いきなり失踪したんです
宮藤 大江さん、今はジャズをやられてますけど、どのようなきっかけでジャズに興味を持たれるようになったんですか?
大江 幼少期の僕にクラシックピアノを教えてくれていた先生がオペラ歌手志望の女子高生だったんです。彼女がレッスンの最後に「今日はスイカ」とか「今日はトンボ」といったテーマをくれて、その場で作曲する遊びをしていたのが僕の音楽的なルーツで。そのあとギルバート・オサリバンやビリー・ジョエルに出会って、中学生の頃ぐらいから作詞作曲を始めて、15歳のときにヤマハのなんばセンターに作曲したものを見てもらいに行った帰り道、アメ村の中古レコード店で見つけたビル・エヴァンスを聴いたらすげえカッコよかったっていうのがジャズとの出会いです。それから絶対ジャズピアニストになるんだと思ってがんばってたけど、作詞作曲のほうで先にチャンスが来たのでシンガーソングライターを目指すことになったんです。それが18、19歳くらいですね。
宮藤 じゃあ、フランスパンを自転車のカゴに差して走りながら、「いつかはジャズをやりたい」と思っていたと。
大江 そのためにまずは自分が全身全霊で作った楽曲を1人でも多くの人に聴いてほしいということばかり考えてました。で、詞が書けなくなって、いきなり失踪したんです。
宮藤 えーっ! それはいくつぐらいのときですか?
大江 25歳くらい。「REAL」(1985年発売のシングル)の「リアルに生きてるか 激しく生きてるか」の続きが書けなくて、スタジオの手前まで来て逃げちゃって。結局スタジオのトイレにこもって「誰かの胸にもたれて 想いを燃やしてるか」と書いて、これでいいやって。当時「セブンティーン」で賞を取ったばかりの渡辺美里ちゃんがスタジオに遊びに来ていて、僕の書いた汚い字をきれいに清書してくれて、はいどうぞって。それで歌ってましたね。
宮藤 すごい話だなあ。歌入れ直前ですよね。
大江 1時間数万円かかるスタジオ代を全部無駄にしてえらい損害だったと思うから、しばらく誰とも連絡を取らなかったです。
宮藤 そんな苦労していたとは。知ってたらもうちょっと真面目に聴いてたのに。
大江 はははは!
宮藤 しかも、当時ってとにかく曲を量産しなきゃいけない時代じゃないですか。
大江 その年は「未成年」と「乳房」という2枚のアルバムを出したんですけど、12月に出した「乳房」のオリコンの順位が下がっちゃったんです。ユーミンにその話をしたら「年末の数字は普段とは違うから順位を気にしちゃだめだよ」って言われたんだけど、それでも落ち込んだ時期がしばらくあって。
宮藤 バンドだったらまだバランス取れるけど、1人ですもんね。
大江 当時、小室哲っちゃんがうちに泊まりにきたとき言ってましたよ。「僕らはファンの思いを三等分できるからいいけど、千里は1人だから虫眼鏡で太陽の光を集めているようなもんだ。千里は丸焦げだね」って(笑)。グループ魂もそうでしょ?
宮藤 ですね。僕らは7人いて、お互いに人のせいにできるので。しかも当時はオリコンの順位が評価のすべてですもんね。そんな時期を経てニューヨークに。
大江 最初にニューヨークに行ったのが29歳のクリスマスで、そのとき僕は「たぶん将来ここに住むな」と思ったんです。それから日本とニューヨークを行ったり来たりしながら、47歳で「The New School for Jazz and Contemporary Music」のジャズピアノ科に受かって。今行かないと後悔すると思ってマネージャーに相談したら、「行ってらっしゃい。前からやりたかったのは僕も知ってるから、この事務所を出た瞬間からジャズピアニストとしてがんばってください」って言われて。
宮藤 いいマネージャーさんですねえ。
大江 ちょっとは引き止めてほしいなって思いもあったんですけど(笑)。
コロナ禍に生み落とされた「Letter to N.Y.」
宮藤 最新アルバム「Letter to N.Y.」を聴かせていただいたんですけれども、「今の大江さんはこういう曲を作っているんだ」っていう思いと、「僕はまだジャズというものを理解しきれていないな」っていう思いがあって。このアルバムはどのように作られたんですか?
大江 このアルバムはパンデミック下に、宅録ジャズを作ろうと思って制作を始めたんです。譜面も書かず、コードも決めないまま、コンピューターとカシオの小さいキーボードをつないで24時間弾きまくってました。
宮藤 完全に1人で作業されたんですか。
大江 そうです。最初に作った曲が「Out of Chaos」。「カオスから抜け出すぞ。もはや生きてることが普通じゃないんだ」。そんな感じでしたね。
宮藤 僕は今回の芝居のあらすじを最初に考えたときは、まさか去年から今年にかけてこんなことになると思ってもいなかったんです。でも予想以上に状況が変わらなかったので、中止せざるを得ない公演もあって。そんな中、大江さんが1人で宅録ジャズを完成させたのはすごいです。
大江 試しに「Out of Chaos」と「Good Morning」を東京とニューヨークのスタッフに送ったら即レスで「絶対この路線でアルバムを作ったほうがいい」という話になって。ニューヨークはたくさん犠牲者が出てるし、聞こえてくるのは救急車の音ばかり。まるで自分1人しか生きてないんじゃないかっていうくらい外に人がいない。冷蔵庫の食材がどんどんなくなっていく中、日本から持ってきた乾物をふやかしながら、「そうだ、手元にあるものだけで面白い作品ができないかな」って。
宮藤 東京でも僕の周りでYouTubeを始める人がいたり、個人で発信できるものがずいぶん増えました。生きるためっていうのもあるけど、あれは自分自身と向き合う時間みたいな感じだったんですかね。
大江 自分は喘息持ちだし、当時59歳だから「これはかかるとヤバいぞ。明日は来ないかもしれない」という気持ちでいましたね。それでも、そのときはまだプレパンデミックに縛られていたから「ツアーができないのにどうやってアルバムを売るんだよ」って気持ちもあって。しかも大家の都合で引っ越さざるを得なくなったうえに新居のガスが止まって、ダウンジャケットを着てカセットコンロでコーヒーを沸かしてる状況にはもう笑うしかないなって。それでも作品を作り始めたらやっぱり音楽って楽しいなと思えたんです。宮藤さんも今回の舞台は、やっぱりパンデミック下の影響はありました?
宮藤 そうですね。気分って作品にすごく影響しちゃいますよね。お客さんも作る側もお互いニュートラルな状態ではないので。それも「今ならまあいいか」みたいな思いはありますね。ただ「あまちゃん」のときもそうだけど、「あれはこういう意味ですよね」と全部をそのときの社会の状況に結び付けられちゃうと、ちょっと恥ずかしくなるんです。今回はリセットされた世の中で若い男女が出会う前向きな芝居だし、のんさん、村上虹郎くんという元気な人がいればいいかなって。
大江 藤井さんもいるし。
宮藤 本当はもっと掘り下げられる問題だけど、音楽で楽しく見せられたら一番いいなっていう気持ちが優先されちゃったっていう感じですね。
時代が褒めてくれていた
宮藤 今回1980年代のポップスを聴き直して思ったのが、当時の音楽って本当におしゃれですよね。バブルだったからってこともあるんでしょうけど。最近は世界的にもその頃の日本の音楽が評価されていて、竹内まりやさんのアルバムとかすごい高値で外国の方が買いに来るとか。
大江 カッコいいですもんね。「プラスティック・ラヴ」大好き。
宮藤 だから10代のときにちゃんと聴いてなかったのがもったいなかったなと思って。僕はパンクロックのほうに行っちゃって歪んだ音ばっかり聴いていたので、浮気してるような気持ちがあったんです(笑)。
大江 でも、宮藤さんは音楽をすごく客観的に聴いてらっしゃいますよね。「あまちゃん」挿入歌の「潮騒のメモリー」も大好きです。サビが来たかと思ったらもう1回違うサビが来たり、急に半音ずつ降りてきたり、クリシェじゃない驚きがある。
宮藤 たぶんプロデュースした大友良英さんも僕と同じ感じで音楽と関わってるからだと思います。歌謡曲とポップスがすごく近かったし、理屈で考えずただ流行ってるから聴いていたものに大人になってからもう1回触れたとき、「ああ、こうなってたんだ」ってわかるのが面白くて。
大江 あの頃は僕がいい詞を書けたら僕の周りにいた人が褒めるわけです。プロデューサーも「よう書けんなあ、このフレーズ! 天才やでー」って(笑)。とにかく時代が褒めてくれてたんですよね。
宮藤 大事ですよね。今は時代が褒めてくれないから(笑)。
大江 オメガトライブにしても杏里さんにしても褒めてもらってますもん。
宮藤 そうなんですね(笑)。……あ、そろそろ時間ですか?
大江 楽しい時間をありがとうございました。終わりたくない(笑)。
宮藤 いやあ、めちゃめちゃ楽しかったです。当時そこにいた人の話だから、ディテールがすごかった。きっと白井貴子さんそう言ったんだろうなって。
大江 たまに微妙に間違ってて、「美里ちゃんがセーラー服でスタジオに来て……」なんて言ってると本人に「うちの学校は私服だからセーラー服は着ません!」って訂正されたりするんだけど(笑)。とにかく楽しかった。舞台、楽しみにしています。
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大江千里 単独インタビュー