ナタリー PowerPush - 細野晴臣
「歌うのが好きになってきた」ソロ活動40年を振り返る
「フィルハーモニー」(1982年) / 「花に水」(1984年) / 「Making of NON-STANDARD MUSIC」(1984年) / 「S・F・X」(1984年) / 「コインシデンタル・ミュージック」(1985年) / 「マーキュリック・ダンス」(1985年) / 「エンドレス・トーキング」(1985年) / 「omni Sight Seeing」(1989年) / 「メディスン・コンピレーション」(1993年)
YMOをやっている間はソロ活動しない
──そして次のソロ作は1982年リリースの「フィルハーモニー」ですが、ソロ作としては約5年くらい間が空いています。この期間はやはりYMOでの活動が多忙だったということですか?
うん。そうですそうです。時間がなくて作れなかったし、ソロには気が回らなかったですね。
──当時細野さんは「YMOをやっている間はソロ活動しない」と明言されていたそうですね。
うん。言ってた。
──でもYMOの“散開”は1983年なので、「フィルハーモニー」を発表した時点ではYMOは活動中でした。
……もうね、止めたようなもんですよ(笑)、YMOの後半は。仕方なくってって言うと言い過ぎですけど(笑)、僕の中で“バンドは3年”っていうのがあって。
──細野さんはかねてから「バンドを解散するのが趣味」って言っていますよね。
うん(笑)。
機材に振り回されていた時代
──ソロ活動をほぼ凍結していたYMOの活動期間を経て、その後のソロ作品に対するスタンスの変化はありましたか?
いや、もうコンピュータで1人で作るってことに没頭しちゃいました。「フィルハーモニー」くらいからかな。ちょうどこのとき、E-MUのEmulator Iっていうサンプラーが出て、「これが必要だ」って思ったりね。
──高価だったでしょうね。
高価だったんですけど、思い切って買いまして。Emulatorの1号機はスティーヴィー・ワンダーが買ったって聞いて。シリアル番号60番くらいのを持ってますよ。全部で何台売れたかは知らないけど。まだどこかに実機がありますけど、フロッピーがいかれてて音が出ないんです。でも、その時代のサンプラーにしか出ない音があるから、たまに使いたくなるんだけど。
──1人で音楽を作れる時代になって、打ち込みの熟練度も増していって……それでも1人で音楽を作っていくことに限界を感じることはなかったんですか?
いや、もうそれから20年くらいやってますから(笑)。無限の可能性っていうか……。
──時代を追うにつれて、機材も進化していきますからね。
そうなんだよ。それが大事なんです。だから、この辺りは機材に振り回されていた時代かな。それが最近やっと落ち着いた(笑)。
アラブ人たちがローランドのシンセで民族音楽をやり出した
──そんな「機材に振り回されていた」とおっしゃるYMO以降の1980年代の作品で、細野さんにとって特に思い出深い作品を挙げるとすれば?
「フィルハーモニー」は思い出深いですね。あとは、「ノン・スタンダード」ってレーベルを作って「Making of NON-STANDARD MUSIC」という作品を出したんだけど、この頃は社会的にニューアカデミズムが台頭してきた時代でね。中沢新一とかと知り合ったりした時期だったんで、メンタリティの変化も大きかったんですね。いろんな聖地に行ったりとか。そういう影響がこの「ノン・スタンダード」期には色濃く出ていると思う。
──山に行ったり。
そう。一方で「モナド」っていうレーベルも作って、そこで出した「コインシデンタル・ミュージック」は、その場で湧き上がってくるものを捉える……即興っていうのかな。それをポップミュージックにできるんじゃないかな?っていう試みをしたりしていて。そういった流れが「マーキュリック・ダンス」「エンドレストーキング」と続いて、その結果というか延長線上に「omni Sight Seeing」があるんです。だから「omni Sight Seeing」も自分の中では思い出深いアルバムですね。
──精神的な影響を音にするために即興という手法をとったということですか?
うん。そういったやり方でたくさん作品を作っていったので、“いけるな”って思って「omni Sight Seeing」を作り始めたんです。一方で、その間世界では面白いことがまたほかに起こりつつあって。例えばブライアン・イーノがアンビエントを始めて、それにすごく影響をされて。さらにその頃、パリにアルジェリア辺りからアラブ人がいっぱい移住していて、そういう人たちが“ライミュージック”っていうのを作っていったんです。それを調査しにテレビ番組で行ったりして。
──面白そうな番組ですね。
でしょ? パリのアラブ街に潜入しちゃあ、ライミュージックのスターがカフェでライブをやるのを観に行ったり。もう“ワールドミュージックの前夜”ですよね。そういうものを体験をしたんで、それで興奮していたんです。
──発見だったんですね。
そうです。アラブ人たちが、ローランドのシンセを使って民族的な音楽をやり出したり、それがドイツやイギリスに移っていってテクノ系のエスニックな音楽が出てきたりとか……いろんな壁がなくなっていった実感がありました。そういう刺激がすごかったんですよ。でも、それも一時的だったというか、湾岸戦争を境にそういう流れが閉じてしまった。また壁ができてしまったんです。で、しょぼしょぼしょぼっと消えてしまったんですね。
──ところで、「マーキュリック・ダンス」や多くのサウンド・トラックをリリースした1985年から、ソロアルバムの発売という意味では「omni Sight Seeing」まで4年間空いています。この期間は何を?
あれ、本当? 何をやっていたんだろう(笑)。とにかくそこの頃の僕はまったく“ソロを作ろう”って意識はなくて、作んなきゃ作んないでいいっていう。だから、本当に10年に1枚くらい出せばっていう感覚で捉えていたんですね。で、「omni Sight Seeing」はエピックレコードというメジャーレーベルから出したからある程度世には出たんでしょうけど、その後の「メディスン・コンピレーション」辺りから、僕はかなり引きこもりになってしまってたんです。だんだん“アンビエント”って世界に入り込んでいったんですね。
- ニューアルバム「Heavenly Music」 / 2013年5月22日発売 / 3150円 / SPEEDSTAR RECORDS / VICL-64031
- ニューアルバム「Heavenly Music」
収録曲
- Close to You
- Something Stupid
- Tip Toe Thru The Tulips with Me
- My Bank Account Is Gone
- Cow Cow Boogie
- All La Glory
- The Song Is Ended
- When I Paint My Masterpiece
- The House of Blue Lights
- ラムはお好き? part 2
- I Love How You Love Me
- Radio Activity
細野晴臣(ほそのはるおみ)
1947年生まれ、東京出身の男性アーティスト / プロデューサー。エイプリル・フールのベーシストとしてデビュー。1969年に大瀧詠一、松本隆、鈴木茂とバレンタイン・ブルーを結成し、翌年バンド名をはっぴいえんどに改名する。はっぴいえんど解散後はソロ活動と並行し、林立夫、松任谷正隆らとキャラメル・ママを結成。荒井由実などさまざなアーティストのプロデュースを行う。1978年に高橋幸宏、坂本龍一とイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成。YMO「散開」後は、映画のサントラを手がけるほか、松田聖子や山下久美子へ楽曲を提供しヒットメイカーとしてもその名を知らしめる。2000年代に入ると、高橋幸宏とのユニットSKETCH SHOW、忌野清志郎、坂本冬美と結成したHIS、SKETCH SHOWに坂本龍一を迎え結成したHuman Audio Spongeなど、さまざまなユニットで音源を発表。還暦を迎える2007年にはHARRY HOSONO & THE WORLD SHYNESS名義で「FLYING SAUCER 1947」をリリースしてソロ活動を再開。さまざまなライブイベントに出演する一方で、2013年5月に往年のスタンダードナンバーをカバーした「Heavenly Music」を発売した。