アルファ55周年特集 村井邦彦インタビュー|YMO、ユーミンを世に送り出したポップマエストロの美しい矜持 (2/3)

「村井君、美は力だよ」川添浩史からのメッセージ

──僕は村井さんの音楽が持つ美しさに、過激さを感じていたんです。過激なまでの美しさ。歌謡曲歌手の伊東ゆかりさんが、岡崎広志さん、伊集加代子さん、東海林修さんと「伊東ゆかりとグリーンジンジャー」名義で出されたアルバム「LOVE」は当時のCarpentersなどの洋楽作品と遜色ないポップサウンドで。

(「LOVE」を手に取って)懐かしいなあ。

村井邦彦
伊東ゆかりとグリーンジンジャー「LOVE」ジャケット見開き。レコーディング中のスナップには、黒縁メガネをかけた若き日の村井邦彦の姿が。
伊東ゆかりとグリーンジンジャー「LOVE」ジャケット見開き。レコーディング中のスナップには、黒縁メガネをかけた若き日の村井邦彦の姿が。

伊東ゆかりとグリーンジンジャー「LOVE」ジャケット見開き。レコーディング中のスナップには、黒縁メガネをかけた若き日の村井邦彦の姿が。

──歌謡曲のド真ん中にいる方がこういう作品を出すことは業界へのカウンターだと思っていたのですが、村井さんとしては「こういうの好きだからやっちゃおうよ」くらいの感覚?

そうですね。東海林修さんも完全に頭の中が洋楽の人でしょ。伊東ゆかりさん自身も、もともとはアメリカのポップスを歌っていたところから流行歌歌手になった人だからね。これはすごくいいレコードだよね。ゆかりさんもこのレコードは自分でもすごく好きだと言ってたと思うよ。

──エルトン・ジョンの「僕の歌は君の歌(Your Song)」やバート・バカラックの「遥かなる影(Close To You)」などのカバーとともに収められている村井さん作曲の「And Now I Know」は完全に洋楽ですよね。

どんな曲だっけ。あまり覚えてないなあ(笑)。

──(笑)。赤い鳥のアルバム「What a Beautiful World」もイギリス録音で全曲英語詞という、ほぼ洋楽作品でした。

赤い鳥「What a Beautiful World」ジャケット

赤い鳥「What a Beautiful World」ジャケット

赤い鳥のときから「日本のアーティストを海外に進出させたい」と考えていたから、英国のプロデュサーを立てて、英語の曲を作ったんです。向こうでシングルを切ったんだけど、残念ながらあまりヒットはしなかったね。

──このあたりの村井さんの関連作品は、1990年代に“和製ソフトロック”として再評価され、僕らの世代はそこで初めて村井さんの作家性を知りました。同じく当時再発されて話題を呼んだロジャー・ニコルズや、バカラックの作品を指して“ソフトロック”と呼び、そこに比肩する日本のポップミュージックとして。

僕がバカラックを知ったのは大学生のときだね。ディオンヌ・ワーウィックの作品を聴いて、すごい作家だなと思いました。

──そういった“和製ソフトロック”としての再評価に加え、近年では日本発の“シティポップ”としてアルファ作品が海外で再発見されるという流れもあります。若い人に新しい観点で捉えられることについて、村井さん自身はどう感じていますか?

僕たちだって古い音楽を探して聴いてきたわけですよ。それと同じだよね。200年経ってベートーヴェンの音楽を聴いてるのと同じことだと思います(笑)。時代によって面白くないと感じる音楽も、時間を飛び越して評価されることがある。音楽ってね、その場その場の出来事じゃなく、全部つながっているんですよ。

──村井さんの著書「音楽を信じる We believe in music!」の中に、村井さんに大きな影響を与えた川添浩史さんの亡くなる2日前の言葉が記されています。「村井君、美は力だよ」という川添さんから村井さんへの遺言のようなメッセージを読んで、それは村井さんの音楽に通底する美しさの根源なのではないかと思いました。村井さんのやってきたすべてがこの言葉に集約されているんじゃないかと。

それは川添さんが僕に教えてくれた、最も重大なことですね。その裏にある意味を説明しましょうか。

──お願いします。

「知は力なり」というフランシス・ベーコンの言葉があるよね。知識は力であるという意味で、「美は力」はそのモジリなわけです。川添さんは音楽や舞踊、映画といった芸術の仕事で日本と世界をつないできた方で。世の中の“現実の力”──それはお金だったり、組織だったり、政治であったり、そういう力で世の中は動いていくんだけど、そうじゃないものにも力があるんだよね。それは理想だとか、美だとか、人間の本質にあるもの。それが君がやる音楽の源泉なんだ、ということを彼は僕に教えてくれた。知は力であるんだけど、美も力なんだよ、って。それで僕らの会社の標語が「We believe in music!」になったわけです。僕たちは組織もない、お金もない、なんにもないけどいい音楽をやるんだと。いいものを作ればいつか絶対評価されるという、信念だよね。

幻のリンダ・キャリエール、ブッちぎりで世界に届いたYMO

──アルファ55周年プロジェクトでいくつかの動きがある中で、長年幻の作品として扱われていたリンダ・キャリエールの未発表アルバム「Linda Carriere」がついに正規リリースされたことは、とりわけ大きなトピックです。細野さんをはじめ、山下達郎さん、佐藤博さん、吉田美奈子さん、矢野顕子さんというそうそうたる面々が参加した1977年の作品で、正統評価されることが将来的に約束されたタイムカプセルのようなアルバムだなと感じましたが、当時はお蔵入りになったわけですよね。

うん。要するに細野と僕は、全世界で売れるアルバムを作りたかったわけです。あのアルバムはその“試作品”で、僕らはいいと思ったんだけど、アメリカのA&Mの人たちは「クニ、これでは厳しいぜ」と言われて。それでも「出してくれ」と頼めば出せたと思うんだけど、僕と細野は「全世界でドンと売れるものを」という気持ちで作ったのだから、半端に出すくらいならお蔵入りにしちゃおうと。

──このクオリティでなぜ「難しいぜ」だったんだろう?とリリースされた作品を聴く限りは疑問に思ってしまいますが……。

それはね、甘いよ(笑)。ただ曲がいい、歌がうまいだけじゃだめなんだ。他をブチ抜いてよくなきゃ世界で成功はしないよ。YMOはブッちぎれたよね。

──そうですね。細野さんは「リンダ・キャリエールのアルバムがお蔵入りになったことでYMOが生まれた」とおっしゃってましたし(参照:リンダ・キャリエール「Linda Carriere」特集|プロデューサー・細野晴臣の証言から紐解く幻のアルバム)、運命を感じるエピソードです。

そう。あのアルバムが世に出ていたらYMOはいなかったかもしれない。

──「Linda Carriere」は本場のソウルミュージックに焦点を合わせながらも、細野さんや達郎さんたちの現在にもつながる独特な要素がふんだんに詰まっていて、今聴くからこその発見や味わいがありますよね。

かえって47年後に出すのが正解だったと思うよね。今の世に出たほうが注目も浴びるし、歴史的な価値も高まる。そんなことがあるんだなという発見もありましたね。骨董品も同じで。例えば自動車なんかさ、25年目くらいだとただのポンコツだけど、30年過ぎてくると価値が出てくる。

──ビンテージという扱いになりますね。

そうそう。リンダにとってもみんなにとっても、このタイミングになったことはすごくタイムリーでよかったと思う。アルファ55周年の作品として出す意義があるよね。

──47年経った今、村井さんは「Linda Carriere」を聴いてどう感じましたか?

まず第一印象はね、ミキシングがうまいこともあるんだけど、細野のベースが若いなあって思った(笑)。細野に限らず、コーラスで歌ってる人も演奏している人も、若いエネルギーが煮えたぎっている。あのとき彼らがやっていたことが、そのあとの、いわゆるシティポップと呼ばれる音楽の土台になっているのがわかるよね。非常に懐かしい思いと、あの頃はみんな若くて元気だったなあという思いがありますね(笑)。

「どこのなんだかわからないもの」が当たると世の中を席巻する

──リンダの作品が世に出なかったことで生まれたというYMOが、先ほどの村井さんのお話で言う「ブッちぎれた」存在になるという確信が、村井さんの中には初めからあったんですか?

作っているうちにある水準は超えたと僕は思った。じゃあこれをどう売るかと考えると、頭が痛いよね(笑)。特定のジャンルに含まれていないものだったじゃない。

──そうですね。のちに“テクノポップ”というくくりでキャッチーに受け止められましたけど、シンセの打ち込みによるエキゾチックな音楽という前例のない音楽でした。

アルファはそういうことが多かったんですよ。ユーミンなんかも、あれはフォークソングでもないし、ロックでも歌謡曲でもない。のちに誰かが「ニューミュージック」という名前を付けて、それでようやく受け入れられた。YMOものちにテクノポップと呼ばれたけど、最初のアルバムを作ったときはなんと呼ぶのかわからない。アメリカでも最初にヒットチャートに上がったのは、ダンスミュージックのチャートだったよね。でも、そうして「どこのなんだかわからないもの」が当たると、ああやって世の中を席巻することになる。まず聴いてもらうことが大変だったけど、A&Mの若手からトップまで「これはいける、ぜひやろう」と。

YMOの1stアルバム「Yellow Magic Orchestra」アメリカ盤ジャケット。

YMOの1stアルバム「Yellow Magic Orchestra」アメリカ盤ジャケット。

──当時のA&Mスタッフの中でも、若い人たちが熱狂的に支持したことが大きかったと聞きました。海外の方に、どこがどう刺さったんでしょうね。

電子音を使った音楽であそこまでポップなものがなかったし、ユニークな作品だったということでしょうね。加えてあの3人の独特の佇まいも面白かったんでしょう。