藤巻亮太主催による野外音楽フェス「Mt.FUJIMAKI 2024」が、9月28日に彼の地元である山梨県の山中湖交流プラザ きららで開催される。
例年多彩な顔ぶれが富士山の麓に集結し、話題を呼んでいる「Mt.FUJIMAKI」。今年も家入レオ、氣志團、木村カエラ、斉藤壮馬、高橋優、flumpool、Reiというラインナップが出そろった。音楽ナタリーでは藤巻と、自身も地元・千葉で大型フェス「氣志團万博」を主催する氣志團の綾小路翔との対談をセッティングした。藤巻がレミオロメンでメジャーデビューしたのが2003年、かたや氣志團の“メイジャーデビュー”は2001年。ほぼ同じ時期に近いシーンにいながらもこれまであまり接点のなかった2人に、デビュー当時の思い出やお互いがフェスを始めたきっかけ、フェスを運営する魅力などをたっぷりと語り合ってもらった。
取材・文 / 張江浩司撮影 / 山崎玲士
引っ込み思案な下北沢時代
──お二人は同世代でデビュー時期も近いですが、これまで接点はあまりないですよね?
綾小路翔 そもそも氣志團はどなたとも接点がない人生というか。底辺でざわざわやってきたので。
藤巻亮太 いやいや、そんな!(笑)
綾小路 本当なんですよ(笑)。アマチュア時代に切磋琢磨してきたバンドたちのほとんどが今は活動していないし、昔からどのシーンに行っても所在がないというか。バンドの世界に寄れば不思議がられるし、芸能側に行っても周囲を戸惑わせてしまうんですよね。なのでコウモリみたいな立ち位置でやってきました(笑)。藤巻くんたちはどのあたりにいたの?
藤巻 レミオロメンは下北沢のライブハウスが原点なんですけど、結成当時は地元の山梨から通ってたんです。
綾小路 あ、そうなんだねー。
藤巻 ライブのたびに車で東京に行って、日帰りするっていう。だからバンド関係の友達は全然できなかったですね。
綾小路 打ち上げにもなかなか参加できないもんね。
藤巻 まだ22、23歳でしたし、今みたいに周りとコミュニケーションを取る空気もあまりなかったんですよね。
綾小路 確かに。
藤巻 メンバー3人だけで完結していた気がします。世代的にはASIAN KUNG-FU GENERATIONがいて、ちょっと前にはBUMP OF CHICKENがいて、という感じなんですが、彼らのことは「やっぱすごいな」と横から見ていました。
綾小路 下北のハイラインレコーズにバンプのCDがどわーっと面出しされてた時代だ。憧れたなあ。
藤巻 そうそう。こうやって年を経て、いろんな人と話すようになってほかのアーティストとの関係性もできてきたんですけど、当時は自分たちのことに一生懸命すぎましたね。
綾小路 その頃の僕らは、ジャンル関係なくあちこちのイベントにお呼ばれはしてたんですよ。ヴィジュアル系の対バンもあったし、ゴリゴリのジャパコアやいかついスキンヘッドの先輩方ともご一緒したり。かと思えば、舞台上で辞書を燃やす方面の前衛的な劇団にも呼んでもらったり(笑)。
藤巻 魔法みたいですね(笑)。
綾小路 あの頃のライブハウスはまだ怖い住人たちもいた時代で。厳しいヤジが飛んできたりね。そういうところで何ができるかだったよね。鍛えられたもんなあ。そういえば矢沢永吉さんの熱狂的なファンの方々が集まるイベントに呼ばれることが何度かあって。最初は散々だったよね。単純につっぱりの先輩たちだからね。中途半端なカバーなんてしてお茶濁そうもんなら怒号が飛ぶわけで。だからこそ「永ちゃん以外でこの人たちを唸らせるには、どういうライブをすればいいのだろうか」と真剣に考えた経験は、のちの自分の人生を大きく変えるきっかけとなったよね。つまりは“不可能を可能にする”という大谷翔平的思考だもんね(笑)。そんな経緯もあって、本家本元のフェス(「E.YAZAWA SPECIAL EVENT ONE NIGHT SHOW 2022」)にお招きを受けたときは武者震いしましたね。きっとあのときの俺たちを見ていたお客さんの何人かは会場にいただろうから(参照:矢沢永吉フェス開催!布袋寅泰、SUPER BEAVER、BiSH、氣志團、打首獄門同好会、サンボマスター集結)。
藤巻 素晴らしい話!
綾小路 逆に王道のライブハウス、例えば下北沢SHELTERとかには1回も出たことないんですよ。B級どころか、Z級の箱しか出たことがなかった(笑)。初めて下北沢CLUB Queに出たとき、店長にいつもやってるライブハウスを話したら「ごめん、どこも知らない」って言われましたから(笑)。友達みたいなバンドができても、僕らがデビューする頃には解散しちゃって。あ、マキシマム ザ ホルモンとはときどき一緒にやってたなあ。対バンしたとき、ホルモンの演奏中にフロアに6人いて、僕らの出番のときは4人しかいなくて。「うちのほうが集客ある」って言われたんだけど、お互いのメンバーがフロアにいただけだったんです(笑)。
藤巻 僕らもお客さんが2人しかいなかったときがありました(笑)。
綾小路 デビューしてからはRIZEと一緒に四国を回ったり、KICK THE CAN CREWやGO!GO!7188と北陸ツアーをしたりしたこともあったので、こちら側的には一方的には熱い仲間意識を持っていたんだけど、やっぱり引っ込み思案すぎたよね。
藤巻 引っ込み思案な氣志團さんは想像しづらいですね。
綾小路 僕らもメンバーだけでギュッとなってましたから。先輩たちと付き合うのは楽だったけど、同世代や年下にはどう接したらいいかわからなかったです。
藤巻 わかります。僕らはデビューした頃に「JAPAN CIRCUIT」というイベントでsyrup16g、ART-SCHOOL、MO'SOME TONEBENDERと全国を回ったことがあって。
綾小路 いいバンドばっかり!
藤巻 バーンとライブやって、そのあとお酒を飲みながら先輩たちと音楽の話も、音楽じゃない話もできるのは楽しかったですね。皆さん飲み方も激しいですし(笑)。「これが打ち上げか!」と。
綾小路 きっと僕らは近いところにいたんだね。下北沢はポップにミュージシャンたちが交流してる街だったし。高円寺はね、その頃はまだハードコアな場所だったんで、たまにビール瓶で殴られたりしてたけど(笑)。僕はPOLYSICSのフミちゃんが下北の先生で。あの街に住むさまざまな方々やいろんなお店を紹介してもらって。そうそう、僕らがメイジャーデビューするきっかけも下北沢なんですよ。CLUB Queに出たときに店長に面白がってもらって、次もライブに呼んでもらえるかなと思ったら「とりあえず新年会で余興やってくれない?」と。ちょっとしたスペースしかないからバンド演奏はできないということで、僕と(早乙女)光と(白鳥)雪之丞でSMAPの曲に新しい振付を自分たちで考えて踊ったんです。そしたら、それがすっごいウケて。それをウエケン(上田ケンジ)さんとか怒髪天の増子(直純)さんとかが面白がってくださって「やべえバンドがいる」って周りに言ってくれたことがやたらと広がったみたいで、その次のライブから急にレコード会社の人が観に来るようになった(笑)。しかも実際にはバンド演奏いっさいしてないんですけどね。
藤巻 どこにチャンスがあるかわからないですね。
綾小路 今でもメンバーには言ってます。「デビューできたのはすべて俺とSMAPのおかげだ」って。
レミオロメンにはなれないから、もうこれでいいか
藤巻 僕は氣志團さんの下北沢時代を知らなかったので、いきなり多くのメディアで取り上げてもらっている印象だったんですよね。「One Night Carnival」の頃だったと思うんですけど、すごいインパクトでした。
綾小路 言いづらいと思いますけど、マジで音楽をやってる人からしたら「ナメんなよ!」って感じだったんじゃないですか?
藤巻 いやいや!(笑) とにかく曲がポップで。衝撃的でした。
綾小路 僕はレミオロメンの曲を初めて聴いたときに、新しい時代が来たんだなと思いましたね。中学生の頃ですかね、アンダーグラウンドなパンクに夢中になった途端、メジャーの音楽に対しては「こんなもん歌謡曲じゃねえか」とか無理してイキって腐すこじらせ野郎だったくせに、結局自分が一番80年代歌謡曲の醜悪な焼き直しみたいな曲ばっか作る男になったわけですけども(笑)。ちゃんとロックやりながらも、商業音楽の人たちにも勝てるようなメロディや演奏力を持ってるバンドが出てきたのはすごいことだなと。テレビで一緒になったことありますよね? もしかしたらDJ OZMAだったかもしれない。
藤巻 そうですね。2006年12月の「ミュージックステーション」でご一緒させていただきました。
綾小路 そのときにレミオロメンの演奏を見て「俺はちゃんとバンドやってても絶対にこうはなれなかっただろうから、もうこれでいいか」と思ったことを覚えてます。
藤巻 いやいやいやいやいや(笑)。そういう意味では、僕たちもポップスをど直球で目指していたバンドじゃないんです。僕はRadioheadのようなオルタナティブロックが大好きですし、自分のやりたいことをやっていくとマニアックになっちゃう。でも、そうやっていたら本当にお客さんが増えなくて(笑)。メジャーデビューしたいという夢に近付いている感じが全然しなかったんですよね。
綾小路 うんうん。
藤巻 やっぱりライブで少しでもお客さんと一緒に盛り上がれるようなことを考えないといけないと思って。ちょっとアップテンポなナンバーを作ったり。今CMで使ってもらっている「南風」ができたのもこの頃ですね。リズム隊の2人にポップなほうに引き戻してもらったし、小林武史さんとの出会いも大きかったです。マニアックさを残しながら、ポップな部分もこじ開けてもらったというか。
綾小路 小林さんは生涯ご縁がないと思ってたんですけど、「クルックフィールズ」(千葉県木更津市にある、小林武史がプロデュースする食とアートのテーマパーク)ができてから僕を「木更津の先輩だから」と気遣ってくださって、たまに食事をするようになったんです。で、こないだ電話で打ち合わせをしたんですけど、ときどき何を言ってるか全然わかんないんですよ(笑)。
藤巻 小林さんは言葉と言葉の間にあるニュアンスをつかむのがものすごくうまいんですけど、とても抽象的になるんですよね。アートなんですよ。
綾小路 まさにアートだった! あの人は頭がよすぎるうえに、感性も研ぎ澄まされているから、決して説明を飛ばしているつもりはないんだろうけど、天才って突如話がワープしたりするんだよね(笑)。
藤巻 僕らもプロデュースしてもらっているときに、「本質的なアドバイスをもらったけど、どういうことだったんだろう?」となることがよくありました(笑)。それが音楽として具現化されたときに初めて答え合わせができるという。
本当はBLANKEY JET CITYみたいになりたかった
──アンダーグラウンド、オルタナティブなバックボーンを持ちつつ、「売れる」ということに正面から挑戦してきたのがお二人の共通点なんだなと思いました。
綾小路 僕ら全然売れたことないですよ。みんな実際には買ってないんだけど、聴いたことはある。「体感売上枚数200万枚」と言い張ってます(笑)。
藤巻 翔さんはいろんなものを見聞きして分析して、「向こう側からはどう見えるだろう」と客観的な視点を入れているじゃないですか。だから、氣志團さんの音楽はすごく間口が広いですよね。誰でも楽しめて口ずさめるものばかりで、すごく柔軟だなと。しかも、その柔軟さと、リーゼントと学ランのようなスタイルの一貫性が両立しているのがすごいですよね。
綾小路 でもこれはね、思っている以上に生理的に受け付けない人が多いみたい(笑)。
藤巻 そうなんですか?(笑) 最初からそのスタイルで?
綾小路 そうですね。地元だとみんなリーゼントを作れるんです。モンゴルの子供たちが生まれた頃から馬に乗せられてるみたいな感じで(笑)。リーゼントなんてまだ軟派なほうで、強制的にパンチパーマですから。真夜中のツーリングサークルなんかに入ると(笑)。それが嫌で嫌で、とにかく東京に行ってバンドをやろうと。でも、上京して2年間はバイトして生活するのがやっとで、バンドもできなかったんです。「ハロー東京! うっす、自分ちょっくら伝説作りに来たもんで!」ってぐらい調子こいてたのに、あっという間に萎んで「俺なんてなんの役にも立たない………生まれてすみません………」ぐらい、一気に自己肯定感や自信を全部失っちゃって。なのに、それでもバンドだけはあきらめられず。当時はBLANKEY JET CITYとかeastern youth、Hi-STANDARDみたいに、ストリート出身で、それぞれが圧倒的な個性を放つソリッドな3ピースバンドに憧れていて。でもこの2年で気付いてしまって。俺はどうやったってあんなふうにはなれないって。だから誰にも負けないものってなんだと必死で考えたら、たった1個だけ見つかったのが、あの頃一番嫌で千葉に置いてきたはずのヤンキー魂だったんです(笑)。リーゼントと学ラン・ボンタンのコレクションなら俺が一番だろと。中学の同級生で高校に行けたのが3人くらいしかいなくて、しかも2個下から制服がブレザー化したから、みんなのこだわり抜いた学生服の数々がすべて無用の長物となってしまったもので、供養代わりに集めていたんです。それをふと思い出して、「これならすぐ衣装にできるぞ」と閃いて、即地元の同級生を集めて組んだのが氣志團の始まりですね。
藤巻 地元の文化というか、皆さんの根っこの部分をベースに続けていくことで、誰もが知っているアイコンになったというのが、やっぱりすごいですよ。
綾小路 昔、親父に「有名になりたいんだったら、犯罪でも起こせばすぐなれるぞ」と言われて。浮ついた気持ちで生きてるのを見透かして説教してくれたんですけど、誰もやらないことをやればいいということでもあるなと思ったんですね。普段の素行が悪くても、便所掃除だけちゃんとやっておけばその一点で評価されるみたいなことがあるじゃないですか。そんな感じでバンドをやってます(笑)。
藤巻 自分たちで居場所を作ったということですもんね。
綾小路 でも、この場所に誰も入ってこないですよ。「おいでよ!」って言ってるのに(笑)。
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お互いがフェスを始めたきっかけ