井上芳雄のニューアルバム「Greenville」が3月22日にリリースされた。
彼にとって2018年7月発表の「幸せのピース」以来、4年8カ月ぶりのアルバムとなる「Greenville」。本作は「人生の中で訪れる苦難や悲しみ、そんな誰もが経験する様々な場面にそっと寄り添う曲たち」というテーマのもと、コトリンゴをプロデューサーに迎えて制作された。アルバムにはコトリンゴをはじめ、堂島孝平、清塚信也、mabanua(Ovall)、Michael Kaneko、モノンクル、おおはた雄一、寺尾紗穂、Kitri、冨田恵一、劇作家・蓬莱竜太と作曲家・阿部海太郎といった多彩なアーティストが参加。バラエティ豊かな10曲が収録されている。
音楽ナタリーでは本作のリリースを記念して、井上とコトリンゴにインタビュー。2人に「Greenville」に込めた思いや制作エピソードを聞いた。
取材・文 / 小松香里撮影 / 大城為喜
皆さんの日々に寄り添える曲を
──初のオリジナルアルバム「Greenville」のプロデュースをコトリンゴさんにお願いした経緯を教えてください。
井上芳雄 レーベルのスタッフの方と相談する中で、コトリンゴさんにプロデュースしてもらえたら、僕がこれまでやってきたことと全然違う作品になって面白いだろうなと思いました。それがスタートでしたね。
コトリンゴ 井上さんとはこれまで接点がなかったので、お話をいただいたときはびっくりしました。それに、これまで私はほかのアーティストのアルバム全体のプロデュースをしたことがなかったので、ドキドキしましたね。でも私はミュージカルが好きですし、井上さんは素晴らしい歌唱力をお持ちの方なので、「私でよろしければ」という感じでお受けしました。
──「Greenvile」というタイトルはどの段階で付けたんですか?
井上 曲がだいたいそろってきた段階で考えました。僕が少年時代に1年間住んでいたアメリカの小さな街の名前なんですが、そのときの経験が今の僕に対していろんな影響を与えているなと思い、字面もいいのでタイトルにしました。
──その1年間は今の井上さんの人生観、価値観に大きな影響があったと。
井上 そうですね。最初は英語も話せないし大変でした。思春期でしたし。でもその1年をなんとか乗り越えられたから、日本に帰ってきてなんでもできるような気がしました。生きていく力がだいぶ強化されたんじゃないかな。それが今の仕事に日々生かされていると思っています。
──さまざまなアーティストにアルバムの曲を作ってもらうにあたって、井上さんから「人生の中で訪れる苦難や悲しみ、そんな誰もが経験するさまざまな場面にそっと寄り添う曲たち」というテーマが掲げられたそうですが、それはどうしてだったんですか?
井上 テーマが何もないとプロデュースするほうも難しいかなと思って、「例えばこういうものはどうですか?」という感じでテーマを挙げさせていただきました。音楽や歌には日々に寄り添う力があると思っていて、聴いて下さる方が「きついなあ」とか「つらいなあ」と感じているときに助けになる曲を歌いたいと思っています。それで、「試される」とか「晒される」といった人生のピンチになるテーマを10個ぐらい書き出しました。それぞれのテーマに基づいた曲ができあがってきて、軽い気持ちで出したテーマだったのでうれしいし、驚きましたね。
コトリンゴ 曲ごとのテーマが「奪われる」「晒される」と1つずつあって、最後の曲が「召される」でした。「満たされる」とか救われるテーマがあってもいいのに、全部が重いテーマなので、井上さんに何かあったのかと心配になったぐらい(笑)。詞曲をお願いする皆さんにテーマをお渡しして、「自由な解釈で作ってくださって大丈夫です」と伝えました。ほとんどの方にテーマを選んでいただき、残ったテーマの楽曲を私が作らせていただきました。
井上 「無題の詩」だけは、蓬莱(竜太)さんに詞を書いてもらって、阿部海太郎さんに曲をつけてもらえたらうれしいなあとお伝えしたんですが、ほかの楽曲については、はじめましての方が多いですし、今回は知らないところに飛び込もうという気持ちが強かったので、基本的にはお任せしました。テーマ自体は重いんですが、聴いた感じはまったく重くなくてポップで。それはコトリンゴさんのおかげだと思います。
どんな音楽でも歌うのが好き
──コトリンゴさんはポップであることは意識したんですか?
コトリンゴ そうですね。聴いて気持ちが沈むものではなく、前向きになれるよう意識したところはあります。深刻な曲があってもよかったのかもしれませんが、私は常々音楽は救いであってほしいと思っているので、その気持ちが出たのかもしれないです。
井上 僕もピンチをどうクリアするかみたいな歌になったらいいなあと思っていたのでよかったです。アーティストの方から上がってくる曲が、「このテーマで書いた」と言われなければまったくわからないぐらいの多種多様な曲ばかりで面白かったですね。当初の目論見通りではあるんですが、実際に曲を聴くと「自分はこの曲をどう歌えばいいんだろう?」と思う曲も多々ありました(笑)。
──特に「Diary」や「Lost In The Night」や「タイムテーブル」はこれまでの井上さんが歌ってきた楽曲とは大きく違うアプローチだと感じましたが、一番難しかった曲はどれですか?
井上 「Lost In The Night」はすごく難しかったです。いまだに難しいですね。
──そうなんですね。グルーヴィなシティポップ調の曲ですが。
井上 自分からは歌おうと思わない曲調というか、歌えるとは思えない曲ですね。自分のやってきた音楽とは全然違うところにある曲という感じがしました。英語詞なので譜読みも大変でしたし。一度歌ってみて、ディレクションしていただいて形にはなったんですが、自分としては「一生懸命歌いました」という感じが拭えないなと思ったので、もう1回歌わせてもらいました。それで、自分なりに満足するところまではいけたのかな。この曲だけは「手も足も出ません」と言ってお返ししたくなりましたね(笑)。曲は素晴らしいんですけど、「僕が歌うって忘れてませんか?」と思いました。でもいざ歌ってみると、どの曲も同じ音楽なんだなと思いましたし、自分はどんな音楽でも歌うのが好きなんだなって。だから、もしかしたらラップや演歌もやってみたら楽しいのかもしれないですね。
──なるほど。コトリンゴさんは「Lost In The Night」がmabanuaさんから上がってきたとき、井上さんの歌唱についてはどんなことを考えましたか?
コトリンゴ 心配はしてなかったのですが、mabanuaさんの曲ってエアリーな声も曲の一部となっているので考えすぎちゃうと難しいのかなって思いました。だから……たぶん考えすぎてたんだと思います(笑)。
井上 (笑)。難しいから考えないと。
コトリンゴ そうですよね(笑)。mabanuaさんは「このスポットにこの一音が入ったほうがグルーヴ的にいいよ」とレコーディングしたものを細かく調整してくださりとても助かりました。デモの仮歌は作詞を手がけたMichael Kanekoさんが歌ってくださっていて、1つのお手本のようなトラックになっていたのもよかったです。井上さんはすごくお忙しいのにたくさん研究されていて、「歌い直します」とおっしゃったときは、仕事に対する姿勢も素晴らしいなと思いました。2回目はちょっとウィスパーな感じで歌っていて「この感じが曲にすごく合うのかも」という手応えがありましたね。井上さんはいろんな歌唱ができるので、それも含めて楽しませていただきました(笑)。
──1曲1曲井上さんのさまざまな歌唱を体験したというか。
コトリンゴ そうですね。デモの歌もきちんと参考にされていて、堂島(孝平)さんが作った「Diary」では堂島さんのような明るい歌い方で。
井上 これまでにないような曲調だったので、リズムの取り方とかも含めて「こういうふうに歌えばいいのかな」と参考にさせてもらいましたね。そうすることで、これまでと全然違う歌い方ができるようになればいいなと思いましたし。最初、「コトリンゴさんみたいに歌いたい」と何度かお伝えしたんですが、ご自身の歌唱法については全然教えてくれなくて。「いやいや、井上さんのままで」みたいな感じで(笑)。
コトリンゴ (笑)。
──秘伝のタレは教えてもらえなかったと(笑)。
井上 そうなんです(笑)。いつもは行かない道を通ってみようとは思いましたが、結果よくも悪くも自分でしかないんだなということもわかりましたね。モノマネをするように普段と全然違う歌い方をするのも違うと思いましたし。ただ、違う景色は見えました。ミュージカルではあまりリズムを後ろで取ることがないんですよ。僕はクラシックから音楽を始めたこともあって、後ろで乗ったほうがいい曲もこれまで自分なりになんとなくで歌ってきたんですが、今回は「天使も悪魔も」とか、やったことのないリズムの取り方をしてみて、後ろにそのまま倒れてしまうんじゃないかと思ったぐらいでした。でも、コトリンゴさんに「そこまで後ろにしなくていいですよ」と言われて(笑)。できるできない、向いてる向いてないというより、音楽は誰が何をしてもいいんだなっていうことを体験したところもありますね。
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井上のディナーショーで受け取った“ハイパー”を曲に