらっしゃる中で、こういう言い方は生意気に映るかもしれませんけれど。
歌の道をあきらめるきっかけがほしかった10代
──大月さんは6歳から大阪の歌謡学校に通っていたそうですね。その学校でほかの生徒たちはプロ志向が強かったそうですが。
確かにそうでしたね。というのも、当時は歌謡曲の全盛時代。ラジオをつけると、歌謡曲が毎日頻繁に流れている状況だったんです。ただ一方で私は完全に習い事感覚で歌を続けていたので、それを職業にするという発想はなかったんですよ。もちろん歌うことは大好きでしたけど。
──では、なぜデビューすることに?
自分の意思で、キングレコードのオーディションを受けたことは事実です。なぜ受けたかと言うと、歌を辞めるきっかけがほしかったんですよ。
──辞めるきっかけとは?
当時の私は高校2年生で、将来の進路も決めなくてはいけない時期。具体的には就職か進学かということになりますが、私の場合、健康問題も抱えていたんです。これがけっこう大きかったかもしれない。学校の体育も見学ばかりで、みんなと同じように遊ぶこともできなくてね。非常に暗い青春時代でしたよ。でも、だからこそ歌うことが救いになっていた部分はあったんです。
──なるほど。切実な問題ですね。
私の病気は呼吸に関わるもの(肺浸潤)でしたから、お医者さんからは「歌は辞めろ」と言われていました。でも当時の私としては歌を奪われたら、それこそ何もなくなってしまうような感覚で……。歌は好きではあったものの、これを職業にすることはできないというのは、そういった体力面でのあきらめが大きかったんです。
──つまり自分の気持ちに踏ん切りをつけるために、オーディション受験をしたということですか。
そういうことです。どうせ受かるわけないと思っていましたし。少なくとも「このチャンスをモノにしてやる!」みたいな意気込みは皆無でした。ところが実際にテストを受けてみると、「いい声をしていて素質があるから、東京に来てみませんか?」とお声がけをいただきまして。最初はお断りさせていただいたんですけどね。でも、説得されているうちに「とりあえず1年くらいやってみて、ダメだったら大阪に戻ればいいや」という軽い気持ちで上京することにしました。
──そこからトントン拍子にデビューが決まったわけですね。
最初はけっこう厳しいことを言われたんですよ。「歌手になる道はとても厳しい。しっかり作曲家の先生から稽古を受けなくてはいけない」といった調子で脅されました(笑)。右も左もわからない状態のまま、母と一緒にアパートを借りて東京に住み始めたんです。
──どのあたりにお住まいだったんですか?
恵比寿です。当時の恵比寿は今みたいな高級住宅街ではなかったですけどね。大阪の歌謡学校の先輩、香川匂子さんが先にコロムビア・レコードからデビューされていたので、そのアパートを探してくれたんです。もうそこからは急ピッチで話が進み、「髪が長すぎるから美容室に行って切ってくれ」とか言われましてね。3月に高校を卒業して、上京したのが3月末から4月にかけて。そして4月の7日か8日にはレコーディングしていました。スタジオに入ると、すでに4曲くらいアレンジされた曲ができあがっていましたし。
──さんざん「デビューするまでが大変だ」と脅されていたのに(笑)。デビュー曲「母恋三味線」が出たときは、レコード屋で様子を見たりもしました?
自分でも買いました(笑)。確か当時はシングル盤1枚が240円くらいだったかな。そこからわりとすぐ300円に値上がりした記憶があります。
幸せを感じる瞬間はレコーディング
──そこから60年が経ち、最新作の「今も…セレナーデ」は136thシングルですからね。これだけの大御所なのに、コンスタントに新曲を出すのは稀有なことじゃないでしょうか。
枚数を出せばいいという話でもないですが(笑)。でも振り返ってみると、確かに少しの例外を除けば毎年1枚は出していますね。昔は2カ月に1枚くらいのペースで発売していました。まあそういう時代だったということですよ。
──「今も…セレナーデ」ではラテン調のリズムにチャレンジしていますが、キャリアをたくさん重ねてもレコーディングのたびに新しい発見があるのでしょうか?
ものすごくありますね。歌手をやっていると、いろんなところで歌う機会があるんですよ。例えば「満員のお客様が会場に来てくださって、その前で歌うのが一番気持ちいいんじゃないですか?」なんて言われることがあります。あるいは「テレビの収録だと観ている人の数が段違いだから、やりがいがあるのでは?」とか。もちろんコンサートもテレビもそれぞれ違った魅力があるんですけど、私はレコーディングで歌うときが一番幸せを感じます。
──意外ですね。そういうものなんですか。
ほかの方はわからないですけどね。レコーディングでは、歌い方を工夫しながら自分で世界観を作れるじゃないですか。「作る」っていう言い方は変かな。でもイメージを膨らませて、それを歌という形にしていく工程が楽しくて仕方ないんです。
自分が気持ちいいだけじゃダメ
──そこに歌い手としての充実感を覚えるということですね。
昔はそんなふうに思わなかったんですよ。若い頃はテクニックもなかったし、ただ単純に上手に歌いたかっただけ。私が通っていた歌謡学校は、呼吸法や発声法から始まって、譜面の読み方とかを勉強していくところだったんです。だからレコーディングでもマイクを吸わない(ブレスノイズを入れない)ように気を付けたり、きれいに歌うことばかり考えていたんですね。だけど、あるときから意識が決定的に変わったんです。
──どのように変化したんでしょうか?
歌は自分が気持ちいいだけじゃダメなんですよ。聴いてくださっている方が「ああ……!」って大きくため息をつくような、そういう歌を届けるのが大事なので。それは作曲の先生やスタッフからも言われましたね。その言葉を聞いたとき、私はかなりショックを受けました。いまだに私は歌の正解がわからないでいるけど、そこは大きな転換点だった気がします。
──改めて深い世界ですね。歌に説得力が備わっていないといけないわけですから。
私の歌を聴き終わったあと、お客さんが「うん、うん」って感じでうなずいてくれたことがあったんですよ。それまでそんな経験をしたことなかったので、びっくりしました。作詞家や作曲家の先生方は「大月にいい歌を歌わせたい」と思って書いてくださるわけじゃないですか。それなのに私が独りよがりに気持ちよくなっていたら、曲がかわいそうですよ。ちゃんと聴いてくださる方に届けるのが歌い手の使命なんです。
──そのことに気付いたのは、キャリア的にどのタイミングですか?
恥ずかしい話ですが、だいぶあとになってからですね。デビューから20年くらい経った頃かもしれません。
──ちょうど「女の港」がヒットして、「NHK紅白歌合戦」に初出場した直前くらいですか。大月さんを映像でチェックしていて驚かされるのは、同じ曲でも年代や会場によってまるで歌い方が違っていることなんです。これは公演ごとに変化を加えているということなんですか?
自分ではあまり深く意識していないんです。でも同じ会場でも来てくださる方が違ったら雰囲気が変わるのは当たり前だし、そうなると自然に歌い方も変わってくるんでしょうね。どんな場所でも、歌えることは幸せですよ。単純に楽しいんです。その気持ちは、デビュー前の歌謡学校時代から一切変わらないです。
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使命は“歌の表情”と“日本語の豊かさ”を届けること