10年前と同じホール、同じピアノで
──今作「V.I.P X」は、まらしぃさんが2010年にリリースしたアルバム「V.I.P」を踏襲したタイトルですよね。なぜこのタイトルにしたんでしょうか?
2010年に「V.I.P」を作った当初はまだ学生で、本当にピアノ1本でがんばっていけるか、まだ迷いもあった頃なんです。今みたいに動画で活動して配信で生計を立てている人なんて全然いなくて、ピアノを本格的にやるにはオーディションを受けてどこかの事務所に入らないといけないとか、路上ライブから下積みをしなきゃいけないとか、そういう価値観の時代だったんですよね。当時の自分なりに全力でアルバム作りに没頭して、もちろん満足感はありましたけど、自分の技量不足からちょっと悔しかった部分というのもあった。10年経っていろんな経験を積んだ今だからこそ「またあのピアノでボカロ曲を弾きたいな」と思い、今回のアルバム作りをレーベルのスタッフさんに提案したんです。
──今作のレコーディングが「V.I.P」のときと同じホール、同じピアノで行われたことにつながるわけですね。
はい。「V.I.P」は僕の第1作目のアルバムだったので、10年後に作るアルバムはそれを踏まえて、同じホールで僕の10年をなぞっていくようなアルバムにしたくて。最近はスタジオでレコーディングする機会のほうが多いんですが、ホールでのレコーディングは解放感があって気分が上がるんですよね。会場にあるピアノがすごくいいピアノであることも覚えていたので、10年経った今の僕があのピアノをどう鳴らせるのかも挑戦してみたくて。とにかく大好きなホール、大好きなピアノなので、もう一度あそこでピアノが弾けたことにむちゃくちゃ感謝しています。
──アルバムには「Memorial Track」として、10年前の「V.I.P」にも入っていた「from Y to Y」と「夢、時々…」の2曲が収録されています。10年の時間を経て、同じ曲を同じ環境で弾いてみて、まらしぃさん自身は自分の成長をどう感じましたか?
確か「from Y to Y」は、10年前にそのホールでピアノを弾いた動画をアップロードしていたんです。当時の僕の動画って、手元のアップのものがほとんどで、あまり俯瞰で撮った映像がなかったんですが、「from Y to Y」はホールで撮影したこともあって、ちょっと引いた視点で動画を撮っていて。当時の僕はその映像がすごく新鮮だったんですよね。あ、自分はこんなふうにピアノを弾いてるんだって初めて知ったというか。それから10年経って、今の僕は自分の演奏を俯瞰で聴くことができるようになってきたというか、今鳴っている音を少し離れたところに座っている自分が聴いているようなイメージを持つことができるようになった。あのとき新鮮に感じていたことが、今は自然にできるようになったのを感じながらレコーディングをしていました。
──もう1曲の「夢、時々…」は、「V.I.P」収録時にストリングスアレンジだったものが、今作ではピアノ1本の演奏になっています。
こんなことを言うと生意気なようですが、実は当時からピアノソロで弾きたかった曲なんです(笑)。弦楽器の方と一緒にやらせてもらって、ものすごく勉強になりましたし、当時のストリングスアレンジも素晴らしいものではあるんですが、自分1人で弾いたらどうだったのかな、というのはずっと思っていて。それを10年越しに叶えることができました。いざ1人で弾いてみると、弦楽器の音が入った雰囲気を知っているからこそ、より広がりのある演奏ができるようになったとも感じていて。当時の僕は不満に思っていたかもしれませんが、今振り返るとあのストリングスアレンジをやったから今の演奏ができているんだとも思っています。それと、この10年でいろんなライブで演奏させてもらった曲でもありますから、自分の思い出を音に詰めるように弾きました。
アルバムの裏コンセプト
──先ほどの「10年をなぞるようなアルバムにしたい」というのは選曲にも表れていますよね。この10年で発表された新旧のボカロ曲が満遍なく収録されています。
この10年で思い出のある曲を選びつつ、ここ最近の配信で視聴者の方に教えてもらって大好きになった曲も入っています。
──収録曲の中で新しめな楽曲は「KING」と「グッバイ宣言」です。これらの曲は視聴者のリクエストから知ったということですか?
そうですね。曲によっては再生数が少ない段階で自分で掘り当てることもあるんですが、「KING」と「グッバイ宣言」はコメントで「弾いてください」と言ってもらったのがきっかけで出会った曲です。リクエストされる曲はたくさんあるんですが、自分で聴いてみて特に気に入ったボカロ曲がこの2曲です。
──まらしぃさんのボカロ曲にはアップテンポで勢いよく弾くイメージが強くありますが、今作の収録曲はゆったりしたテンポ感のアレンジが施されているものが多く収録されています。このあたりも10年の年季を感じさせる部分なのかなと感じました。
僕も丸くなったってことですかね?(笑) 勢いに任せて楽しく弾くというのも僕の好きなスタイルの1つではあるんですけど、10年ピアノを弾き続けてきた今の自分の演奏をあのピアノにぶつけてみたい、という裏コンセプトがありまして。10年前だったらアップテンポで楽しく、フレッシュな感じを武器にしていましたが、今では激しい曲を弾くにしても緩急が付けられるようになったというか、昔よりバランスを考えながら弾けるようになりました。それとリズム感がちゃんと伝わるようなアレンジがけっこう好きになって、皆さんが一歩引いて聴いてもらったときに違和感なくすんなり入ってくるようなアレンジを目指していたのもあります。
──例えば「天ノ弱」のイントロは原曲とかなり違って、たっぷり溜めながら自由に弾いているイメージがありました。
原作のリスペクトの仕方はいろいろあると思うんですが、「天ノ弱」の場合は歌詞やメロディの響きを大事にしたくて、ちょっと挑戦的なアレンジにしてみました。
──このイントロ部分を星出さんがどういう楽譜に落とし込むのかも気になりますね。
確かに。フェルマータを付けて音符を書くのが一般的だと思いますが、テンポの指示まで具体的に書くのか、無音の小節を感じてもらうように何小節か足すのか……星出さんがどう解釈されるのか楽しみですね(笑)。ピアノをソロで弾くときは溜めながら弾いたり、逆に前のめりに勢いを重視して弾くこともあるので、こういう細かい部分が楽譜だとどう表現されているのか、楽譜にも触れて確認してほしいですね。
生で聴いた衝撃が忘れられない
──アルバム本編の最後を飾るのはryo(supercell)さんの「ODDS&ENDS」です。この曲を選んだ理由は?
「ODDS&ENDS」は、当時ジョイポリスで(初音)ミクさんのライブがあって、そこで初披露された曲だったんです。僕はryoさんのことが大好きなものですから、この曲が聴きたいがためにジョイポリスまで足を運んで、この曲を生で初めて聴いたんです。今でも鮮明にそのライブを思い出せるくらい、そこでの経験が衝撃的で忘れられなくて。最近ゲームの「プロジェクトセカイ」でも「ODDS&ENDS」が収録されて、この曲を弾きたい熱がものすごく高くなったのでアルバムに収録することにしました。
──新世代のボカロPの勢いもすごいですが、周年のタイミングで定期的に過去の楽曲にスポットが当たるのもボカロ文化の特徴ですよね。
今はボカロ文化の盛り上がりがすごいから、もしかしたら最近ボカロを聴き始めた方も多いかもしれないけど、おっしゃる通り昔の名曲が注目されて、その曲やクリエイターの方にスポットが当たるみたいな瞬間がこれまで何度もあって。僕自身、それでいろんな名曲に出会ってきたし、これから先の新しいリスナーの方にも過去の名曲を知ってもらいたい気持ちが強い。「ODDS&ENDS」もそんな名曲の1つだと僕は感じているので、微力ながら、僕もこの曲にスポットを当てたくなって収録曲に選びました。
10年前の自分に教えてあげたい
──アルバムの初回限定盤には今年3月に開催された武道館公演のライブ映像が収録されています(参照:まらしぃ1人でステージに立ち、日本武道館をグランドピアノの音で満たす)。振り返ってみて、武道館公演はどのようなライブでしたか?
すごく気合を入れて臨んだ武道館公演だったんですが、なんだかあっという間に終わっちゃったライブでした(笑)。ライブをする前は「武道館にピアノ1台で立たせてもらえるなんて1回できるだけで御の字」と思っていたんですが、人間というのは欲が出る生き物で、今では何かの節目でもう一度武道館に立ちたいなと思っています。そのとき、もっといい演奏ができるようにがんばらなきゃなという気合いも入りました。
──近年のまらしぃさんはバンドやユニットを組んで複数人でのコラボでライブを行う機会も増えています。それらの流れとは対照的に、武道館公演ではまらしぃさん1人でライブをやり遂げたのが印象的でした。
バンドもユニットも自分が好きでやらせてもらっているので優劣は全然ないんですが、自分の根本にあるものは1人でピアノを弾くことにあるんですよね。なんだかんだ言って、1人で好き勝手にピアノを弾くのが一番好きなんです。器が小さいと思われちゃうかもしれませんが、あのステージには1人で立ちたいなと思っちゃって(笑)。そういうわがままを聞いてもらえたことも、すごく恵まれていることだと感じています。それと、武道館でのライブを経て、「V.I.P X」のレコーディングに入れたのもすごくよかった。武道館でのライブでこれまでの活動を総括できたことが、10年分の経験をCDに込める今作のレコーディングに生きたと感じています。
──武道館ライブと「V.I.P X」のリリースで、これまでの活動を大いに振り返ることができたわけですね。
「V.I.P X」が完成して、このCDを作ったことを10年前の自分に教えてあげたいなと思ったんです。当時の僕は10年ピアノをやり続けられると本気で思っていなかっただろうし、YouTuberなんていなくて動画の文化もまだまだ成熟していなかったし。いろんな不安がある中で、全力でやってきたから今があるのは確かなんですが、当時の僕が想像もしていなかったような自分になっていると思うし、動画カルチャーの時代も大きく変わりましたから。「10年後、ここでもう1回このアルバムを作るんだぞ」なんていきなり言われても、きっと当時の僕は信じなかったと思うけど、アルバムが完成してピアノを10年弾き続けられることを教えてあげたい気持ちになりました。それぐらい、「V.I.P」というアルバムをもう一度作れたことをうれしく感じています。