トン、と背中を押されてステージに
──今ラジオなどでよくお話されているBOOKOFF巡りを始めたのも中学生の頃?
中1ぐらいからですかね。小学生の頃は外に出ると言っても家の近所、せいぜい半径1、2kmだったので、何かを探しに行くような感覚はなかったです。自分のお金でCDを買うようになったきっかけは……小6のときに水戸駅前にあった塾に通っていて、塾の帰り道に駅ビルにあったCD屋さんでいろんなCDのタイトルをひたすら見るという趣味を持っていたんです(笑)。買えないからただただCDを見てるだけ(笑)。そこでどうしても欲しいCDがあって、初めて予約したんです。お年玉の残りを使って。そのときに「私は子供だけど、そろそろ自分で買ったりできるんじゃん?」と気が付いて、そこから中古屋さんを回るようになりました。
──芸能の仕事はどのように始めたんですか?
小学生の頃に読んだ「こどものおもちゃ」(小花美穂のマンガ作品)を読んで「芸能人っていいな」と思ったり、SPEEDの活躍を見て憧れはあったんです。沖縄アクターズスクールの皆さんが活躍しているのを見て「なぜ私は沖縄にいないんだろう」と母を問い詰めて困らせたり(笑)。そういう時期を経て「茨城なら東京までそう遠くはないし、自分にもできるのかな」とオーディション雑誌を読むのが楽しみになっていて、中1のときに前の事務所に履歴書を送ったんです。でも受かると思って送っていないんですよね。オーディションとレッスン料がタダだと書いてあるのに子供ながらに惹かれて送っただけで。13歳、中学1年の冬からレッスンを始めました。そこから毎週末は東京でレッスンをしていて、しばらく経った頃に「Harajukuロンチャーズ」という番組に出ることになったんです。
──活動は楽しくできていたんですか?
同世代の子もたくさんいて、学校とは違うフィールドで仲間ができて楽しいというのはありましたけど、芸事についてまだ真面目には考えていなかったです。私は具体的な目標を持っていないとは言え……同じ時期に事務所に入っていた子たちはみんな雑誌の専属モデルとかCMとか仕事を持っているのに、私は1つもオーディションに受からなくて。レッスンを受けるのは無料だから、とりあえず高校3年生まではがんばってみようと目標を決めたのが15歳の頃です。それでも事務所の方に「オーディション受けたいです!」とアピールすらできず、どんどん時間は過ぎていって。高校は普通の進学コースだったので、いよいよほかの道も考えなくちゃいけないな……と思っていたときに話をいただいたのが「マクロスF」のオーディションだったんです。
──なるほど。そこから先はもう、皆さんご存知の人生ですね。
そうですね。トン、と背中を押されてステージに出ちゃったみたいな。
──デビューしたあとも一度立ち止まったり、決して順風満帆とは言えない歩みの末に、今こうして笑顔で10周年と30歳の節目を迎えられているのは本当によかったですね。
いやあ、もう本当に。昨日も母と話したんですよ。「あなたがいかに恵まれているのか」とひたすら(笑)。本当にその通りだと思いますね。
「いいニュアンス出してんじゃん、この子」
──デビューから10年間の、音楽活動の総まとめとなるのが今回のベストアルバムですね。しかも30歳の誕生日にリリースされるという。
はい。2016年に活動を再開して、その後のスケジュールを決めているとき……カレンダーを確認して、自分の記念日が一般的なCDの発売日である水曜日に当たっていないかなと確認したんです(笑)。そしたら「あれ? 30歳の誕生日、水曜日じゃない?」と気が付いて。私は“不言実行”型なので口にはしなかったんですけど、「30歳の誕生日に30曲入りのアルバムが出せたらすごくいいな」と密かに思っていたんです。ベストアルバムを出すというのはこちらから言い出したわけではないけれど、長くやっている勲章のようなものだと思っていたので「いつか出せたらいいな」と考えていたら、前回のカバーアルバムの話と同時期にいただいて。「タイミング的に6月ぐらいを考えてるんだけど……」と言われたので「5日しかないでしょう」と(笑)。そして2枚組だと言われたので「じゃあ30曲ですね!」みたいな。
──すべてが“不言実行”の目論見通りに。
密かに「イエーイ!」とガッツポーズしてました(笑)。キャラクターソングはまたいつか別の機会にまとめることを新たな目標にするとして、中島愛として出したシングル曲を数えてみたら、タイトル曲だけで15曲あったんです。すでにDISC 1は埋まっているから、それ以外の曲をどう選ぶかスタッフの皆さんと打ち合わせをして。ただ、私とスタッフさんで考えていること、入れたい曲が自然と一致していたので、DISC 2のアルバム曲、B面曲のセレクトに関してはわりとすんなり決まりました。
──ベスト盤には記念の作品という側面もあれど、初めて手に取るときに親切な入門編としての役割もありますよね。DISC 2の選曲はそのあたりも考えて?
そうですね。私もリスナーとしてベスト盤を取っかかりに興味を持つことが多かったので。シングル曲だけじゃないベスト盤は、そこから掘り下げ甲斐があると思うんです。「この時期のこの感じの曲調が好きだな。じゃあこの曲が入っているアルバムを聴いてみよう」みたいな形でたどる楽しさがあるから、このベストアルバムを買った人も同じように楽しんでもらえたらなと思って、できる限り曲調やジャンルをばらけさせて組み立てました。
──リリース当時と今で気持ちが大きく変わった曲はありますか?
清水信之さんが編曲してくださった「忘れないよ。」(2012年8月発売のシングル)は、当時の自分にはすごく難しくて、レコーディングも苦戦したんです。何かのスケジュールと重なっていて、レコーディングは夜中に近い時間で……自分としては全然うまく歌えずに不完全燃焼のまま終わってしまって。周りは「いいよ」と言ってくれたので、それを信じてスタジオを出たんですけど、「これは歌いこなせてないな」と密かに悔いが残ってたんですね。でもベストに収録するということで改めて聴き直してみたら、逆にこのニュアンスは今出せないなと思って、自分の歌に感動してしまいました(笑)。「いいニュアンス出してんじゃん、この子。特にBメロとか」みたいな(笑)。自画自賛ですよ。試行錯誤の甲斐があったのかなと思いました。
──リスナー的な感覚で客観的に聴くとそういう発見もあるのかもしれませんね。完璧なものが必ずしもよいわけではなく、よれやほころびにこそ詰まっている魅力というのは意図して表現できるものではないから。
そうなんですよ。当時大人の方が褒めてくださったことがやっと理解できました。「このことを言ってたんだな。確かに!」って。あれはあれで20代半ばにしかなかった感性だと思うので、作品としてパッケージできたことはすごくよかったなと思いました。
──なるほど。でも歌い直してみたい曲、「今ならもっとうまく表現できるのに」と思うものもあります?
5年前はデビュー当時の曲に対してそう思うこともありましたけど、今はもうそういう気持ちはないですね。
底抜けに明るいアニバーサリーソングを
──そして今作には1曲、書き下ろしの新曲「Love! For Your Love!」も収録されます。過去にたびたび組んできた北川勝利(ROUND TABLE)さんとのタッグで、北川さんならではのブライトでハッピーな路線の最新型がここに収められるのはすごくいいなと思いました。
とにかく底抜けに明るい歌を歌いたい欲が高まっていて、そのきっかけになったのが……復帰後にもう何度もお話していますけど、Negiccoさんのライブで。Negiccoのライブに行くと、よく北川さんが会場にいらっしゃってたんですね。そうやって北川さんにお会いするたびに「まだ書きたい曲がいっぱいあるからスタジオで会おうね」と励ますように何回もおっしゃってくれていて。休止中は正直、そんな日は来ないだろうと思っていたんです。でも結果的に戻ってくることができて、リリースの予定が決まるごとに北川さんの名前は挙がるものの、私は100%前向きな気持ちで「大人って楽しい! 歌うって楽しい!」と思えるタイミングでそういう曲を書いてほしかったんです。
──満を持して。具体的にどんな曲にしてほしいとオーダーしたんですか?
アニバーサリーソングで派手に遊ぼうと思っても、次は40歳だからなかなか難しいかもしれないので(笑)、歌詞に感情的な意味合いを込めるというよりも、長く応援してくださったファンの方が聴いたときに「このフレーズって」とクスッとくるような遊びがある曲をお願いしました。でもお願いとしてはわりとざっくりと、「底抜けに明るいアニバーサリーソングです。頼むー」みたいな(笑)。
──過去の北川さん楽曲にもそうそうない強いビートが、今の中島さんのハッピー感をより強調しているような印象でした。
「ディスコ調がいいな」「でも全部生バンドじゃない半々ぐらいの感じ」と私が雑に投げたいくつかのボールをうまく拾ってくださって。北川さんは守備範囲がすごく広くて、アーティストだけど職人さんだなといつも思うんです。
──ミュージックビデオもひたすらキラキラと楽しい映像になっています。
今のうちにキラキラしておきたくて(笑)。いつか私にも気取りたくなる日が来ると思うんですよ。気取らざるを得ないときもあるだろうし、それも素敵だなとは思うんですけど、「まだ未来のことなんてわかりません!」みたいな底抜けな明るさを映像でも残しておきたかったんです。
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母の故郷で収めたメモリアルイヤーの記録