大江千里が今年5月デビュー40周年を迎えることを記念して、コンセプトアルバム「Class of '88」をリリースした。
このアルバムには、大江がポップシンガー時代に発表した楽曲をジャズ流にリメイクしたセルフカバーや新曲、日本盤ボーナストラックを含む計12曲を収録。大江の過去と現在の音楽性が同居する、“NEW SENRI JAZZ”アルバムとなっている。
そんなアニバーサリーにふさわしい作品を完成させた大江の魅力に迫るべく、音楽ナタリーでは「Class of '88」のジャケットイラストを描き下ろしたマンガ家・江口寿史との対談を企画。2人の“せんちゃん”に、青春時代を過ごした80年代カルチャーのこと、音楽やマンガとの向き合い方、「Class of '88」の制作背景について放談してもらった。
取材・文 / 秦野邦彦撮影 / 臼杵成晃
32年ぶりの再会にバタバタ
──本日は“せんちゃん”対談、よろしくお願いいたします。
大江千里 先ちゃんと千ちゃんですね。
江口寿史 大江さんの“千ちゃん”は本名ですから。僕の“先ちゃん”は先生ほど偉くないから先ちゃんで(笑)。
──昨年12月の大江千里トリオのライブでひさしぶりに直接お会いされたそうですね。
江口 32年ぶりでしたね。
大江 歌わずにピアノを弾くジャズのコンサートにお誘いして、果たして来ていただけるのかなって半信半疑だったんです。だから楽屋で顔を見たときは本当にうれしくて。時間がギュッと縮まった感じで、お相撲さんに触れるみたいな感じで2人でバタバタしてました(笑)。
江口 千里さんの動向はずっと気にしてたんですよ。
──まずは出会いからお聞かせください。
江口 1988年に「シンプジャーナル」という音楽雑誌で対談させていただいたのが最初です。2人とも黒縁メガネをかけてたから“兄弟対談”みたいなキャプションを付けられて(笑)。千里さんが、ちょうど出たばかりの僕の「江口寿史のなんとかなるでショ!」という単行本を夜中のコンビニで買った話をしてくれたんですよね。
大江 ええ、本屋が開くまで待ちきれなくて(笑)。
江口 僕が32歳。千里さんは20代?
大江 28歳ですね。そのすぐあとに「月刊カドカワ」で絵を描いていただいたり、マンガ家入門企画で江口先生の仕事場にお邪魔して指導していただいたり。
江口 けっこう無理のある企画でしたね。仕事場に来て1時間でマンガを描けとか。
大江 しかも内容が小室哲っちゃんに「渡りタコ」(当時流行していたキャバクラ)に連れて行かれた話。
江口 絵も内容も斬新でしたよ(笑)。でも、あの頃はポップスターとして一番忙しかった頃じゃないですか?
大江 そうですね。88年はアルバム「1234」が出て、「納涼千里天国」(以降、夏の恒例となるライブイベント。第1回は群馬県浅間高原で開催)が始まって、鈴木保奈美さんや三上博史さんが出てたドラマ「君が嘘をついた」に役者で出演して。そのあと初めてニューヨークへ行って、僕はいつか英語も音楽ももっとレベルを上げてここで通用するようにならなきゃと思いながら、そのときはニューヨークの圧倒的パワーに打ちひしがれて帰国するわけですけど。
魅力はさわやかなルックスと相反するドロドロ
江口 先日「Newsweek」に寄稿された坂本龍一さんへの追悼文を読みましたけど、意外でした(参照:ニューズウィーク日本版 大江千里から坂本龍一への追悼文)。坂本さんとあんなに濃密な交友があったなんて。
大江 ニューヨークにアパートを借りて生活を始めたのは、教授(坂本龍一)との出会いも大きいですね。4年前、最後にお会いしたときに「LINEを交換しよう」と言い出してもらって、その夜、教授のほうから連絡をいただき、LINEで会話をしました。どんな内容だったかなと改めて調べてみたら3時間やりとりしてるんです。
江口 音楽の話ですか?
大江 ほとんどがジャズの話でした。「ビパップが好きなの? いつから?」「マイルス・デイヴィスはいつの時代が好きなの?」とか。
江口 質問攻めなんだ(笑)。そういえば「月刊カドカワ」の取材のあと、深夜に大江さんが「今、神戸のホテルに1人でいて」って僕のところに電話をかけてこられたことがあります。覚えてますか?
大江 「寂しい」って?
江口 そんな感じ(笑)。疲れてるのかなと思ったよ。
大江 きっとすごくドキドキしながらかけたと思います。よく「今、長崎なんだけど」って小室哲っちゃんにかけたりしてましたね。なぜか前田日明さんにも電話をかけたこともあります。
──大江さんと坂本さんは、YMOのツアーサポートをされていたギタリストの大村憲司さんが大江さんのデビューアルバムをプロデュースした縁で交友が始まったそうですね。江口先生も当時、大村さんの「春がいっぱい」(1981年リリース)、坂本龍一さんの「B-2 UNIT」(1980年リリース)を愛聴盤として作品の中に登場させていました。
江口 僕は千里さんの作品はデビュー作からずっと聴いてますから。
大江 恐縮です。
江口 曲も面白いけど、詞がすごくよくて。言葉に違和感があるところが魅力でしたね。さわやかなルックスと相反する、ドロドロ具合がすごくいいなと思って(笑)。
大江 関学(関西学院大学)の軽音時代のテープを聴いたら、今よりもっとシャウトするような歌い方だったんです。ただ、いきなりこの路線でデビューするのはさすがにダメだろうと。ちょっと高めの声でビブラートをかけずに歌うという感じでやってたんですけど、エピックの小坂洋二さんにはボーカル録りのときに「ちょっとやりすぎてお小姓みたいになってるから、声を下げて普通に歌ってくれ」と言われて。お小姓ってなんだろうと辞書で調べてみて、ああそうかと。
──デビュー曲のタイトルに「ワラビー」が入ってることも当時画期的でした(1983年5月発売のシングル「ワラビーぬぎすてて」)。
大江 おしゃれだし、ちょっと神秘的な響きだからってそのときは思い、タイトルにしたら「ワラビーってなんだろう?」って話題になるんじゃないかなと思ったんです。だけどNHKのオーディションに行ったら「ワラビーはクラークス社の商標だから歌えない」と現場で言われ、急遽「海開き山開き」を歌って合格したなんてこともありました。
江口 そういうさわやかなシティボーイ的な売り方は、千里さん自身も関わっていたんですか?
大江 関わってました。東京に行くときも一生懸命おしゃれして、大阪のナビオ阪急で買った折り返しの部分がチェックのパンツをはいて、プルオーバーシャツをインして、チューリップハットかぶってエピックに行ったら、とある芸能事務所の社長さんに「うわー、大阪っぽい子が来たねえ」って言われて頭の中ブチッとキレてました。せっかくおしゃれしてきたのに(笑)。
江口 くいだおれ太郎みたいな扱いをされたんだ(笑)。今の話を聞いて、ご自分で考えられていたのはすごいなと思いました。あのさわやかなイメージはイヤイヤやらされてんだろうなと思っていたので。だから「乳房」(1985年リリース)を出したとき、「ああ、やっと自分のやりたいことができたのかな」みたいな。あのタイトルもすごいですよね。攻めてんなあと思った。
大江 攻めた結果、いきなり売り上げがボンと落ちて(笑)。
江口 あのへんからさらに好きになりましたけどね。「OLYMPIC」(1987年リリース)とか「1234」(1988年リリース)とか。
わざと演出していた軽薄さ
──近年、シティポップを筆頭に80年代カルチャーが若い世代に人気ですね。
江口 僕らが50年代に憧れたような感じなのかな? イラストの世界でも僕が描いてたような80年代のタッチがまた若い子たちの間で流行っていて、それを僕もわざとやったりしてますけど(笑)。たぶん千里さんも当時は軽薄な感じをわざと演出してた感じがありますよね?
大江 ええ、ありました。
江口 僕は当時「わたせの国のねじ式」という、わたせせいぞうさんの作風を揶揄するようなマンガを描いたんですけど、誤解しないでほしいのは、わたせさんのことはすごく好きなんです。あれはギャグマンガ家である俺の役目として揶揄しなきゃいけないみたいなところがあったんです。
大江 わたせさんの世界にはトイレがないっていうね(笑)。僕も「red monkey yellow fish」(1989年発売の8thアルバム)を出したときに江口さんにマンガを描いていただいて。90年代、岡村靖幸くんの家に遊びに行ってトイレに入ったら、一番上に江口さんが描いた僕のイラストが飾ってありました。その日、岡村ちゃんは「大江千里が好き! 好き!」ってシャウトしながら僕の曲だけをつないで僕だけのためにDJしてくれて、僕ひとりがお客さんで拍手を送るという(笑)。今でも覚えてるけど、最後の曲は「塩屋」でした。
江口 「塩屋」ね。いいじゃないですか。
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僕の周りには千里さんファンが多い