全員がリードボーカルを取れるボーカルグループのパイオニアとして歴史を刻んできたゴスペラーズが、今年12月21日でデビュー25周年を迎える。この25年の間には何度かアカペラブームもあったが、そこと迎合することなくコンスタントに制作と全国ツアーを繰り返し、実力と磨き、実績を積み重ねて来た5人。そんな彼らが初のシングルコレクションを12月18日にリリースした。
タイトルは「G25 -Beautiful Harmony-」。デビューシングル「Promise」から最新シングル「VOXers」まで、全58曲のシングル曲を網羅し、年代順に5年毎にセパレートされた5枚組の作品だ。初回生産限定盤にはゴスペラーズのデビュー後に生まれた25歳以下のアーティストであるyonkey、空音、maeshima soshi、Mom、長谷川白紙が手がけたリミックス曲も収録されている。この特集では各盤からトピカルな曲を1曲ずつピックアップし、メンバーに25年の活動、日本の音楽シーンにおけるゴスペラーズの存在について語ってもらった。
取材・文 / 伊藤亜希 撮影 / 星野耕作
メンバーチェンジから2週間で……
──DISC 1は1994年のデビュー曲「Promise」から1998年のシングル「あたらしい世界」までが収録されています。ここではゴスペラーズの始まりの曲とも言える「Promise」が、どのように生まれたのかお聞きできますか? ここ10年くらいのライブではアカペラで披露されていますね。
村上てつや 今回収録されているのは、アカペラバージョンじゃないんですよね。デビューシングルがアカペラじゃなかったから。
安岡優 「Love Notes」(2001年リリースの企画アルバム)で初めてアカペラバージョンが収録された。
村上 早稲田大学のアカペラサークルに入って、確か1年目の冬だったと思うんだけど、サークルの先輩の家に遊びに行ったときに、先輩たちがこの曲を歌っているビデオを観たんですね。
黒沢薫 当時、サークルの幹事長だった人の家でした。
村上 で、歌っていた人の中にサークルの創始者がいて、「Promise」はその人が作った曲だったんですよね。それで「いい歌だから、ぜひ歌わせてください」と言って、自分たちのレパートリーに加えたんです。当時、この曲はどこでやっても「知らない曲なのに、すごいいい曲」というリアクションだったんですよね。それとアカペラのボーカルグループでオリジナル曲をやってる人ってほとんどいなかった。
安岡 最初は英語の歌詞だったんでしょ?
村上 そうそう。最初は英語詞で、もともとあるフレーズを切り貼りしているような形だったんですよ。で、ライブハウスに僕らが出て歌っていくとなって、改めて考えたときにやっぱりこのままだともったいないと。日本語でいい歌詞が付いたらもっといいよねという。それでサークルの同期が歌詞を書いてくれたんです。で、日本語詞が付いた「Promise」をライブで歌い始めた頃、ちょうどRHYMESTERの宇多丸氏から連絡を受けて、佐藤善雄さん(※ラッツ&スターのベースボーカル。ファイルレコードの社長)がライブを観に来てくれたんです。ライブが終わったあと、佐藤さんに「あの曲だけ俺わかんなかったんだけど。オリジナル曲なの? いい曲だよね」と言ってくれて。アカペラグループでオリジナル曲があるというのが佐藤さんにとってはものすごいアドバンテージになって、一緒にレコードを作ろうとなったんですよね。
黒沢 本当にそういうグループを真剣に探していたみたいなんですよね。
村上 ミニアルバム(1994年発売のインディーズ盤「Down To Street」)を作るにあたって、ほかにもがんばって曲を作ったんですけど、やっぱり「Promise」は誰もが認めるくらいのキャッチーさがあったんですね。
──それがメジャーデビュー曲にもなった。
村上 そうです。ミニアルバムがあって、「Promise」でデビューという流れができたんですね。それと「Promise」はある番組のエンディングのワンコーナーのタイアップが付いたんです。
安岡 お母さんが赤ちゃんに授乳しているシーンを流すコーナーのタイアップでした。すごく優しい、柔らかい映像で。今考えるとすごいことやってるなと思うんだけど、素敵な愛にあふれた映像だった。
村上 授乳って言うなれば究極の人肌なわけじゃないですか。それと生声のアカペラがコンセプト的にハマったんだろうな、と。
安岡 「Promise」のシングルバージョンは最初に言ったようにオケが入っているんですよね。その当時はカラオケで歌われた曲がヒットする流れがあって。シングルには必ずタイトル曲のカラオケバージョンが入ってた。それと「アカペラはカラオケにないじゃないか。ダメだよそれじゃ」と言われて、ショックを受けたのを思い出しました(笑)。そういう時代だったんですよね。
安岡 そういう時代だったんですよね。
北山陽一 今でこそ、アカペラ曲もカラオケにラインナップされてますけど。デビュー当時はなかったからね。
黒沢 あったとしても、途中からボイスシンセみたいなの入って、ボエーって鳴ってる感じだった(笑)。
北山 そうそう(笑)。本当に衝撃だったね、あれは。
村上 で、デビューが決まってからメンバーチェンジがあって。今のメンバーになってから2週間でメジャーデビューシングルのレコーディングだったんですよね。「Promise」以外、ほとんど何もない状態。「Promise」が僕らを牽引していって、ゴスペラーズが形作られていったような感じでした。
酒井雄二 レコーディングの当日まで、本当に毎日、ひたすら「Promise」ばかり練習してましたね。この曲は各パートが独自に動いてるところがちょこちょこあるんで、正直苦戦しました。でもなんとか形にしようという気持ちが大きかった。
北山 この曲のレコーディングで初めてブースに入って、ヘッドフォンでオケを聴きながら歌うってことを体験したんです。2週間でコーラスのアンサンブルを決めるという無謀なハードルもあったけれど、それ以外のハードルも一気に来た感じだった。そういう意味では、その後の数年間を象徴するようなレコーディングでしたね。
安岡 何も知らないから、やりながらいろんなことを覚えていくって形。それがデビュー以降、しばらく続きました。
今でも新鮮に歌うことができる「永遠(とわ)に」
──DISC 2は1999年から2003年リリースのシングルが収録されています。この中からグループのブレイクのきっかけを作った「永遠(とわ)に」についてお聞きできますか? この曲はライブでも何度も披露されていて、ゴスペラーズの代表曲の1つとしても長く愛されていますよね。
黒沢 「永遠(とわ)に」と「ひとり」が、これまでもっともライブで歌っている曲でしょうね。
──イベントや初めて行く街でのライブで、「永遠(とわ)に」を歌ったときの反応に思うことは?
黒沢 この曲はスロースターターというか、サビに来て「ああ、きた!」となるような曲なんですよね。だから、じわじわ来てるなという感じですね。最近、たまたま新曲「VOXers」の映像をネットで観ていて。そこから出てきたオススメの映像を観てたら、昔、あるイベントに出演したときの「永遠(とわ)に」のライブ映像が出てきたんですよ。観ていて「やっぱりこの曲はすごく盛り上がるな」と改めて思いましたね。「永遠(とわ)に」はバックトラックはけっこう攻めているけど、メロディがすごくオーソドックスな曲。だから「ああ、この曲知ってる、いい曲だな」と思ってもらえる曲になってると思う。たくさんの人が知っている曲だからこそ、歌を崩してしまうと本当にがっかりされてしまう曲だとも思うんですね。だから、毎回、崩さないようにと思いながら歌ってます。最後のほうはキーが高すぎて崩せないんですけど(笑)。
村上 1998年くらいから2000年頭くらいまでって、日本でもアメリカのブラックミュージック系のトラックが、ようやく日本のヒットチャートを昇ってきた時期だと思うんですね。今でこそブラックミュージックの打ち込みができる人は世界中にいるし、音圧とかも含めてどんどんレベルが高くなってますけど、当時貴重だったのはこのあとグラミー賞を取るような人間(ブライアン・マイケル・コックス。「永遠(とわ)に」の編曲を担当)とこのタイミングで出会えたことですね。
北山 そうそう。言い方は悪いけど、ベタな歌謡曲みたいな曲をまったく異質のブラックミュージックのプロデューサーと掛け合わせたというね。そのブレンド感がよかった。
村上 時代がそういう海外の最先端のR&Bを受け入れるタイミングだったというのもあると思う。
安岡 ちょうどジャパニーズR&Bという言葉が出始めた頃だからね。
村上 そんな中で、トラックがすごくハイクオリティだったっていうのは、この曲にとってはとても幸せなことだったと思う。
──洋楽感ですね。
黒沢 そうですね。邦楽的なメロディを出しつつ、R&B感も出さなきゃいけないというのが当時はすごく難しかった。でも難しかったからこそ、今でも新鮮に歌うことができるんですよね。
酒井 音楽のミラクルですよね、本当に。
安岡 「永遠(とわ)に」はリリース当時、チャートの80位代に初登場して、その後、すぐ100位以内から消えちゃったんです。それが結果的にミリオンヒットになるアルバム(2001年リリースの「Love Notes」)のスタートラインになるような曲になったのは、全国のミュージックラバーたちがラジオや有線放送でこの曲をかけ続けてくれたからなんですよ。僕たちが「このトラックは世界最先端なんだ」と自信を持ってリリースして、それに応えて何回もかけてくれた。そしたらまたチャートに戻ってきたんです。
北山 そうそうそう。
安岡 で、そのタイミングで、僕らのツアー(「ゴスペラーズ坂ツアー2000」)がスタートするんですね。ライブ会場で歌うと、泣きながら聴いている人が徐々に増えていったんです。それと同時に、毎週チャートが3つか4つくらいずつ上がっていって。一番上がったのは、年明けて2001年の1月ですからね。そこで14位。ラジオや有線でかけ続けてくれた人たちもそうだけど、普通にこの曲を聴いて感動してくれる人がいたから、ここまで上がっていったんだと思う。
黒沢 普通のラブソングのバラードとして浸透していったんだよね。ツアーも、進むにつれて「『永遠(とわ)に』待ってました!」という感じがどんどん強くなっていったしね。
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佐渡島まで歌いに行く意地