アルファミュージックの創立55周年を記念したプロジェクト「ALFA55」では、47年の時を経て正規リリースされたリンダ・キャリエールの幻のアルバム「Linda Carriere」、アルファの歴史を彩った名盤の再発、さらにはRYUSENKEIの最新オリジナルアルバム「イリュージョン」のリリースと、さまざまな展開でにぎわっている。
音楽ナタリーでは「ALFA55」にまつわる特集を計5回にわたって公開中。今回はアルファの創業者である村井邦彦に登場いただいた。音楽の教科書に載る合唱曲「翼をください」の作曲者であり、プロデューサーとして荒井由実(松任谷由実)や赤い鳥、Yellow Magic Orchestraを世に送り出した村井。1986年にはアルファを辞任し、現在はアメリカに拠点を移して活動しているが、彼がアルファ時代に残した作品の多くは今もなお名盤として語り継がれ、聴き継がれている。インタビューでは、20代前半にして立ち上げたアルファ黎明期のエピソードや、洗練された楽曲を数多く作り上げてきた作曲家としてのセンス、設立55周年を迎えたアルファへの思いを聞いた。
取材・文・撮影 / 臼杵成晃
村井邦彦という個人が美しいと思うことが素直に出せるレーベル
──今、アルファのスタッフの方と何やら打ち合わせをされていましたが、村井さんの新作がアルファからリリースされるということなのでしょうか……?
僕はアメリカに移ってから30年以上ずっと創作活動を続けています。今ソニーがアルファのことを一所懸命にやっているようなので、僕の新しいレコードはアルファ・レーベルで出したらいいかなと考えています。まだ正式な契約はしてないんだけどね。
──それはすごく楽しみです。アルファは設立55周年を迎えて、再発から新作リリースまでさまざまな動きがありますが、創業者である村井さんはどういうお気持ちですか?
僕は創業者ではあるけども、経営をしていたのは最初の16年間、1969年から1985年までですから、40年は僕の手を離れているわけです。ここにきてアルファというものがいろんな意味で話題になって、ソニーが本気を出して動き始めた。僕が今度作るレコード……2枚になるか3枚になるかわからないけども、そのレコードをアルファ・レーベルで出すのは僕の最後の仕事としていいかもしれませんね。
──レーベルとしての制作が途切れた時期はありながら、かつて作られた音楽が時代とシンクロして再評価される、というサイクルを重ね続けて、アルファは設立から55年が経った今も国内外で評価を集めるブランドとなっています。それはひとえに、優れた作曲家であり、いち音楽ファンでもある村井さんの視点があったからこそではないかと。村井さんは作曲家、プロデューサーとしてのみならず著作権ビジネスを考える経営者としての一面もあり、それがアルファの特徴であったと思います。しかもアルファ立ち上げは村井さんが20代前半の頃で。そんな若者、当時では珍しいですよね。
そうですね。僕はただ、いい音楽、いいレコードを作りたかったんですよ。それだけ。僕は1967年に作曲家としてデビューしたあと、1969年にはフランスに行ってアルファを立ち上げることになった。レコードを作るノウハウだとかテクノロジーだとか、それを外国でほかの人よりもいち早く勉強しちゃったわけだよね。正直言って、古いレコード会社は大変なんですよ。最先端の音楽をやりたいけど、浪速節もやらなくちゃいけないし(笑)、いわゆる歌謡曲や演歌もあるし。そうスピーディには動けないわけだよね。でも僕たちは身軽だから、最新の録音技術を海外から持ってきてスタジオを作ったり、最先端の考え方を持って音楽を作ることができた。突出して新しいことをやってきたわけです。
──なるほど。
会社と言ったって、5人から10人くらいのところから始まったので、大きな株式会社のように利益を出して継続していかなくちゃいけないということもなく、とにかく身軽なわけですよ。別に編成会議なんてないんだから(笑)。僕がいいと思ったらすぐにやろう!という話になる。大きな会社ができないようなことを先にどんどんどんどんやっていった。
──1980年代中盤あたりから日本でも自主性や個性を優先したインディーズレーベルが活性化していきましたけど、ある意味でアルファはその先駆けですよね。
要するに村井邦彦という個人が美しいと思うこと、美しくないと思うこと、それが素直に出ているレーベルですね。自分が気に入ったミュージシャンしか契約しないし、気に入った人には好きなようにやらせる(笑)。それは普通だったら採算が取れるところまでいかないんですよ。それがなぜか、うまくいっちゃったんだよね。全部がうまくいったわけじゃないけど、ユーミン(荒井由実 / 松任谷由実)やYMO(Yellow Magic Orchestra)がめっちゃ売れるとお金がたくさん入ってくるから、それをまた若い才能に投資して。残念ながらアメリカ進出には失敗してしまって、それで僕は会社を辞めちゃったんだけれども。まあ要するに、好きなことだけやってきたんですよ。
──話をお聞きしていると、すごくタフだなと思うんですね。普通は好きなことをやろうと思っても「採算が取れないかもしれない」と及び腰になってしまいます。
「採算が取れない」なんて考えてないんだもん。好きだから作っちゃう。できあがるとさ、「これどうやって売ろうか。売れないと会社潰れちゃうよ」なんてあとになって焦るんだけども。ユーミンも「これを売るためにはライブをやらなくちゃだめだろう」と言ったんだけど、本人があまり乗り気ではなくて。だんだん好きになってきたみたいだけど、3年4年はかかった。売れ始めたら今度はどでかく売れちゃって、「じゃあ次に行こう」みたいな。そういう感じでしたよ。
作曲家・村井邦彦と才能ある仲間たち
──アルファが長年評価される作品を残してきたのは、アーティストの才能を見出す村井さんの嗅覚と「好きだから作っちゃう」というフットワークの軽さによるものだと思いますが、才能あふれるアーティストの良質な音楽が集まる根幹として、村井さんが優れた音楽家であったことが大きいのではないかなと。若いアーティストも「村井さんがやっているレーベルなら」という信頼感があったと思うんです。
ああ、それはあったかもしれません。
──僕は村井さんが作曲した森山良子さんの「雨あがりのサンバ」を1990年代に後追いで知って以来大好きなのですが、実はこの曲が作られたのが1968年、村井さんが作曲家2年生の頃だと知って驚きました。ボサノバとしての完成度と歌謡曲としての大衆性を兼ね備えた、このセンスはどうやって培われたのだろう?と。
もともとボサノバが大好きでね。同時代に渡辺貞夫さんがボサノバの作品を多く出してたけど、歌モノはなかった。そんなとき、僕は運よく森山良子に巡り合って、フィリップス・レコードのディレクター本城和治さんと出会ったことで、「雨あがりのサンバ」という曲ができたわけです。
──各レコード会社が職業作家を抱えて制作する当時の音楽業界のシステムとは違うところから出てきた、新世代の作家だったということですよね。「出る杭は打たれる」みたいなことはなかったんですか?
なかったですよ。最初に組んだ本城さんがもともと洋楽、ジャズが好きな人で、2人で好き勝手にやってるうちにたまたま当たった(笑)。
──村井さん自身が若くして周りの方に恵まれていたことが大きい?
その通りです。「このとき、この人にどうして出会えたんだろう」と今になってよく思いますね。アルファに集まってきたのは、最初は赤い鳥ですね。これは僕がヤマハのコンサルタントをやっていて、当時仲よくしていたヤマハの川上源一社長や幹部の人たちから「村井さん、コンテストで優勝した赤い鳥のレコードを作って、プロにしてくれませんか」とお声がけがあった。そこに山本潤子(当時は新居潤子)という素晴らしい歌手がいて、その赤い鳥が歌った「翼をください」が僕の代表曲になった。その次の運命的な出会いは細野晴臣。細野は小坂忠と仲がよくて、小坂忠は「ヘアー」(1969年上演のロックミュージカル)に出ていて、その「ヘアー」をプロデュースしていたのが、のちにアルファの取締役になる川添象郎。ある日、象郎のお父さんである川添浩史さんの家に小坂忠と細野がいて、細野が弾くギターを聴いて「こいつはすごい!」と思って、それからスタジオの仕事をどんどん頼むようになった。
──そのあたりのお話は現代ポップス史としてワクワクします。ユーミンとの出会いもその頃ですよね。
あのときユーミンはまだ中学生だったけど、「ヘアー」に出演していたシー・ユー・チェン(ザ・フィンガーズのベーシスト)にかわいがられていてね。僕が出会ったのはそのあと。彼女が17歳のとき、作曲家として加橋かつみ(ザ・タイガースの元ギタリスト兼ボーカリスト)に書いた「愛は突然に…」を聴いて「こりゃあすごい。すぐに契約しよう」と。ユーミンは最初、作家として契約したんだけども、本人が歌うとなかなかいいんですよ。1枚目のシングル「返事はいらない」はかまやつひろし(ムッシュかまやつ)さんにプロデュースをしてもらったのですが全然売れなかったんです。それで細野に「君やってくれ」とお願いしたら、松任谷正隆と鈴木茂、林立夫を連れてきた。それでアルバム「ひこうき雲」ができるんだよね。僕と作詞家の山上路夫とで音楽出版社のアルファ・ミュージックを設立したあと、一貫して重要な役割を担ってくれたのは、やっぱり細野なんだよね。そこにユーミンとマンタ(松任谷正隆)が入ってきて、マンタ&ユーミン時代が1980年代のハイ・ファイ・セットまで続いていく。吉田美奈子はマンタたちの直後くらいかな。大勢の素晴らしい音楽家たちに出会えたのは本当に幸運でした。
ジャズと童謡、2つのルーツ
──1974年生まれの僕の世代はやっぱり、“村井邦彦”の4文字を最初に目にするのは小学校の音楽の教科書にあった合唱曲「翼をください」のクレジットだったんです。のちに赤い鳥のほかの楽曲や森山良子さん、その他マニアックな楽曲も含めて後追いで知ったとき、「『翼をください』を作った人はこんなに洗練された作曲家だったのか!」と驚きました。村井さんの作品をさまざま聴き込んでいくうち、唱歌のような親しみやすさとジャズ / ボサノバ由来の洗練が同居しているのが村井邦彦の作家性なのだと感じました。その根源にあるものはなんなのでしょう。
自分で考えてみると、一番熱心に勉強したのはジャズですよね。それから好きなのはクラシック音楽。もう1つは、母親が歌ってくれた歌なんですよ。僕の母親はね、戦時中に“敵性音楽”と呼ばれていた欧米の音楽を聴いたり歌ったりすることを禁じられていました。そんな時代が青春時代だったのです。そういう母親がどんな歌を歌っていたかというと、「かなりや」とか「からたちの花」などの童謡です。大正時代に「赤い鳥」という児童雑誌があって、その雑誌に載っていた童謡が母の世代の音楽だったのです。その頃の歌をたくさん覚えていて、僕が子供の頃、僕をあやしたり寝つかせるときによく歌ってくれました。それがきっと、心の奥のほうに入っているんだろうね。ジャズは中学生の頃に興味が湧いたんだけど、レコードは高くて買えないから、ジャズ喫茶で5、6時間粘って聴いてた。今、ジャズの話を思い出してエッセイを書いてるんだけど、その頃の記憶はしっかり染み付いているんだよね。
──なるほど、すごく合点がいきます。ジャズが好きな村井さんが、その感覚を持ったまま歌謡曲、大衆音楽のジャンルに飛び込んだことが面白いですよね。
それは僕がレコード屋をやったことが大きいんだよ。
──大学在学中に赤坂でレコード店「ドレミ商会」をオープンしたんですよね。
そう。レコード屋では、ヒットソングがどんどん売れていくじゃない。だからどういう曲がヒットするのか自然とわかってくる。これなら僕にも書けそうだと思ったんだけど、たまたま本城さんと知り合ったことで……本城さんも頭の中は洋楽だから感覚がぴったり合うわけ。あれやろう、これやろうと2人で盛り上がって、作曲家になっちゃった。
──そこには、ある程度形式的に作られる歌謡曲に対するカウンターのような思いもあったのでしょうか。この音楽シーンをもっと洗練された、海外の音楽シーンに匹敵するクオリティに変えてやる!という若い気概のようなものが。
そんなものはないですよ。テンプターズの「エメラルドの伝説」(1968年)を書いたときも、本城さんに「好きなように書いてよ」と言われて。そのときにパッと思いついたのがフォーレの「パヴァーヌ」。3拍子の「パヴァーヌ」を4拍子に展開させて、ビートの激しいグループサウンズらしく仕上げた。面白がって書いた曲があっという間に売れちゃって、「えっ? こういうので売れるんだ」みたいな感じだった(笑)。
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「村井君、美は力だよ」川添浩史からのメッセージ