新浜レオン|木梨憲武&所ジョージが惚れ込んだ新星にインタビュー、目指すは演歌・歌謡界の“甲子園”

新浜レオンが3月27日に6thシングル「全てあげよう」をリリースした。表題曲は木梨憲武がプロデュース、所ジョージが作詞作曲を手がけた“スター系歌謡ロック”。新浜がTBSラジオ「土曜朝6時 木梨の会。」、U-NEXT「木梨の貝。」に出演したことをきっかけに誕生した。

「伯方の塩」のCMソングの歌唱で知られる髙城靖雄を父に持ち、学生時代から演歌・歌謡歌手としての夢を育んできた新浜。2019年のデビュー当初から「若い世代に演歌・歌謡曲の素晴らしさを伝えたい」という確固たる思いを胸に活動し、2023年5月にリリースした「捕まえて、今夜。」の“窓ふきダンス”がTikTokでヒットし関連動画の再生回数は1億回を突破、サンリオとコラボキャラクターを制作するなど業界の既存の枠組みにとらわれない幅広い活躍を見せている。音楽ナタリー初登場となる本インタビューでは、今年デビュー6年目を迎える新浜の歩みや「演歌・歌謡」への思い、新曲の制作秘話など存分に語ってもらった。

取材・文 / 小野田衛撮影 / 曽我美芽

きっかけは「西城秀樹」木梨憲武&所ジョージとの縁

──まずは6thシングル「全てあげよう」のお話から伺います。プロデュースをとんねるずの木梨憲武さん、作詞作曲を所ジョージさんが担当されています。もともと木梨さんや所さんとはつながりがあったんですか?

そもそものきっかけは、「土曜朝6時 木梨の会。」というラジオ番組、そしてU-NEXTの「木梨の貝。」に出演させていただいたことなんです。木梨さんとはそこで初めてお会いしました。なので、ご挨拶として本番前に自分のBlu-rayを「よろしくお願いします」とお渡ししたら、木梨さんは僕のことを何度もテレビで観たことがあるとおっしゃるんですよ。というのも、BSで放送されている演歌・歌謡曲系の歌番組を奥様(安田成美)と一緒によくご覧になっているらしくて。

──木梨さんは、新浜さんがどういった歌手なのかをすでに把握していた?

そうなんですよ。やっぱり感激しますよね。芸能界の大先輩で、あれだけ知名度のある方ですから。木梨さんは「レオンくんがBSの番組で西城秀樹さんの曲をよく歌っていることも知っているよ。まぁ『ギャランドゥ』に関しては俺のほうがうまいけどね」なんて冗談めかしながら話してくれまして。で、いざ本番がスタートすると、同じく番組に出演していた所さんに向かって「レオンくんにさ、秀樹風の曲を作ってよ」なんて話をし始めたんです。

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──所さんは「木梨の会。」の準レギュラーですしね。それにしたって、所さんも驚いたのでは?

結局、番組のトークの流れで出てきた話ですからね。社交辞令というか、現実問題、実現するかは微妙じゃないですか。ところがその2日後! 木梨さんのマネージャーさんから僕のマネージャーに連絡があったんです。なんでも「木梨本人がレオンさんと直接やり取りしたがっています」とのことでご本人の携帯番号を教えてもらったんですね。「つきましては、レオンさんのほうからこの番号にかけていただけますか?」って。

──それは震えますね。

ホント震えますよ(笑)。でも意を決して電話してみたら、開口一番、「レオンくん、曲はもうできたから」って。

──えっ!? 番組収録のわずか2日後には、曲を書き終えていたということですか?

信じられないですよね。しかも「秀樹さん風のめちゃくちゃいい曲ができたから。レオンくんが歌う前に、とりあえず俺が歌っておくわ」と続けてくるわけです。つまり、仮歌を木梨さんご本人が担当してくれる話になっていたんですよ。もうスピード感が尋常じゃない。それで世田谷にある矢吹スタジオに行くと、お二人のほかに渡辺豊さんというドラマーの方がいらっしゃいまして。この渡辺さんは、なんと秀樹さんのバックで長いことドラムを叩いていた方なんですよ。

──秀樹サウンドのキーパーソン!

そう。だから渡辺さんが先頭に立って、秀樹さんサウンドのディレクションを進めていた部分はありましたね。何せ当時の現場をリアルに知っている方なので。本当にいろんな縁が重なって実現した1曲なんですよ、今回の「全てあげよう」は。

──改めて新浜さんにとって、西城さんの存在は特別なんですね。

間違いなく、人生で一番影響を受けている人物は秀樹さんだと思います。子供の頃から大好きで、死ぬほどリスペクトしていて、暇さえあれば秀樹さんの映像を観ていましたから。好きなだけじゃなく、歌い方もめちゃくちゃ研究しました。それで言うと木梨さんの“秀樹愛”も本物なんですよ。木梨さんによる秀樹さんのモノマネも、ただ面白おかしく笑いを取りにいっているだけじゃなく、ものすごく深いリスペクトがベースにありますからね。

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「レオンくん、新曲ができたよ」

──最初に「全てあげよう」を聴いたとき、どう感じました?

イントロからエンディングに至るまで、あらゆるところに秀樹さん特有のエッセンスが入ってるなと。例えばセリフが入るパートなんかは「ちぎれた愛」を連想してしまいますし。あとは秀樹さんといったら歌だけではなくアクションも重要になってきますが、この曲も音を聴いただけで振付のイメージが浮かんできたんですよね。

──レコーディングはどうやって進められたんですか?

お二人がすごく親身になってくださいました。去年の年末はほとんど毎日、所さんとご一緒させていただいていましたね。当時、木梨さんはドラマ(「春になったら」)の仕事が入っていたのですが、ちょっとでも時間があるとスタジオに顔を出してくれました。

──職業作家の先生が曲だけ納品して、あとは現場に委ねるような流れとはまったく違う?

真逆です。むしろ現場に付きっきりでした。特に所さんとは、ずっと世田谷のスタジオで二人三脚状態。なにしろ「全てあげよう」以外にも、全部で9曲くらい並行してレコーディングを行っていたので。

──そうだったんですね。実はカップリング曲がやけに多いなと驚いていたんですよ。

「全てあげよう」のカップリング曲は全部で5曲なんですけど、実はそれ以外にも世に出ていないものがありまして。というか、先週も「レオンくん、新曲ができたよ」って連絡が来ました(笑)。こうしている間にも現在進行形で曲がどんどん作られているんですよ。僕としてもうれしい悲鳴と言いますか……。

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──お二人からは具体的な歌唱指導も入るのですか?

基本的に所さんからは「もっとこうしなさい」みたいなアドバイスはないんです。僕のほうから相談したこともあったんですけど、「レオンくんにあげた曲なんだから、レオンくんの好きなようにやればいいんだよ」と言われまして。一方、木梨さんがいらっしゃるときはムチャぶりがすごかった!(笑) 例えば「全てあげよう」のレコーディング日にブースで3回くらい歌ったあとに、木梨さんは「はい、OK! 実はこういう曲もあるんだけどさ」と言って僕が初めて聴く知らない曲を1、2回流して「じゃあレオンくん、入って」と一方的にブースにブチ込まれちゃうとか(笑)。

──その光景が目に浮かびます(笑)。

「いやいや、待ってくださいよ」って思うじゃないですか。1、2回聴いただけだし、ましてやお二人の前で歌うことも緊張しますし。それで自分がうろたえていると、木梨さんは「もういいから、そういうのは。とにかく感じ出して!」とか言い出して(笑)。「感じ出してって言われてもなぁ……」と思いつつも、開き直って歌ってみると、また2回目くらいでOKがかかるんです。「うん、雰囲気はこれで合ってるから」とか言われて。万事そんな調子だったから、もう食らい付くのに必死でした。

──そうした急ピッチでの作業だからこそ、歌に勢いが出た面もあるのでは?

そうですね。僕としても今まで経験してきたレコーディングとはまったくやり方が違いましたし、とにかくスピード感に驚かされました。1カ月くらいの間に曲を作って完成まで持っていく……しかも下手したらアルバム1枚分くらいの曲数を仕上げるわけです。このスピード感で進んでいくと、僕も悩んでいる暇がなくなるんですよ。少し粗削りかもしれないけど、それも含めて秀樹さんマインドが入った勢いのある歌の仕上がりになったんじゃないかと思います。

父は「伯方の塩」の髙城靖雄、野球少年が育んだ歌手の夢

──音楽ナタリー初登場ということで、ここからは新浜さんのパーソナルな部分に迫っていきます。歌手を志す前は、野球に没頭していたそうですね。

本当に野球のことばかり考えているような子供でした。当然、自分もプロ野球選手になるつもりでしたし。小中高とキャプテンをやらせていただき、千葉英和高校でも甲子園を目指したんですけど、最高でも県大会でベスト4。非常に悔しい思いをした末に、歌手を志すことになりました。

──「戦国千葉」と呼ばれるほど、千葉県の高校野球レベルは高いことで知られています。細かい話で恐縮ですが、なぜ市立船橋や習志野といった甲子園の常連校に進まなかったんですか?

実を言うと、習志野高校は僕も受けているんですよ。習志野ナインが甲子園で活躍している姿をテレビで観ていたし、自分もあのブラスバンドの中で野球をやりたいという憧れがあったので。ただ僕の場合、中学は軟式だったんです。そうするとセレクションとかは難しくて、自力で受験するしかなかったんですね。結果的にはダメだったから千葉英和に進んだんですけど。

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──甲子園に行けなかったのは残念でしたが、なぜ大学で野球を続けなかったんですか? 甲子園に出場できなかったけどプロになった選手も大勢います。

高校野球を辞めたあたりで、自分の夢が歌手になるという方向に変わっていったんです。順を追ってお話しすると、まず僕の父親は演歌歌手でして……。

──「伯方の塩」のCMでもおなじみの髙城靖雄さんですよね。

ええ。父のことは子供の頃から尊敬していましたし、演歌歌手という職業に対しても「なんて最高な仕事なんだ」と憧れを抱いていたんです。なので丸坊主のまま、父の現場でカバン持ちみたいなことをやり始めたんですよ。すると、それまで知らなかった父の苦労とか、歌の世界の奥深さに気付くようになって。例えば、レコーディング現場に行くとするじゃないですか。僕の中で、父は世界で一番歌がうまい人間。なのにその父がディレクターさんから「もっとこういう感じで歌ってくれ」「そこはそういう歌い方じゃないよ」などと注意されているわけです。今ではディレクターと歌い手の関係はそういうものだと理解できるんですけど、当時の自分は見てはいけないものを目撃してしまったような気分になりまして。

──「うわっ、親父が怒られてるよ」みたいな?

そうそう(笑)。逆に言うと、父はそういった弱い姿を今まで家族の前で一切見せてこなかったということ。そこで改めて父に対する尊敬の気持ちが深くなったし、父のようになりたいと考えたんです。だから家族会議を開いて、「もう野球はここまでにする。自分は父みたいな歌手になるんだ」と宣言したんですよ。そうしたら、母親から猛烈な反対がありまして。

──人一倍、業界の厳しさも知っているでしょうしね。

父が苦労している姿を間近で見てきたからこそ反対していたというのは、今となってはよくわかるんですけど、当時は「なんで反対するんだ? 僕だって生半可な覚悟じゃなく、本気で歌手になりたいと言ってるのに」と納得できませんでした。それまで母は、僕がやりたいと言ったことを必ず応援してくれていたので余計に。それで揉めたんですけど、結局「あんたは野球しか知らない。大学に4年間通って、いろんな世界を見たほうがいい」「それでも歌手になりたいんだったら、大学を卒業してからなればいい」と言われたんです。それで大東文化大学に通いながら、並行して父親のカバン持ちと運転手を務めました。この時期、父親のバックコーラスや前歌もやりましたね。

──そんなこともされていたんですか。

あとは千葉テレビのローカル番組に父が出演したとき、「家族トーク」みたいな企画があって。そこで僕が「将来は父のような歌手になりたい」と言ったら、番組のプロデューサーさんが僕をMCで使ってくれることになったんですよ。

──その時点では事務所にも所属していない一般人ですよね?

異例だったと思いますよ。毎週月曜日、アシスタントMCを担当させていただいたんですけど、そこで初めて父親以外の演歌・歌謡曲の歌手の方々を目の当たりにしたわけです。これをきっかけに改めて歌の世界の素晴らしさに感動しましたし、自分もデビューしたいという気持ちが強くなりました。