来る7月3日、東京・東京芸術劇場コンサートホールにて村井邦彦の作曲活動55周年を記念したコンサート「『モンパルナス1934』KUNI MURAI」が開催される。
村井は1960年代から活躍する作曲家 / プロデューサー。作曲家として赤い鳥の「翼をください」をはじめ数々の名曲を残す一方、プロデューサーとしては荒井由実(現・松任谷由実)やYellow Magic Orchestra、カシオペアなどそうそうたるアーティストを世に送り出してきた。昨今では、国内外で起こっているシティポップブームの礎を築いた重要人物としても再評価が高まっている。音楽ナタリーでは、作曲活動55周年コンサートに先駆け村井邦彦の特集を企画。ヒット書籍「『シティポップの基本』がこの100枚でわかる!」の著者としても知られる音楽ライター栗本斉をナビゲーターに村井の偉大な功績をたどる。
文 / 栗本斉
GS全盛期に作曲家活動をスタート
もしもあなたが村井邦彦という名前を知らなくても、音楽の授業で彼が作曲した「翼をください」を合唱した記憶はないだろうか。それだけではない。ユーミンこと荒井由実をシンガーソングライターとしてデビューさせたのも、細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏の3人で結成されたYellow Magic Orchestra(YMO)を世界の舞台へ導いたのも彼の功績だ。また、昨今のシティポップブームのルーツとなる1970年代の名曲を生み出した元祖と言ってもいい存在なのである。言い換えれば、現在進行形の音楽シーンにも、村井邦彦の足跡は、大きな影響を与え続けているのだ。
村井邦彦は第二次世界大戦終戦の年である1945年生まれ、東京出身。幼少時にたまたまベニー・グッドマンを聴いたことからジャズに目覚め、進学した慶應義塾大学では名門のビッグバンドサークル、ライト・ミュージック・ソサイェティに入部。学生時代から「ドレミ商会」というレコードショップを経営したり、ホテルニュージャパンのラウンジでピアノを弾いたりしながら、音楽業界との関わりを深めた。もともとジャズやクラシック志向だったが、60年代後半のグループサウンズ(GS)全盛期に「自分でも曲作りができるんじゃないか」と思い立ち、作曲家としての道を歩み始めることになる。
最初の提供曲は、「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」で注目を浴びたギリシャのシンガー、ヴィッキー・レアンドロスの日本オリジナル曲「待ちくたびれた日曜日」(1967年)。その後、萩原健一が在籍していたGSの人気グループ、ザ・テンプターズの「エメラルドの伝説」(1968年)が大ヒットする。GS関連ではザ・モップス「朝まで待てない」(1967年)、ザ・タイガース「廃虚の鳩」(1968年)、ズー・ニー・ヴー「白いサンゴ礁」(1969年)など多数の名曲を残している。
「翼をください」など数々の名曲を制作
1969年にはこの当時では珍しい独立系の音楽出版社、アルファミュージックを設立。フランスのバークレー音楽出版社と提携して、洋楽曲を日本でライセンスしていくのだが、その中にフランク・シナトラや布施明などの歌唱で知られる名曲「マイ・ウェイ」が含まれていたのは非常に有名な話だ。1971年にはミッキー・カーチスや内田裕也らとともにマッシュルームレーベルを設立し、ガロや小坂忠などを輩出した。また、1972年には原盤制作会社のアルファ&アソシエイツを設立。東芝音工のリバティや日本コロムビアのデノンといったレーベルと提携し、フレッシュなアーティストを続々と送り出していった。
この当時の村井が手がけた代表的なアーティストというと、赤い鳥が挙げられる。男女混声のフォークをルーツとするコーラスグループだったが、いわゆる民謡をアレンジする一方で、洗練されたソフトロックナンバーも多数生み出した。中でも1971年に発表したシングル「竹田の子守唄」のB面に収められていた村井作曲の「翼をください」は徐々に人気曲となって数々のカバーも生まれ、1970年代後半には音楽の教科書にも掲載されるほどになった。そして、学校の合唱曲の定番となっていくのである。
作曲家としての村井のキャリアは、1960年代末から1970年代前半に大きなピークを迎える。赤い鳥やガロの諸作品のほか、トワ・エ・モワ「或る日突然」(1969年)、「虹と雪のバラード」(1971年)、森山良子「恋人」(1969年)、ピーター「夜と朝のあいだに」(1969年)、辺見マリ「経験」(1970年)などを続々とヒットさせていった。また、ヒットとは言えないまでも、笠井紀美子「たゞそれだけのこと」(1968年)、フィフィ・ザ・フリー「栄光の朝」(1969年)、カルメン・マキ「種子」(1969年)、安井かずみ「わるいくせ」(1970年)、ROW「失われたもの達」(1973年)といったこの当時提供した楽曲の多くは、日本のソフトロックの元祖としてのちに高く評価されている。
村井がプロデューサーとして原盤制作に関わったアーティストの代表といえば、ユーミンこと荒井由実だろう。彼女はもともと他人に楽曲提供をする作曲家を目指していたが、村井の勧めにより1972年にシンガーソングライターとしてデビュー。一躍トップスターへと成長していくのである。そして荒井由実と切っても切れない関係なのが、村井の肝入りのコーラスグループ、ハイ・ファイ・セットだ。赤い鳥が解散してそのメンバーで改めて結成された3人組は、1975年に荒井由実の名曲「卒業写真」のカバーでデビュー。ユーミンが作詞、村井が作曲した「スカイレストラン」(1975年)や「幸せになるため」(1976年)も人気の高い楽曲だ。彼らはその後モーリス・アルバートのカバー「フィーリング」(1976年)が大ヒットし、日本を代表するコーラスグループへと成長するのである。
YMO、カシオペアの世界進出をサポート
1977年に村井はアルファレコードを設立する。アルファレコードは、それまでの音楽出版や原盤制作から、さらに一歩進み、1つのレーベルとして個性的な作品を生み出し続けていくことになる。吉田美奈子、サーカス、ハイ・ファイ・セット、ブレッド&バター、佐藤博といったいわゆるシティポップ系から、深町純や渡辺香津美などのフュージョン系まで洗練されたアーティストが多かったが、アルファが大きな存在となったのはYellow Magic Orchestra(YMO)があったからこそといってもいいだろう。細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏を擁したYMOは、シンセサイザーを主体にしたテクノポップで一世を風靡し、ポップミュージックの世界を一気にアップデートした。「テクノポリス」(1979年)、「ライディーン」(1980年)、「君に、胸キュン。」(1983年)といったヒット曲でお茶の間をにぎわす一方で、「BGM」(1981年)や「テクノデリック」(1981年)といったアルバムは、国内だけでなく海外のテクノやニューウェイブなどのサウンドクリエイターにも大きな影響を与えたことで知られる。その後、細野はアルファレコード内に¥ENレーベルを立ち上げ、テクノポップからさらに発展したソロ作品や戸川純、越美晴、サンディー&ザ・サンセッツなどの諸作品を精力的にリリースしていった。
海外での評価というと、カシオペアも外せないアーティストだ。1977年にギタリストの野呂一生を中心にアマチュアバンドとして始まったカシオペアは、フュージョンブームがピークを迎えつつあった1979年にアルファレコードからデビューを果たした。デビュー作の「CASIOPEA」にはBrecker Brothersやデイヴィッド・サンボーンといったトップミュージシャンが参加し、スピード感のあるテクニカルなプレイで音楽ファンを魅了。80年代に入ると海外でもレコードのリリースを実現し、ヨーロッパやアジアでもツアーを行うようになった。また、歌のないインストバンドとしては異例だったがテレビの音楽番組に出演しCMに起用されるなど人気はうなぎのぼりに高まり、日本を代表するフュージョングループとして頂点を極めた。その後もメンバーチェンジや活動休止を経て、現在はCASIOPEA 3rd名義で活動を続けている。90年代には海外のDJにジャパニーズレアグルーヴとして人気盤になったり、昨今ではアルバム「MINT JAMS」(1982年)を始めとする初期の作品群がシティポップの文脈で評価されたりするなど、その功績が再び見直されているのだ。
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そうそうたる才能を輩出したアルファレコード