HYベストアルバム「LOVE STORY」発売記念|ターニングポイントはいつだった?4人で振り返る四半世紀

HYの結成25周年イヤーを記念し、ベストアルバム「LOVE STORY ~HY BEST~」がリリースされた。

ベストアルバムはラブソングが中心の「LOVE STORY盤」と、三線を使った楽曲を収めた「ANOTHER STORY盤」の2枚組。初CD化となる最新曲や、「告白」「カチャーシーエヴリデイ」の再レコーディング音源も収録される。

本作のリリースを記念し、音楽ナタリーではHYメンバーにインタビュー。バンドとしてのターニングポイントを挙げながら、この約25年を振り返ってもらった。後半では、今年月9ドラマ化して再注目を浴びているヒット曲「366日」を、大橋卓弥(スキマスイッチ)、與那城奨(JO1)、川崎鷹也、藤牧京介(INI)、キヨサク(MONGOL800)、須田景凪、長田庄平(チョコレートプラネット)、オーイシマサヨシ、西川貴教ら豪華メンバーとデュエットした経験や、ベストアルバムの再RECで感じた変化などについて語っている。

取材・文 / 森朋之撮影 / 梁瀬玉実

「行けるところまで行く」という気持ちでスタート

──HYは今年で結成25周年イヤーを迎えました。このインタビューではターニングポイントを挙げながら、結成年の2000年から現在までのHYを振り返りたいと思います。

仲宗根泉(Key, Vo) HYを結成したのは17歳か18歳くらいのときかな。

仲宗根泉(Key, Vo)

仲宗根泉(Key, Vo)

名嘉俊(Dr) うん。もともと同級生何人かも含めてバンドをやってたんだけど、高校3年になって、みんな現実を見るようになって。大学だったり就職だったり、ちゃんと将来のことを考え始めたんですよ。で、自分たちは音楽をやるのが楽しかったから、バンドを続けようということになって。

──まずは結成自体がターニングポイント?

新里英之(Vo, G) そうですね。ギターを触った瞬間に「これだ!」と思ってしまったし、メンバーとも出会って、バンドの楽しさを知って。音楽が楽しくてしょうがない、仲間と一緒にいるのが楽しくてしょうがないという感じでしたね。ただ、家族には音楽を続けることを反対されていたんですよ。「工業高校に行ったのに、なんで音楽?」と言われて。僕はおじい(祖父)と一緒に育って、ずっと「認めてほしい」と思ってたけど、なかなかわかってもらえなかったんですよね。家族が「音楽でがんばっていきなさい」と言ってくれたのは、2003年にLinkin Parkと一緒に武道館でライブをやったとき。一番近い人たちに認めてもらえたことで、さらに全力で走れるようになりました。

仲宗根 私はみんなよりもっと早く、小5のときから「音楽をやろう」「歌手になろう」と決めてました。音楽を始めたのは小3のときで、お父さんに「家族でバンドをやるから、おまえはピアノ」っていきなり言われたんですよ。お父さんもピアノは弾けなかったんですけど、「左手が低い音で右手がメロディ。あとは耳コピして」ってVan HalenやEaglesを聴かされて(笑)。最初は面白くなかったですが、あるとき「好きな人の前で自分で作った歌を歌えば、告白したみたいに気持ちがスッキリする」ということに気付いたんですよね。そこから自分の思いをどんどん歌に替えて。ネタがなくなったら友達の恋の話を聞いて曲を書くことを続けていて、その頃には「将来は音楽をやるんだろうな」と思ってました。

許田信介(B) 僕はずっとフラフラしていて(笑)、将来のことも全然見えてなかったんですよ。高校を卒業するときも「バイトするか、お父さんの仕事を手伝うか」くらいしか考えてなくて。なのでみんなと一緒に音楽を続けることになったときはすごくうれしかったし、まったく苦じゃなかったですね。あっという間に25年経とうとしています(笑)。

名嘉 自分のターニングポイントは中1のときにヒデ(新里)たちと会ったことですね。小学生のときはめっちゃ勉強をがんばってたんです。お父さんは道路工事の仕事をしていて、お母さんは看護師だったから「あんたも人の役に立つ人間になりなさい」と言われていて。小さい頃は学校の先生になろうと思ってたけど、中学でヒデと知り合って「こんなヤバいやつがいるのか!?」と(笑)。ヒデとは塾も一緒で、勉強は集中してやるし、休憩時間はマンガを読んだりギターを弾いたりして、オンとオフがしっかりしてたんです。その中で僕はドラムを始めて、バンドを組んで……高3のときは進路にだいぶ迷いましたけど、みんなで話し合って「HYをやろう」と決めました。

新里 音楽でごはんを食べられるなんて、本当にひと握りじゃないですか。でも僕には素敵な才能を持った仲間がいたし、「ステージに立ったときが一番輝ける」ということもわかっていて。続けられるところまで続ける、行けるところまで行くという気持ちでスタートしたのがHYですね。

新里英之(Vo, G)

新里英之(Vo, G)

歌詞に表れた“乗り越える”意思

──結成から3年、2003年に発表した2ndアルバム「Street Story」がミリオンセールスを記録し、一躍人気バンドになりました。

新里 「Street Story」をリリースしたあと、しばらくは心がついていかなかったですね。

名嘉 なのでそこはターニングポイントって感じじゃないです(笑)。ターニングポイントと言えるのは、そのあとの「TRUNK」(2004年発表の3rdアルバム)くらいかな?

新里 そうだね。

名嘉 「Street Story」を出してから、初めて全都道府県ツアーをやったんですよ。何日か続けてライブをやって、「Mステ」(テレビ朝日系「ミュージックステーション」)に出て、またライブをやって。朝起きたときにどこにいるかわからないような状況で、たまにみんなでメシに行ってもケンカが始まったり。全員がいっぱいいっぱいなのに、「次のアルバムは〇月〇日に出すんだけど、曲は大丈夫?」とか言われるんですよ。

新里 「TRUNK」のレコーディングは内地(東京)だったんですけど、それもストレスでしたね。沖縄を離れている時期が長くなって、言葉数が少なくなり。そこからメンバー同士のコミュニケーションのすれ違いが始まって。

仲宗根 そもそも全国ツアーが終わったら沖縄に戻れると思ってましたからね。帰れたのは一瞬で、すぐに東京に戻って、曲作りしながらレコーディングに入ったんですよ。その時点で「は? 沖縄に帰れる話はどこいった?」ってなるじゃないですか(笑)。

名嘉 そうね(笑)。

仲宗根 そのまま2カ月くらい制作していたのかな? もちろん遊ぶ時間もなかったし、スタジオと宿舎の往復だけで。私たちはただ音楽が好きで、人の前で歌うのが好きなだけだったんですよ。売れたいなんて思ってなかったけど、ヒットしたら、周りの大人たちにいろんなことを言われて頭がパンクしそうになって。缶詰状態で曲を作って、大好きな故郷にも帰れなくなって……すべてがストレスでした。

名嘉 「TRUNK」のプロデューサーは佐久間正英さん(BOØWY、GLAY、JUDY AND MARYなどを手がけたプロデューサー)だったんですけど、めっちゃ厳しかったんです。特に信介は大変で。

仲宗根 全然OKテイクが出なくてね。ずっと弾いてなかった?

許田 そう(笑)。自分でも何をやっていいかわからない状態で、とりあえず頭から最後まで何度も演奏して。「もう1回お願いします」と言ってずっと弾いてました。

許田信介(B)

許田信介(B)

名嘉 あれは鍛えられたよね。「(ジュディマリの)TAKUYAのギターを聴いてみたら?」とか、いろんなことを教わって。「君たちが発した言葉は生き続けるんだよ」ということも言ってもらって、歌詞の言葉にもしっかり責任を持つようになり。それが4枚目の「Confidence」(2006年発表)に生きてくるんですよね。

新里 うん。「TRUNK」の制作は大変だったけど、メンバーが書く歌詞はすごく前向きだったんですよ。みんなの歌詞を読むたびに「この状況を乗り越えなくちゃいけない」という思いが伝わってきて、すごく力をもらいましたね。

名嘉 そのあとはオンとオフをしっかり分けられるようになって。2013年に独立して、沖縄に拠点を戻すというか、もう少し地に足を付けて活動していきたいなと。それが29歳くらいのときかな。

新里 そうだね。

名嘉 それまでは地元の人から「あなたたち、いつ沖縄に戻るの?」とか言われていたんですけど、「ずっと沖縄にいるね」という感じになってきて。地元の友達が独立して仕事を始めたり、会社の中で偉くなったり、周りの人たちから受ける刺激もめちゃくちゃあったんですよ。「HYが音楽を通して関われば、沖縄がもっと変われるんじゃないか」みたいなことも言ってもらえるようになって。自分たちも「次の世代に向けて何かやっていきたい」と思うようになりました。とにかく沖縄が好きだし、拠点を移すのはみんな賛成でしたね。

許田 拠点を沖縄に戻してからは、自分たちもリフレッシュしながら活動できるようになりました。レコーディングしているときも、1回家に帰ることで気持ちをゼロに戻して、また次の日に挑んで。1日1日の力の出し方が全然違うんですよ。県外にいるときはずっと緊張が解けない状態だったし、1日が終わるとドーンと疲れてしまって。それが解消されました。

「音楽の力」を沖縄という地に

──2011年には主催フェス「HY SKY Fes」がスタートしました。現在は前夜祭を入れて3日間の開催。今年は約2万5000人の観客を集めて、大成功のうちに幕を閉じました。自分たちでフェスをやり始めたのもターニングポイントでは?

名嘉 そうですね。「SKY Fes」は段階の踏み方がよかったと思っています。最初から世の中にあるような大型フェスを目指すのではなくて、自分たちらしいやり方で少しずつ規模を広げていけたので。地元の小学校、中学校の合唱隊やエイサーの団体にも出てもらったのは、もともと「若い世代にステージに立ってほしい。発表の場を作ってあげたい」と思ったからなんです。あとはいろんな世代の人にライブを観てもらいたくて。ライブハウスに行くのは難しくても、市の広場で開催すれば気軽に来られそうじゃないですか。

名嘉俊(Dr)

名嘉俊(Dr)

仲宗根 自分たちも運営にしっかり関わってるんですよ。来てもらいたいアーティストを選ぶのはもちろん、(宿泊用の)テントを張ったり、装飾に使うものを発注したり、飾り付けもやって。フェスが終わった翌朝は「3日間ありがとうございました」ということで公園に遊びに来た人たちに焼き芋をふるまったあと、最後の片付けと、掃除。ここまでやっているアーティストはいないと思うし、出演した人たちも「メンバーの人柄が伝わるフェスですね」って言ってくれるんですよ。

新里 うんうん。

仲宗根 ゴミもほとんど落ちてないし、落ちていてもお客さんたちが率先して拾ってくれます。3世代で来てくれるご家族や1人で来てくれる方もいて、どのアーティストのライブもすごく盛り上がる。「沖縄愛をすごく感じました」と言ってくれる人も多いですね。

新里 「SKY Fes」を始めてよかったと本当に思うし、このフェスがHYに力を与えてくれている。その原点になってるのが、小学校5年のとき、初めてライブを観たときの思い出なんです。両親に連れて行ってもらったんですけど、ステージから発せられる熱量にまず感動したし、その音に乗って大人たちがワイワイしていて。両親も見たことがないくらい踊って楽しんでいたのも印象的で、子供ながらに「音楽の力がそうさせているんだ」と衝撃を受けたんです。「SKY Fes」に来た子供たちがプロフェッショナルの音楽を聴いて、お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんが楽しんでいる姿を見たら、きっと一生忘れない経験になるだろうなと思います。HYにとってもすごくいいことがたくさんあって。例えば大御所のアーティストの方にお会いしたときに「沖縄で子供たちに夢を与えるフェスをやっているんです」と胸を張って話すこともできる。HYがもっと広く、いろんな方向に旅立っていけるステップになっているんです。

許田 自分たちが小さい頃はフェスなんてなかったし、有名なアーティストを見られる機会もほとんどなくて。「SKY Fes」に来た子供たちが音楽を聴いて、いろんな仕事をしている大人を見ることで、もっと夢があふれてくると思うんですよね。

新里 今年の「SKY Fes」も大成功で、ヤバいくらい盛り上がりました。ずっと余韻が抜けないです。「Welcomeエイサー」として演舞を披露してくれた具志川青年会のメンバーとも、会うたびに「『SKY Fes』楽しかったね」って話してます(笑)。