こうしてぼくはひとりぼっちになった ブルーに生きる志磨遼平、孤独への決意と覚悟

ドレスコーズが志磨遼平の単独体制になり、今年で10周年を迎えた。9月にはこれを記念し、プレミア化していたアルバム「1」のアナログ盤が装いも新たに再発。現体制の幕開けを飾った同作が再び注目される中、志磨は自身初の自叙伝「ぼくだけはブルー」を書き上げた。

「ぼくだけはブルー」は、幼少期からドレスコーズの体制変更までを志磨自身が振り返っていく作品。高校を中退しバンドひと筋で生きていくことを決心した少年期、バンド活動で体験した数々の苦難など、これまで具体的に明かされなかったエピソードについても多く触れられ、彼の心情が赤裸々にされている。音楽ナタリーでは「ぼくだけはブルー」刊行直前に志磨へのインタビューを実施し、自叙伝を書き上げての心情やアルバム「1」に込めた思い、自叙伝執筆が大きな影響を及ぼしたという新曲「ハッピー・トゥゲザー」について話を聞いた。

取材・文 / 高橋拓也撮影 / YURIE PEPE

自叙伝を出すってこういう感じなのか

実は「ぼくだけはブルー」の感想を聞くのはこれが初めてなんです(※取材は9月上旬に実施)。読んでみていかがでしたか……?

──志磨さんの過去についてかなり踏み込んで語られた自叙伝で、終始驚きながら読みました。毛皮のマリーズやドレスコーズの活動を追ってきたファンだけでなく、この本で初めて志磨さんを知る人も共感したり、グッとくるものがあるんじゃないかと。

それはよかった! うれしいです。

志磨遼平

──志磨さんの過去のエピソードは雑誌「TV Bros.」で連載されていたコラム「デッド・イン・ザ・ブックス」やオフィシャルモバイルサイト「the dresscodes magazine」の各連載コンテンツ、コラム集「少年ジャンク」の年譜など、何度か語られる機会がありましたよね。

今はもう見られなくなってしまったんですけど、毛皮のマリーズ時代に毎日投稿していたブログ「屑・フロム・ヘル」というのがありまして、そこでも幼少期のことなんかをよく書いてましたね。当時はブログ文化が盛んで、そこから毛皮のマリーズを知ったお客さんも多くて。バンドマンにしては文章をよく書いてきたので、僕の活動を熱心に応援してくださっている方にはおなじみのエピソードもたくさん出てきます。でも、こんなふうにまとめて読めるのは初めてです。

──「ぼくだけはブルー」は時系列で語られることにより、志磨さんの心情の変化がより明確になっているのが特徴的でした。特に中学から高校にかけてのエピソード、音楽活動を始めて高校を辞めることを決意するまでの経緯はずっと気になっていたのですが、ここまで詳細に書きつづられていたのは意外でした。

僕の学生時代を知っているのはそれこそ仲がよかった同級生くらいで、インタビューなんかでもあまり話したことはなかったかもしれません。和歌山時代のエピソードを多くの人に知られる、というのは不思議な気持ちですね。

──志磨さんが多大な影響を受けたTHE YELLOW MONKEYを知るきっかけを作ってくれた同級生や、不良の“龍鬼神”さんとのエピソードもかなり具体的でしたし。

……バンドマンとして取材を受けるのは慣れていますけど、ただの学生だった頃の自分について取材を受けるのは照れくさいですね。なるほど、自叙伝を出すってこういう感じなのか。

──(笑)。さらに志磨さんだけではなくご両親、学生時代からの友人でもある西さん(越川和磨)、所属事務所の代表・鈴木拓郎さんなど、関係者の証言も入ることで、同じエピソードを俯瞰して見ることができるのも面白かったです。

どうも僕は、過去の嫌な記憶をなかったことにするクセがあるんですよね。都合の悪いことはカットして、「こうなればよかった」とありもしないエピソードをでっちあげてしまう。映画で例えると、ディレクターズカット版の記憶を頭の中で作り上げちゃうんですよ。それをあたかも本当のように話すクセがあるので、僕が記憶を改ざんしてないか確認する意味を込めて、いろんな人の証言を加えました。でも、事実がどうだったのかは大して重要ではないのかな、とも思っています。あくまで僕にはそういうふうに見えていた、という本ですから。

志磨遼平
志磨遼平

僕にとって、曲作りはセラピーみたいなもの

──「ぼくだけはブルー」にはファンの皆さんから募ったコメントも掲載されていますが、ドレスコーズが志磨さんの単独体制になったとき、ショックを受けた方もいれば怒りを感じていた方、「そうなるだろうな」と静観していた方とさまざまで、当時のリアルな温度感を知ることができました。

あの頃、ドレスコーズの中で何が起こっていたのか、ファンの皆さんは知るすべがなかったでしょうからね。インタビューなんかでも初期のドレスコーズのメンバーは寡黙で、どこかミステリアスなところがありましたし。僕自身もうまく話せる自信がなかったので、メンバーが抜けた背景はあまり触れてきませんでした。

──確かにオリジナルメンバー時代のインタビューを読み返してみると、志磨さん自身もどこか混乱しながらお話している感じではあって。その理由や事情が明かされているのも、「ぼくだけはブルー」の見どころでした。

脱退の件に関しては、とにかく「僕が全部悪いんです」としか言ってこなかったので、ファンの方もやっと腑に落ちるんじゃないでしょうか。あれから10年経ち、この自叙伝を書くことで、僕自身もようやく当時の状況を理解し、飲み込むことができたかもしれません。僕は心を閉ざすのがすごくうまくて、どんなにつらい出来事もそうやって切り抜けてきたんです。これは小さいときからのクセで。

──幼少期は両親にも心を開けず、いつも顔色をうかがっているような子供だった、というエピソードですね。この性格が初期ドレスコーズの分裂を引き起こすきっかけになり、自叙伝でも両時期がリンクするような構成で語られていました。

そうやって心を閉ざしながらも作ったアルバムが「1」なので、曲を作ったり、歌詞を書いたりする行為はやはり僕にとって強制的なセラピーみたいなものなんですね。自分の置かれた状況や精神状態をなるべく客観視しながら曲を仕上げていく。その過程で心の傷も少しずつ治癒していく。

──そこまで追い込まれていた中、志磨さんが短期間でアルバム「1」を完成できたことが不思議だったのですが、この疑問に対する答えは、当時制作されたドキュメンタリー「ワン・マイナス・ワン」「"1"year / 1954-2014」を観てもわからない部分が多かったんです。その実情も自叙伝でようやく知ることができました。

自分でも消化できていない事実が、曲になれば腑に落ちることがある。むしろそういう状況で書いた曲ほど共感を得ることが多いんです。ドレスコーズの「1」以外だと、毛皮のマリーズのアルバム「Gloomy」もそのパターンでした。曲にすることで精神も癒えて、その曲がまた褒められるんだから一石二鳥です(笑)。

──ですが自叙伝を執筆する場合、つらかった出来事を振り返ることは避けられなくなります。この作業は堪えなかったでしょうか?

いえ、意外と平気でした。書いていると当時の感情が鮮明にフラッシュバックするんですが、苦しむほどではなかったです。20代のことを書いているときは、まだ世に出ていない若者ならではの苛立ちが蘇ったり。

──初期の毛皮のマリーズ時代のところは語り口も荒々しくなっていましたね。臨場感がありました。

そういえばこれを書いているうちに、およそ30年ぶりの反抗期が来まして(笑)。両親ともすっかり仲がよくなっていたんですけど、学生時代のことを振り返っているうちに「なんでこんなこと言われたんだろう?」とまた無性に腹立たしくなってきて(笑)。

──42歳で反抗期に(笑)。

でも楽しい作業でしたよ。毛皮のマリーズ時代のことなんかは思い出すだけでも楽しい。側から見れば大変そうでも、僕らはまったくいい加減で何も気にしていなかった。僕が1人でアルバムを仕上げようとも、メンバーは「助かるなあ」って気にも留めない(笑)。ただふざけているだけで毎日が過ぎていくような時期でした。

──むしろメジャーデビュー前、アルバム「マイ・ネーム・イズ・ロマンス」発表後からどんどんパフォーマンスが過激になっていった時期のほうがつらそうでしたよね。ライブ中にメンバーを罵ったり。

そうですね。自分の理想と現実に折り合いがつかなくて、1人で躍起になっていました。対してドレスコーズは、僕の理想がようやく叶った時期と言えます。1人じゃなく4人で曲を仕上げていく喜び、どんなバンドと並べられても引けをとらないオリジナリティ。「ああ、なんてカッコいいんだろう」ってまるでファンみたいな気持ちでドレスコーズに夢中になっていましたね。

志磨遼平

志磨遼平はなぜ1人になってしまうのか

──「ぼくだけはブルー」は1日数時間のインタビューを数日に分けて行い、その文字起こしをもとに作り上げたとのことで。

ええ。5日に分けて話したので、そのままそれが全5章の構成になっています。それをちまちまと半年近くかけて編集して、最終的にはほぼ書き下ろしに近い形になってしまいました。

──志磨さんが毛皮のマリーズ以前に組んでいたロージー・レッド・アンダーグラウンド(LRU)やうつろだけでなく、元ちぇるしぃの馬場崇さんと組んだThe SHOCK、ドラマーとして加入した初のバンド、ケロイド・スキンの話まで出てきたのはとにかく貴重でした。

LRUという名前を何十年ぶりに他人の口から聞きました(笑)。懐かしいですね。ケロイド・スキンというバンド名は僕が命名したんじゃないですよ。すでに結成されていたバンドに僕が加入する形だったので。

──ちなみに2020年に志磨さんの主宰レーベル・JESUS RECORDSからLos Infernoというバンドが楽曲を発表しましたが、あのバンドは何者なんでしょうか?

メキシコ出身の覆面パンクバンドですね。ジャケットアートワークの写真が毛皮のマリーズに似ていると話題になりましたが……今お話を振ってくれるまで完全に忘れていました(笑)。

──逸れてしまってすみません(笑)。話を戻すと、結成の経緯だけでなく各バンドの音楽性、当時流行していた音楽のジャンルについて触れられていたのも、それぞれの時代を知るうえでとても参考になりました。「the dresscodes magazine」の自叙伝にまつわるコラムでは「書き足らぬエピソードが山のように残った」と書かれていましたが、採用しなかったエピソードはどんなものがありましたか?

主に愉快なエピソードですね。幼少期から学生時代の楽しい思い出や、毛皮のマリーズののほほんとしたエピソード。でも全体のテーマがブレてしまうエピソードは外しました。最初に行った5日間のインタビューの時点から「僕はどうして1人になるのか」「なぜ人と一緒にいられないのか」ということをテーマに話を進めていて。その理由を幼少期から振り返り、アルバム「1」での独立に至る経緯を解き明かす、という構成になっているんです。やっぱり複数のエピソードが1つのテーマに集約されていないと本としての面白みに欠けるし、読みづらくなってしまうので。触れなかったエピソードは、いずれ「the dresscodes magazine」やほかの連載なんかで語ればいいですしね。

志磨遼平

憧れた人たちの発言が僕の血肉になっている

──「ぼくだけはブルー」には美輪明宏さんとの特別インタビューも掲載されており、お写真や装丁もエレガントで素敵でした。志磨さんはコラム「デッド・イン・ザ・ブックス」でも「美輪明宏氏に会ってこの名前(※舞台「毛皮のマリー」を引用したバンド名・毛皮のマリーズ)を返納し、無断で拝借していた非礼を詫びたい」と書いていましたが、ついに実現しましたね。

夢が叶いましたね。まさか本当にお会いできるとは思っていなかったので、いまだに信じられなくて。

──美輪さんのお話は、銀巴里(※かつて銀座に存在したシャンソン喫茶)での貴重なエピソード、美術や文化に対する向き合い方など、どれも興味深かったですが、「美しいものに触れる」ことの大切さは志磨さんと共通するスタンスを感じました。

美輪さんはご著書やインタビューでもよく「身の回りには常に美しいものを置きなさい」と勧められていて、僕もそれを実践していましたから。たとえば、ずっと憧れていた方とお会いして話すうち「君は私と似ているね」とおっしゃってくださることがあります。でも、それは僕が憧れた人たちの発言を何度も反芻して、それが血肉になったというだけなんです。美輪さんだけでなく、いろんな人たちから養分を得て、今の僕という人間が形成されているんです。

──美輪さんとお会いした日、お話以外にも印象的だったことはありましたか?

会話の中で、美輪さんの口からいくつかのシャンソンを目の前で聞かせてくださったことですね。エディット・ピアフの「愛の讃歌」や「バラ色の人生」なんかを。特に「愛の讃歌」は毛皮のマリーズ時代、ライブのオープニングに必ず流していた曲なので、言葉にできないくらいの感動がありました。今でも「愛の讃歌」を聴くとライブ直前の緊張感を思い出すほど、僕の体に染み付いている曲です。