リンダ・キャリエール「Linda Carriere」特集|プロデューサー・細野晴臣の証言から紐解く幻のアルバム

細野晴臣がプロデューサーを務めた、リンダ・キャリエールのアルバム「Linda Carriere」のCDが7月17日にリリースされた。追って8月3日にはアナログ盤も発売決定。長年“幻のアルバム”として語り継がれてきた作品がついに世に放たれる。

アメリカのニューオリンズで生まれ、ロサンゼルスのクラブ・Maverick's Flatにて歌手活動を行っていたリンダ・キャリエール。彼女のデビューアルバムとなる予定だった「Linda Carriere」は1977年に細野とアルファレコードがプロデューサー契約を結び、その第1作として山下達郎、佐藤博、吉田美奈子、矢野顕子ら協力のもと制作されていたが、海外戦略上の事情で発売中止に。以降、“細野晴臣がプロデュースを手がけた幻のアルバム”は長きにわたり音楽ファンの間で音源化が望まれていた。

音楽ナタリーは、全5回からなるアルファミュージック創立55周年記念特集の第2弾として、47年の時を経て遂に正式発売されたアルバム「Linda Carriere」を特集。プロデュースを手がけた細野の証言を交えつつ、本作の制作背景を探った。なお記事のメインカットで使用している写真はアルファ代表の村井邦彦、リンダ・キャリエール、細野晴臣の3ショットを収めたレコーディング当時の貴重なカットとなる。

取材・文 / 松永良平

隠されていた宝物みたいなアルバム

「隠されていた宝物みたいなアルバムだと思うんですよ。当時はお蔵入りになったけど、こうして何十年も経って出るということに意味があるのかもしれない。今の時代に世に出ることを待っていたようなね」

細野晴臣は、リンダ・キャリエールと47年前に作ったアルバムについて、そう感慨深く語った。

1976年の12月、細野は音楽プロデューサーとしてアルファレコード(当時)と契約を交わした。その第1弾として、自身も含め、山下達郎、吉田美奈子、矢野顕子、佐藤博らの書き下ろし楽曲で、アメリカ人女性シンガー、リンダ・キャリエールを日本に招いてアルバムを制作した。細野にとっても、リンダにとっても新たなキャリアの第一歩となるはずだったそのアルバムは、完成直前に発売中止となった。

以降、細野はYellow Magic Orchestraで怒涛の日々に突入し、リンダはLAを拠点に活動するソウルグループ・Dynastyに加入し、輝かしいキャリアを歩んでいった。

このアルバムの音源はファイナルミックスを前にテスト盤としてごく少数プレスされたが、市場に出回ることはほとんどなかった。細野晴臣が70年代に作ったとびきりのソウルアルバムが実在するという事実は、ほぼ都市伝説のように音楽ファンをとらえ、妄想させた。実は78年に、細野自身がラジオ番組「アルファ・サウンドラボ」で、アルバムから「Love Celebration」「Loving Makes It So」「Child On An Angel's Arm」の3曲をオンエアしたという記録がある。また、本作の正式発売を長年熱望していた山下達郎も、ラジオ番組「サンデー・ソングブック」で自身が提供した楽曲をオンエアしたこともある。内容の確かなクオリティはそこでも証明されてもいた。

その細野いわく“宝物”のような作品が、ついに正式な形でリリースされた。アルバムのマルチテープが発見され、細野とはYMO「テクノドン」(1993年)以来の縁であるGOH HOTODAが新たなマスタリングを担当し、70年代的な質感を保ったまま、現代の若い耳にも響く緻密なミックスが施された。そして、細野が語ったように、2024年というこのタイミングも絶妙だった。70年代のシティポップに世界が注目する流行の中で、我々の耳はあの時代のサウンドの質感に無意識のうちに慣れ親しんでいる。そして、エフェクトがほとんどない元のミックスはミュージシャンたちの技量の高さをそのまま伝える最良のサンプルにもなっている。

リンダ・キャリエール「Linda Carriere」ジャケット

リンダ・キャリエール「Linda Carriere」ジャケット

その新鮮な響きを細野はこう表現した。

「リンダの歌もいいけど、演奏がいいんですよ。みんなうまい。それを今聴いてほしいというのはありますね。脂が乗るというか、青臭くない若さというか、当時の20代の音楽家にあるエネルギーなんです。歌を最後に入れるので、セッションで全部アレンジを決めて、歌ったあとから音を付け足したりはしていません。今みたいにあとで作り変えたりはできないんです。あの当時の楽曲として、演奏として、歌として、完成度がこれほど高いものを今では作れないと思います」

何色にも染まっていなかったリンダ・キャリエール

このアルバムが作られた経緯について、説明しておく。アルファの村井邦彦からプロデューサーとしての契約を持ちかけられた細野は、同時に、アメリカのソウルシンガーとアルバムを作って世界に進出するというアイデアを提案された。その際に細野から出したアイデアが、クリオール(アメリカ南部ニューオリンズ周辺に多い移民の子孫)のシンガーと作品を作ってみたいというものだった。

「ニューオリンズ音楽にどっぷり浸っていた時期だったし、クリオール系にしたいとはっきり言いました。Dr.Buzzard's Original Savannah Band(クリオールのメンバーによって構成されていたバンド)の影響もありました。僕もそうですけど、みんな彼らのサウンドに衝撃を受けたんです」

そして、アメリカの業界紙で募集されたオーディションに残ったのが、ニューオリンズ出身でLAのクラブシンガーだったリンダ・キャリエールだったのだ。77年1月、LAに村井とともに飛んでリンダと対面した細野は、彼女の印象を「まったく色に染まってない人でしたね」と振り返った。それは彼女の歌声についての印象でもあった。いわゆる“コブシ”を効かせたソウルフルな歌ではなく、細野が考えるソウルミュージックには、何色にも染まっていないことが重要だった。

リンダ・キャリエール (Courtesy of James Ragan)

リンダ・キャリエール (Courtesy of James Ragan)

そこからの展開は早い。2月に楽曲のアレンジが始まり、月末にはリズム録りがスタートした。細野(「Sunday Girl」「All That Bad」「Child On An Angel's Arm」「Socrates」)、矢野(「Laid Back Mad Or Mellow」)、佐藤(「Vertigo」)の楽曲では細野主導で、山下(「Up On His Luck」「Love Celebration」)、吉田(「Loving Makes It So」「Proud Soul」)の楽曲では山下がアレンジを担当した。そのメロディに、詩人・作家・脚本家として現在も著名なジェームス・レイガンが英語詞を付けた。そして、リンダが来日して、数日間で歌入れ。4月には録音が終了した。シンガーも作曲者も決まっていない、まったくのゼロからスタートした制作が、半年もしないうちにこれほどの完成度に至った、その事実には驚きしかない。その背景を細野はこう証言している。

「当時、山下達郎、吉田美奈子、矢野顕子とかいつも一緒にやってたので、依頼も手近なところにしました(笑)。みんな才能があるんで、本当によかったなと思います。みんなに事前にこういうふうにしたいとかは説明はしていないですね。自由に発想してもらったと思うし、ちゃんと力を入れてもらいました」

「アレンジについては、山下くんは自分の使うミュージシャンを決めていたから彼の曲では演奏も含めて任せました。僕らはユーミンとキャラメル・ママでレコーディングしていた頃のスタイルのままずっとやっていたんです。歌手がいなくてもキーさえ決まっていればヘッドアレンジができた。そこはまったくいつもと同じ作業だったんです。リンダの歌も、何度もテイクを重ねたりしていない。3テイクくらいじゃないかな」

リンダのアルバムがお蔵入りになったことでYMOが生まれた

しかし、こうして満足のうちにレコーディングは終了したものの、当時のアメリカのレーベル関係者の反応が芳しくなかったため、アメリカでの成功を期するうえでの村井の判断により、アルバムはまさかの発売中止になってしまった。当時、細野も大きなショックを受けたことは間違いないが、それを悔やんでいるわけにもいかなかった。

「ものすごいスピードで制作して、中止になって、だからとどまっていられなかったんでしょうね。契約もあるし、何かをやらなきゃいけない。プロデューサーとして作品が世に出なかった責任を感じてましたし。でも今思うのは、リンダ・キャリエールのアルバムがお蔵入りになったことでYMOが生まれたんですよ。それがなかったら、僕はずっとプロデューサー業をやっていたかもしれない。そこは大事なポイントだったんだとも思いますね」

細野晴臣

細野晴臣

YMOはテクノだし、リンダのアルバムはソウルだろう。目に見えるジャンルだけで考えると確かにそうなのだが、リンダのアルバムを細野の音楽キャリアの年譜に置いて聴いてみると、新たに見えてくるものがある。細野や、細野の依頼を受けたソングライターたちが意識した楽曲には、細野へのリスペクトが反映されたのか、それとも、日本生まれのソウルミュージックというテーマを無意識に感じていたのか、自ずとオリエンタルなフレイバーがある。つまり、このアルバムは、「泰安洋行」(1976年)から「はらいそ」、あるいはYMOの原点である「ファイヤークラッカー」の間にあったミッシングリンクなのではないか。細野にそう問うと、「まったくそうですよ」と大きくうなずいた。

実は、アルバムのマスターテープから発見された未発表のトラックがある。それはのちに「はらいそ」に収録された「東京ラッシュ」になる曲の断片で、曲として完成していたらリンダが歌った可能性もあるものだった。細野は言う。

「リンダに歌わせようとしていたアイデアの1つだったんです。そこで使わなかったから自分のアルバムに持っていったんでしょうね。エキゾチシズムもうっすらあるし『ファイヤークラッカー』にもつながってますよね」

そんな細野の意図は、アメリカでのオーディションのためのプロモーションに用いられた(あるいは、使用予定だった)「soul-oriented」というワードにも表れているように思う。細野が考えた言葉ではないそうだが、結果的にこのアルバムを説明する一番いい言葉だとも感じる。人種やジャンルにとらわれない「soul-oriented」な音楽であり、極東の日本でミュージシャンたちが才能と情熱を注いだ「Oriental Soul」でもあるのだから。

アルバムのリリースを喜ぶ細野は、こんなエピソードも明かしてくれた。

「レコーディングの詳細はあまり覚えていないんですが、僕が住んでいた狭山の家を彼女が訪ねてくれたことはよく覚えています。そのとき、彼女は腕に数珠(英語で“Worry Beads”)を付けていたんです。ちょっとスピリチュアルな話で彼女とは気が合ったんですよ。その思い出をもとに、僕は『はらいそ』を作るとき『ウォリー・ビーズ』という曲を書きました」

最後に細野は、47年の不在を乗り越えたこのアルバムをきっかけにリンダとのいつの日かの再会が実現することを願った。

「リンダの歌は、今聴くとローラ・ニーロのような感じもあります。若い人たちに聴いてほしいですね。そしていつかリンダが日本に来て歌う機会があるなら、どこかのクラブで一緒にやってみたいな……なんて、軽口叩いちゃうけど(笑)」

左から村井邦彦、リンダ・キャリエール、細野晴臣。(写真提供:村井邦彦)

左から村井邦彦、リンダ・キャリエール、細野晴臣。(写真提供:村井邦彦)

プロフィール

リンダ・キャリエール

ニューオリンズ生まれのシンガー。UCLAに通うために移住したロサンゼルスのMaverick's Flatという若者向けのクラブで歌い始めたところから歌手としてのキャリアがスタートした。1977年、細野晴臣のプロデュースによるアルバム「Linda Carriere」が制作されるも、海外戦略上の事情で発売中止となる。その後、R&BグループDYNASTYの一員として活躍。制作から47年の時を経た2024年、アルバム「Linda Carriere」の正式リリースが発表され、国内外の音楽ファンの間で話題を呼んだ。

細野晴臣(ホソノハルオミ)

1947年生まれ、東京出身の音楽家。エイプリル・フールのベーシストとしてデビューし、1970年に大瀧詠一、松本隆、鈴木茂とはっぴいえんどを結成する。1973年よりソロ活動を開始。同時に林立夫、松任谷正隆らとティン・パン・アレーを始動させ、荒井由実などさまざまなアーティストのプロデュースも行う。1978年に高橋幸宏、坂本龍一とYellow Magic Orchestra(YMO)を結成した一方、松田聖子、山下久美子らへの楽曲提供も数多く、プロデューサー / レーベル主宰者としても活躍する。YMO“散開”後は、ワールドミュージック、アンビエントミュージックを探求しつつ、作曲・プロデュースなど多岐にわたり活動。

※記事初出時より一部表現を変更しました。

2024年7月22日更新