私、下積みをしてないと思うんですよ。そう思いませんか?
──岸本さんは以前から外側の世界みたいなことに意識的だったのかなと思います。入院した際に、グループを客観的に見ることができたのもそういうことなのかなと。
ずっと前からそうなのかもしれないです。古着屋さんの店員さんと仲よくなって、そこからファッション関係の人と友達になるとか、お仕事で一緒になったグラビアアイドルのお姉さんと仲よくなって、そこから友達が増えていったりとか。いろんな人の話を聞く中で、グループのほかの子よりは早く、外から自分の活動を見れていた気はします。ハロー!プロジェクトという歴史のある場所で活動させていただけて、年に2回はCDを出せるとか、ツアーが定期的にあるとか、当たり前のようにやらせてもらっているけど、本当は当たり前じゃないというのはみんなもわかってはいるんです。けど私はそういう状況に対して、より意識的だった気がします。自分では地上のアイドルぶってるけど、外から見たら地上とか地下とか関係ないし、そもそもアイドルに興味がない人からしたら、私のことなんて誰も知らないわけで。そういう感覚を持てたのは、いろんな人と話す中で、甘えてちゃダメだとわかっていたからだと思います。
──以前から取材のたびにすごく大人だなと感じていたのですが、そういう視点を持っているからなんだと合点がいきました。一歩外に出てしまえば「誰も知らない」という状況が待っていると理解したうえで、ソロでやっていこうと判断したのも勇気が要ることだったのではないでしょうか。
18歳くらいから常に、1人で歌う日がいつか来ると思っていたんですよね。つばきファクトリーとしての自分はもういいかなと思えたのが入院のタイミングだっただけで、1人でやっていきたいという気持ちはそれよりも前から思ってました。もちろんグループを疎かにするとかではなく、個人的な目標としてずっと持っていたんです。1人は大変だし、グループにいたほうが気持ち的にも安定するんじゃないか、というのは周りからもすごく言われました。でも……めちゃくちゃ失敗したくはないんですけど、そうなっても面白いと思ってもいます。
──それはどうしてでしょう。
ハロー!プロジェクトでの人生って、その中での多少の波はあったとしても、一般的に見たらすごくよかったんですよ。早い段階で同級生よりもいい人生を送っていたと思うんです。金銭的な話ではなく、経験として。その分の幸せストックがあるので、今は「落ちてもいいや」という覚悟もあるんです。それに私、下積みをしてないと思うんですよ。そう思いませんか?
──めちゃくちゃしてきたじゃないですか。
いやいや、もちろん先輩の世代はあったと思うんですけど、私たちの世代は、せいぜいハロプロ研修生時代にいっぱい怒られたとか、地方の子はホテルに泊まりながらレッスンを受けていたとかくらいで、それって下積みって言うのかなとずっと思っていて。
──ああ、スタートラインからいい位置にいるというか。
そうなんです。先輩のバックでホールツアーや日本武道館のステージに立たせてもらったりとか、グループで活動するようになってからはライブハウスでツアーを回らせてもらったりとかしてきたんです。でも私は、例えば外でチラシを配って自分たちを宣伝したことがないですし、実はそういうことをしたいという欲が自分の中にずっとあったんです。ハロプロに所属していることで、ちょっとだけ雲の上の存在と見られるようなこともあったけど、「私はそんなにすごい人じゃないんです」と、ずっと思っていて。すごい人扱いされることに自分の中でギャップがありました。だから今は、ちゃんと下積みをしたいという気持ちもあるんです。私、チケットを手売りしたことがないんですよ。
──それは、果たして必要な経験なのかなとも思いますけれど。
でもグループでライブハウスツアーを回ったとき、お客さんの数がキャパの半分以下という会場もあったんですよ。もしかしたらSNSとか動画で、自分たちなりに何かやれることがあったかもしれないですけど、いい意味でそれをやらせてもらえない環境にいたんです。メンバーのやることとスタッフさんがやってくれることがそれぞれあって、ここまではやらなくていいという線が明確に引かれていた。それは素敵なことだし、ありがたいことだし、正解だと思うんですけど私としては、もっと泥臭いことをしたいという思いがありました。
YU-M山田さんのもとでソロ活動したいという憧れがあった
──岸本さんのスタンスがわかった気がします。それこそハロー!プロジェクト卒業後にM-line club(ハロー!プロジェクトを卒業したアップフロントグループ所属タレントによるWeb中心のファンクラブ)に所属して引き続き音楽活動を行っている先輩もいて、岸本さんもそこに進む選択肢があったのではと聞かれたりすることも多いと思うんですよ。でも、YU-Mエンターテインメントを選んだのも納得というか。
(M-lineの)提案もしていただきました。私がYU-Mをを選んだのには2つ理由があるんですけど、1つ目は、社長の山田(昌治)さんのもとで活動したいという憧れがグループ結成前からあったんです。
──えー! かなり前から憧れていたんですね。
ハロプロ研修生のときに帯同していたハロー!プロジェクトの中野サンプラザのコンサートに、オリジナルメンバーのアップアップガールズ(仮)さんが出演されていて。それを観たとき「アプガさん、カッケー!」と思ったんですね。アプガさんにとって、その中野のライブ自体はホームでありアウェーみたいな状況だったんですよ。ハロプロエッグ出身の方々ですけど、ハロプロではないというところで。
──自分も観に行ってましたが、すごい雰囲気でしたよね。「私たちはハロプロエッグを辞めさせられて」というMCに始まり、ハロプロ勢を食ってやろうという気持ちがみなぎっていて。
アプガの皆さんが会場を巻き込んでいる姿を間近で見て衝撃を受けたんです。その光景を観て、このチームは生ぬるくないと思ったし、山田さんは正直めっちゃ怖かったんですけど(笑)、この人カッコいいなと思いました。その後、私はつばきファクトリーに入ることになるんですけど、山田さんに憧れていたので、ソロ活動を始める日が来たらYU-Mでやりたいって、ずっと思ってました。それと2つ目が、ハロー!プロジェクト以外の曲で音楽活動をしてみたいと思ったんですね。M-lineに所属している先輩方はハロー!プロジェクトの曲を歌って楽曲の魅力を後世に伝えつつ、オリジナル曲を歌ったりしていて、新たな場として素敵だなと思うんですけど、そこに私は必要ないかなと思ったんです。すでにやってくださっている先輩方がいるので、私は別の新たな場に挑戦してみたいというか。誤解のないように言いたいんですけど、伝わりますかね?
──M-lineという場やそこで活動する方々へのリスペクトは十分に伝わります。それに、こうして荒波に揉まれて自分を試したいという気持ちも表明しているわけで。
自分だけの歌を歌いたいという気持ちも強いです。だからグループ卒業後の気持ちは固まってました。
最後のツアーに参加できたのは、一緒に卒業する山岸理子ちゃんがいたから
──活動休止後、つばきファクトリーとしての最後のツアーで復帰しましたが、その頃の調子はいかがでしたか?
正直、アイドルをやりきれるかやりきれないか、くらいの感じはありました。
──万全ではなかったんですね。
でも、スタッフの皆さんが優しくて、「無理だったら出なくてもいいよ」と言ってもらえていたんですよ。最後のツアーも、海外公演も出なくていいし、出れるんだったらその前の夏のライブから出てもいいし、というふうに、自分のペースで悔いなくやりきってほしいと。ツアーに出ることによって最後まで走り切れなくなるなら卒業公演だけにしたほうがいい、とも言われていました。私が最後のツアーに参加できたのは、一緒に卒業するリーダーの山岸理子ちゃんがいたからです。今思うと、1人だけの卒業だったらまた甘えてしまって、最後の公演だけ出ていたかもしれない。卒業するリーダーがいるのに、通常のツアーを私抜きでやってもらって最後だけ出るというのはすごく失礼じゃないかと思ったんです。そうしたら全曲のフォーメーションや歌割の直しが必要になるわけで、メンバーにもスタッフさんにも迷惑がかかりますし。
──山岸さんの存在が大きかったんですね。
はい。同期というのもありますし、昔はリーダーという役職の大変さをわかってなかったんですけど、年を重ねるにつれ私には絶対できないことだなと思うようになりましたし、理子ちゃんのことはすごく尊敬していました。
メンバーみんなが「ゆめちゃんにも歌ってほしい」と言ってくれた
──たらればの話になってしまいますが、もし岸本さん1人だけの卒業公演だったら最後のツアーに参加するのは難しかったかもしれない?
実はそれも言っていただけていたんです。本当に無理だったら(山岸と卒業公演を)分けようと。私の卒業を延長する可能性も用意してくださって。でも、長引くほうが私には無理かもという気持ちがあったので、あの形になりました。確かに1人だと抱えきれなかったかもしれませんね。
──卒業前にリリースされたシングル(「勇気 It's my Life! / 妄想だけならフリーダム / でも…いいよ」)も、参加するか否かという判断が難しかっただろうと想像します。
結局レコーディングには参加できなくて。武道館の卒業公演は最後に山岸理子ちゃんに向けたザ・卒業曲の「勇気 It's my Life!」をやって終わったんです。セットリストは私と理子ちゃんの意見を汲んでくださったんですけど、理子ちゃんが最後は「勇気 It's my Life!」がいいと言って。「勇気 It's my Life!」はもともと私の歌割がない曲なので、「グループ最後の日の最後の曲で1人だけソロパートがないのは、どういう気持ちで終わったらいいのかわからないです」とスタッフさんに伝えたんですけど、そこは今さら変えられないということになって。だけど、私が参加してないリリースイベントのときか何かに、メンバーみんなが「ゆめちゃんにも歌ってほしいし、最後はみんなで楽しくやりたいです」と言ってくれたみたいで。
──えー!
それでリハーサル直前のギリギリで変えてもらって、そのツアー限りの歌割を作ってもらいました。「妄想だけならフリーダム」に関しては武道館の日だけの歌割を追加してもらったり。そういう状況を作ってもらえたのはメンバーのおかげです。
──とんでもなくいい話ですね。そういった背景を踏まえて、山岸さんをエスコートする岸本さんのくだりだとか、卒業公演のことを思い出すとグッときてしまいます。そして冒頭の話に戻ってくるわけですが、これからも歌っていきたいとなるわけですね。
「やる気があります」というのを口に出していかないとちゃんと伝わらないと思ってました。
──ひと昔前のアイドル界では、卒業後の動きはどうなるかわからず、半年から1年くらいの沈黙の期間を経てようやくカムバックするという慣例みたいなものがあったじゃないですか。岸本さんの場合そういうこともなく、グループ卒業からソロデビューまで、スムーズに移行していった気がします。着々と準備を進めてきたという感じでしょうか。
いや、けっこう休んでましたよ(笑)。YU-M所属の発表をしたのは今年の1月で、アップアップガールズ(仮)とアップアップガールズ(2)のイベントが新宿であったときにMCのアシスタントをさせてもらうことになって、そこで発表することがギリギリに決まりました。その日に言ってなかったら、いつになっていたかわからないんです。もしかしたら4月1日にソロデビュー曲(「BLUEMOON BLUES」)を出すまで発表できなかったかもしれない。それくらいソロデビューに向けた動きは少なかったと思います。いざソロデビューした今は自分1人のことなので120%身が入るというか、いろんなことを考えるのが楽しいと感じています。今後の活動に向けて曲をたくさんレコーディングしてますし、1月に事務所に入ったときに山田さんにギターをプレゼントしていただいて、今は週1でレッスンさせていただいてます。まだ本格的には進んでいないんですけど、自分で曲作りとかもしているので、これまでとは全然違う人生だなと感じてます。