ナタリー PowerPush - 中田裕二
椿屋四重奏解散を経て本格始動 1stソロアルバムついに完成
中田裕二が、1stソロアルバム「école de romantisme」を完成させた。今年1月に発表された椿屋四重奏の解散以降、東日本大震災の直後に新曲「ひかりのまち」を配信リリースし、カバー曲を中心にした全国ツアー「SONG COMPOSITE」を開催するなど、激動の1年を過ごしてきた彼。アルバムはその中で培ってきた彼のアイデンティティを詰め込んだ内容になっている。
今回、ナタリーではソロ初のインタビューを実施。「ロマン派」と名付けられたアルバムについて、そして今日に至るまでの彼自身を突き動かしてきた原動力について、じっくりと語ってもらった。
取材・文 / 柴那典
震災後、気付いたら曲を作っていた
──どうですか? まずアルバムができ上がっての感触は?
やっと中田裕二としての第一歩を踏み出せたという感じです。名刺がやっとできました。
──椿屋四重奏が終わった時点で、ソロとしてやっていくということは決めていたんですよね。
はい。漠然とは決めてました。
──でも、その時点ではどんなことをやるかは決まっていなかった?
そんな感じでしたね。ユニット名を付けようかなとか、少しミステリアスな感じでやろうかなとか、そんなことも思ってましたし。曲調も、正直あまり見えてなかったです。はっきり見え出したのは震災以降ですね。「ひかりのまち」という曲を作って、ツアーをやっていく中で意識したものを、このアルバムに入れたという感じです。
──きっと、バンドが解散した直後の頃は、モラトリアムな状態だったと思うんです。でも、3月11日に東日本大震災があって、すぐに何かをしなければいけないと思ったわけですよね。
はい。
──今振り返って、そのときに自分を動かしたエネルギーはどういうものでしたか?
気付いたら曲を作っていたんで、今考えると全然冷静じゃなかったと思います。でも、歌を歌うことが俺の仕事なんだという強い意識がありました。俺はそれをやるしかない。できることは歌しかないという。
──理屈とか、どう見られるかという意識とか、損得勘定とかを計算していたらあの速度にはならないと思うんです。身体が先に動いたということなのではないかと思うんですが。
まさにそのとおりですね。本当にそんな感じでした。
自分の歌や音楽を求めてくれる人には全力で応えたい
──では、震災後6月からツアーをやることになったのはどういう経緯だったんでしょう?
まずは、歌うことで何かしらの力になってあげられるかな、という気持ちでした。それと、あのときにはシンプルな歌の力をすごく感じたんです。民謡とか唱歌とか、誰もが知ってる歌謡曲とか、何も説明を必要としない歌って、すごいんだなと思って。だからまずそういう名曲たちを歌うところから始めたかったんです。名曲を、俺を介することで届けたいという。そういう気持ちで「SONG COMPOSITE」というツアーを始めました。
──いつ頃にそういう気持ちが固まったんでしょう?
元々震災前からツアーをやろうとは思っていたんです。ただ、そのときはソロを始めるプロセスにおけるリハビリくらいの気持ちだったんですよね。それをやったら次のやりたいことが見えてくるかなって程度で。でも、震災があったので、とにかく人を癒したいと思って。福島、仙台、岩手を回って、坂本九さんの曲を歌ったりもしました。
──ツアーの持つ意味と役割が変わったわけですよね。
そうですね。最初はステージに立つのが怖かったんですけれども、思いのほかみんな喜んでくれた。その表情を見ながら、自分がミュージシャンをやっていくという使命感を感じたというか、モチベーションがどんどん上がってきた。17本くらい回ったんですけど、それが終わる頃には早くオリジナルの曲を届けてライブをやりたいという気持ちでいっぱいになって。ツアーが終わったらすぐレコーディングを始めて、今年中に絶対アルバムを出したいと思ったんです。なるべく早く聴いてもらいたいという気持ちが膨らみましたね。
──ツアーで歌ったことで、自分がなんで音楽をやっているのかというところと向き合わざるを得なかった?
そういう問いを突き付けられた感はありましたね。ただ、自分の歌や音楽を求めてくれる人には全力で応えたい。もし俺の歌を聴いて救われるという人がいるならば、やっぱり届けたいと思うので。
──そうなってくると、ユニット名とかいう発想はないですよね。
もうね、ちゃんちゃらおかしくなりました(笑)。もういいや、「中田裕二」で、って。自分の名前を背負ってやろうと。
──自分がこういう人間です、ということを表現せざるを得なかったわけで。今作も、そういうアルバムになったと思うんです。
まさにそうですね。
中田裕二(なかだゆうじ)
1981年生まれ。熊本県出身。2000年に宮城県仙台にて椿屋四重奏を結成する。2003年のインディーズデビュー以降、2007年にはメジャーシーンへ進出。自身はボーカル&ギターを務め、歌謡曲をベースにした新たなロックサウンドで多くの音楽ファンを獲得した。2011年1月の突然の解散発表は大きな反響を呼んだ。同年、東日本大震災直後の3月に、被災地や被災者に向けた新曲「ひかりのまち」を中田裕二名義で配信リリース。その後6月から8月にかけてカバー曲を中心に「歌」に特化したプロジェクト「SONG COMPOSITE」の全国ツアーを行い、これを機に本格的なソロ活動に入る。