瑛人|来年どうなってるかなんてわからない、“計画はしない計画”で今を楽しむだけ

“ドルチェ&ガッバーナ”という固有名詞を独特の節回しで歌う「香水」がTikTok経由で異例の大ヒット。多くのアーティストやお笑い芸人によるカバー / モノマネでも話題となり、無名の新人から一気に今年を代表するスターとなった瑛人だが、Twitterではあっけらかんとした素朴すぎる投稿を連発している。時の人として一挙一動を注目される今、彼は突然すぎる変化に戸惑ったり、プレッシャーを感じたりしていないのだろうか?

音楽ナタリーでは、瑛人が主催イベント「Jersey Eight」を定期的に開催していた神奈川・横浜のダイニングバーGrassRootsで彼にインタビュー。幼少期から遡って瑛人の素顔に迫りつつ、「明治 エッセル スーパーカップ」のタイアップ曲として書き下ろされた新曲「ライナウ」や今後の活動について詳しく聞いた。

取材 / 臼杵成晃 文 / 三浦良純 撮影 / 吉場正和

雑魚の不良だった中学時代、モテたくてダンス部に入部した高校時代

──瑛人さんはまだあまり表立った情報がなくて、「どういう人なんだろう?」と思っていろいろ調べてみたんですけど、純朴で明朗快活な、胸のすく好青年というか……特にTwitterのあのシンプルな感じがすごく好きで、今一番の心の癒しになっています(笑)。

瑛人

マジっすか!?(笑)

──でも、ただの好青年ってわけでもないだろうなと。実際はどんな人なのか、今日は過去に遡りつつ根掘り葉掘り聞かせてください。まずは子供時代の話を……今覚えている一番古い記憶ってどんなものですか?

えーと、たぶん入園式前日。パッと目を開けたら母ちゃんと幼馴染のハルキっていう友達がいて、幼稚園の制服のボタンをはめてました。年中から入ったので4歳くらいですかね? それが物心ついた瞬間で、そこまでは記憶がないです。

──小学校の頃の得意科目はなんでしたか?

体育ですね。勉強は苦手で。足はけっこう速かった。ただ単に野球を習ってたってだけで、本気でやってるヤツよりは遅いし、完全にスポーツ系ではないですけどね。サッカーとバスケは笑われるくらい下手で(笑)。水泳も25メートル泳げるようになったのは中学生になってからだし、持久走はめっちゃ太ってる人と一緒に後ろのほうで並んで走ってゴールしてました。だから体育自体は得意じゃないのかもしれないけど、楽しかった。

──クラスの中ではどんなポジションでした?

お調子者ポジションですかね(笑)。

──小学生のときに明るくても、中学に進学したら急に、いわゆる“厨二病”みたいなモードに入っちゃう人もいますけど、瑛人さんはどうでしたか?

今思えば少しありましたね。中1くらいのときに恋愛で病んで、壁に向かって「俺、何やってんだよ……」ってブツブツ言ってたときがあって、母ちゃんが「気持ちわりい!」って。

──反抗期はなかったですか?

ありました。悪いことしたらいつも母ちゃんにボコボコにされてたんですけど、中2くらいのある日、ついに母ちゃんの攻撃を抑えられたんですよ。「勝てる!」って。でも、そしたら母ちゃんが「ダイチー!」って2番目の兄貴の名前を呼んで、ドドドド!って駆け付けた兄貴に俺がボコボコにされるっていう。それからはケンカになると母ちゃんが兄貴の名前を呼ぶ準備をしてたり、掃除機で攻撃してきたりで、抵抗するのやめました。

──ご家族も瑛人さんのように明るいんですか?

明るいですね。兄貴が上に2人いて、一番上はクールなんですけど、酒を飲んだらみんなを盛り上げる感じ。真ん中は体が大きいんですけど、マジで明るくて、俺よりも馬鹿(笑)。兄貴2人とも“漢”って感じの男です。

──瑛人さんは生まれも育ちも横浜ですよね。横浜には伝統的に独特の不良文化(参照:CKB横山剣に聞く横浜不良音楽の系譜)がありますが、そういった雰囲気を感じることはありましたか?

俺が育った旭区っていう地域全体だと、けっこう不良は多かったんですけど、俺の学校には3人くらいしかいなくて。

──本格的にヤバいのが3人?

俺含めてカスが3人です。旭区の左近山という地区なんですけど、ほかの地区の不良からは“雑魚山”って呼ばれてて。俺は中学時代、野球部の部長でもあったんですけど、ケンカする場面になっても「明日試合があるから、ちょっとお前行ってくんねえか」って(笑)。そういう雑魚でした。目の前で友達がボコボコにされているところを「ごめん……」って。

瑛人

──(笑)。進学する高校は、遊びに行った文化祭で決めたそうですね。

セクシーな女子高生がステージで踊ってたんですよ。それを見て「ここに決めた!!」って。匂いを嗅ぎに行こうと思いました(笑)。

──そうして入学した高校では「モテたい」という理由でダンス部に入ったと聞きました。実際モテました?

えーと……同い年からはモテなかったんですけど、年下の子からモテたこともあって。高3の頃はダンス部で活動しつつ、応援団長とかもやってたんです。そしたら登校中に窓から「キャー!」みたいな。俺推しの子が2、3人いたみたいで。まあそれも1回だけですけどね。この話をずっとし続けてます。あと俺らの代と1個下の子たちで3対3のコンパをしたことがありまして、こちら側が「俺らの代だと誰が一番モテた?」って聞いたら、後輩が「瑛人先輩」って言ったんですよ。イケメンめっちゃいっぱいいるのに。でも、それも気を遣ったのかもしれないですね……。

「まあいっか」システムで音楽の道へ

──作詞にも関わってくることかと思うんですけど、恋愛は自分からアプローチするようなタイプですか?

そうですね。好きな人だったら自分から行くタイプだと思います。

──当たって砕けても大丈夫なタイプ?

当たって砕けても……大丈夫。なんでも「まあいっか」って思うんですよ。「まあいっか」にだいぶ救われています。高校で知り合ったダンサーのKANと飲んだときに気付いたんですよね。「俺ら“まあいっか”が多くね?」って。朝起きて遅刻しそうだったら普通はダッシュして行くんですけど、俺らは「まあいーべ」ってゆっくり支度するとか。「まあいっか」のせいで、いろんなトラブルがあとから一気に来ることもあるんですけど(笑)。

瑛人

──ここから音楽活動について聞いていきたいんですが、高校生の頃までは別に音楽をやろうって気持ちはなかったわけですよね? 卒業してフリーターになってから、どういう考えで音楽学校に行くことに決めたんですか?

これも「まあいっか」システムですね。大学に通うとしたら4年間で数百万円とか必要になるけど、大学に行かないなら、それぐらいのお金を使って別のことができるかなと思ったんです。それで留学とか調べてるうちに出てきた音楽学校は1年間100万で。家には昔おじいちゃんにもらったギターがあって、歌うのは好きだったし、「まあこれでいっか」って感じで決めました。

──親が進路について口うるさく言うことはなかった?

いや、まったくでした。何をするにしても反対されたことは1回もないですね。

──その音楽学校で、今の師匠であるルンヒャンさんに出会ったんですよね。

はい。シンガーソングライター科のルンヒャンゼミに入って。通い始めた頃は、ボイストレーニング、DTM作曲、音楽理論とかの授業も受けてたんですけど、どれも最初の1、2週間で行かなくなっちゃったんです。だからせっかく入ったんですけど、ルンヒャンゼミ以外で学んだことはないですね。

──ゼミで教わったことで印象的なことは?

ルンヒャンさんは引き出し方がすごく上手でしたね。俺は超ド素人だから、学校に入っても何もできなかったんですけど、ルンヒャンさんは「思いがあれば曲はできるんだよ」って教えてくれたんです。「なら俺もできるじゃん!」って(笑)。最初は「日記みたいなものを書いてきて」って言われて、次は「それを歌詞っぽくしてみて」「ちょっと歌ってみてよ」ってことで歌ったら……もうできたじゃん!みたいな。“ボー発”っていうボーカル発表会があったんですけど、バンドメンバーと一緒にやったら普通に曲みたいになって。不思議な感じでしたけど、すっごくうれしかったです。