ナタリー PowerPush - 細野晴臣
「歌うのが好きになってきた」ソロ活動40年を振り返る
冨田勲さんの「月の光」はパラダイムシフトするほどショック
──3部作の最後「はらいそ」をリリースしたのが1978年で、この年はイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成した年でもあります。忙しい年だったんじゃないですか?
そうね。
──YMO結成は「はらいそ」リリースの後ですよね?
うん。直後。
──「トロピカル3部作」の作品を作っている段階で、YMOをやろうというのはもう決めていたんですか?
いやいやいや、YMOのプロジェクトを始める際、予想もできない展開があったんです。「泰安洋行」を作りながら、その後どうするかバンドメンバーと話したりして、「また違うプロジェクトをやろうよ」という話になっていたんです。そしてたまたまアルファレコードから何かプロデュースしてくれって依頼があったので、「じゃあそこで新しいバンドをやろうかな」と思って。しかし、メンバーがやっぱり辞めるって言い出して、「えー!?」って(笑)。そんな中でアルファレコードのカンファレンスがあって、そこで何かプロジェクトを発表しろと言われた。で、漠然と「ティン・パン・アレーで『YELLOW MAGIC CARNIVAL』っていう曲やったしなあ」って思って、その場で「イエロー・マジック・オーケストラってのをやります!」って言っちゃったんですよ、先に。で、その後メンバーが集まってくれた。サディスティックスで活躍していた高橋幸宏が真っ先に飛んできてくれたりして。
──「イエロー・マジック・オーケストラをやる」と言ってしまったときは、後にYMOで一世風靡する“テクノ”という音楽性はイメージしていたんですか?
イメージは……まあその話をするには同時にコンピュータの存在が大事なんですけど、ちょうどYMOをやる前にコンピュータやシンセサイザーと出会って、それはもうショックだったんです。
──ショックですか?
うん。冨田勲さんの「月の光」って作品がすべてコンピュータとシンセサイザーでできているって聞いて、その出来がよくてショックだったんですよ。それはもう、自分の音楽史上一大事件でした。大げさに言えば、それまでの自分のパラダイムが変わるほど。
──それまで細野さんはプレイヤー志向で、ある種コンピュータを使う音楽とは逆のベクトルで音楽をやっていたわけですもんね。
うん。それから「月の光」のような音楽がどうやって作られているのか、マニュピレーターの松武秀樹さんにコンタクトをとって、作業を見学しに行ったりして。そしたら同時に坂本龍一もそこで同じことをやっていた(笑)。その松武さんを頼りにしてコンピュータミュージックができるな、と思ったんです。また同時期に、YMOの3人でマーティン・デニーの「ファイアークラッカー」っていうすごく好きだった曲を1回生楽器で演奏したことがあって。そうしたらどうしてもファンクっぽくなってしまって(笑)、それじゃあそれまでやっていたこととあまり変わらないから、その曲をコンピュータでやろうと思ったんですね。それでできたのがYMOの「ファイアークラッカー」なんです。
打ち込みに本当にハマった
──YMOの「ファイアークラッカー」は、電子音でもしっかりグルーヴ感やエキゾ感がありますよね。
それまでも、みんなラテンやファンクを聴いたり、スタジオで演奏したりしてましたから。
──そういう人たちが作るから電子音でもグルーヴが生まれるのか、それともそういったグルーヴがあるのがテクノの特性なのか。
いやいやいや、コンピューターってのは、プラスもマイナスもない、そのまんま……イマジネーションがあればコンピューターも反応してくれるけど、なければ何にも出てこない。だから非常に手強い機材ですよね。コンピューターにすべてを任せるってわけにはいかないし、やっぱりプログラミングしていかなければならないから。
──当時のプログラミングは、今とは比べ物にならないくらい大変だったと思います。
面白かったですよ。打ち込んでいるのを見ていて、自分でもできるかな?って思ってマシンを買ったんですよ。そしたら簡単だった(笑)。レジみたいなもんですよ。テンキーがあって、ドレミファのドを打つときは24とか36などの数字が決まっていたり、あとは強さと長さも数値を決めて。
──でも、細野さんは楽器も弾けるじゃないですか? 打ち込みにまどろっこしさを感じませんでしたか?
まどろっこしいのはまどろっこしいけど、それを超える好奇心があったんですよ。面白くて仕方なかった。
──“ハマった”という感じだったんでしょうね。
ハマったんです(笑)。本当に面白かった。
──「はらいそ」やYMO結成と同年にリリースされた「コチンの月」もYMO結成前に制作したものですか?
前だね。「はらいそ」より前だったか後だったかは覚えてない……インドに横尾忠則さんと行って、その印象を音楽でまとめたのがこの作品。これは企画モノでね、本当は横尾さんが作るべき作品だったんです。横尾さんがレコード会社から、「インド行くなら作ってくれ」って頼まれていて。僕はまったくそれを知らなかった。
──それでインドに帯同したら……。
横尾さんが僕に曲作りを振ってきたんですよ(笑)。下請けです(笑)。それで横尾さんは何もやらないんですよ(笑)。
──結局横尾さんはジャケットのアートワークを手がけたと聞きました。
あとはサジェスチョンですよ(笑)。スタジオにときどき現れちゃ、できた曲を聴いて「これはなんか強面だね」とか、わけのわからない感想を言う(笑)。だから、「コチンの月」は横尾さんのために作ったアルバムですね。ただしこの作品で、コンピュータを初めて音楽に使ったんですね、YMOより前に。マニュピレーターとして松武さんを呼んでね。
- ニューアルバム「Heavenly Music」 / 2013年5月22日発売 / 3150円 / SPEEDSTAR RECORDS / VICL-64031
- ニューアルバム「Heavenly Music」
収録曲
- Close to You
- Something Stupid
- Tip Toe Thru The Tulips with Me
- My Bank Account Is Gone
- Cow Cow Boogie
- All La Glory
- The Song Is Ended
- When I Paint My Masterpiece
- The House of Blue Lights
- ラムはお好き? part 2
- I Love How You Love Me
- Radio Activity
細野晴臣(ほそのはるおみ)
1947年生まれ、東京出身の男性アーティスト / プロデューサー。エイプリル・フールのベーシストとしてデビュー。1969年に大瀧詠一、松本隆、鈴木茂とバレンタイン・ブルーを結成し、翌年バンド名をはっぴいえんどに改名する。はっぴいえんど解散後はソロ活動と並行し、林立夫、松任谷正隆らとキャラメル・ママを結成。荒井由実などさまざなアーティストのプロデュースを行う。1978年に高橋幸宏、坂本龍一とイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成。YMO「散開」後は、映画のサントラを手がけるほか、松田聖子や山下久美子へ楽曲を提供しヒットメイカーとしてもその名を知らしめる。2000年代に入ると、高橋幸宏とのユニットSKETCH SHOW、忌野清志郎、坂本冬美と結成したHIS、SKETCH SHOWに坂本龍一を迎え結成したHuman Audio Spongeなど、さまざまなユニットで音源を発表。還暦を迎える2007年にはHARRY HOSONO & THE WORLD SHYNESS名義で「FLYING SAUCER 1947」をリリースしてソロ活動を再開。さまざまなライブイベントに出演する一方で、2013年5月に往年のスタンダードナンバーをカバーした「Heavenly Music」を発売した。