昨年10月に発表したアルバム「戀愛大全」では“戀愛”や“夏”をテーマに掲げ、改めてバンドスタイルに回帰した作品を作り上げたドレスコーズ。一方、今年9月にリリースされたニューアルバム「式日散花」は再び“夏”をモチーフに掲げつつ、“別れ“や“死”といった暗さを感じさせるムードの作品となった。
「式日散花」を制作するうえで、志磨遼平は思春期真っ只中だった1990年代に視聴したテレビドラマ、映画の記憶からインスピレーションを得たという。そこで音楽ナタリーでは志磨が特に影響を受けたという映画監督、岩井俊二をゲストに迎えた対談を実施。志磨が岩井監督を知るきっかけとなった作品についてのエピソードをはじめ、岩井監督が映画作品を手がけるに至った経緯、そして両者の作品にも大きな影響を与えた1990年代特有の雰囲気など、多岐にわたる話題が展開された。
取材・文 / 高橋拓也撮影 / 梁瀬玉実衣装協力(志磨遼平) / STRANGER
「究極の恋愛は駆け落ちなんだ」志磨少年の恋愛観を形成した名ドラマ
志磨遼平(ドレスコーズ) まさかこうして岩井監督とお話しできる日が来るとは……お忙しい中、本当にありがとうございます。
岩井俊二 こちらこそ。今日はありがとうございます。
志磨 初めて観た岩井監督の映画は「スワロウテイル」で、僕は当時まだ14歳だったんですが、R-15指定の作品だったので「大人1枚ください」ってウソをついてチケットを買ったのを覚えています。そのあとレンタルビデオ屋さんで借りて観た「PiCNiC」にもすごく衝撃を受けて、監督の大ファンになりました。
岩井 当時はまだ中学生だったんですね。
志磨 はい。でものちのち気付いたのですが、実は小学生の頃にも偶然テレビで「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」の放送をリアルタイムで観ていまして。その当時はもちろん岩井監督の作品だと知らなかったですし、まだ恋愛なんて経験したこともない時期でしたが、あの作品を観たことで僕のその後の恋愛観が決まってしまいました。当時の僕と同世代の少年と少女が駆け落ちをする、という物語に「究極の恋愛は駆け落ちなんだ」と信じ込んでしまって(笑)。それ以来、僕の恋愛観の根幹には今でもずっと「打ち上げ花火」があります。
岩井 「打ち上げ花火」はちょうど「スワロウテイル」の原案となる小説を書き始めたとき、番組のプロデューサーからドラマ制作のお誘いをいただいたんです。でも映画の制作に集中したくて、最初は断っちゃって。それでも「どうしてもお願いしたい」と相談されて、断り切れずに作ったんです。一歩間違えたら僕が作ってなかったかもしれないという。
志磨 「打ち上げ花火」はフジテレビの「if もしも」内で放送されたんですよね。オムニバス形式のドラマシリーズで。当時のテレビドラマ業界ではまだ若手というご年齢だったんですか?
岩井 若いほうでしたよね。テレビドラマは関西テレビ内の番組で初めて制作して、放送後に番組プロデューサーから「このドラマの脚本を書いたの、君の知り合い?」って言われて、「いや、僕なんですけど」と。監督と脚本が同じ人っていうスタイルが珍しかったんですよね。
映画監督とマンガ家、運命を分けた大学生時代
志磨 岩井監督のXのプロフィールには「I’m a film maker since 18 years old.」(18歳から映像作家として活動)と書かれていますが、学生時代からすでに映画監督を目指されていたんでしょうか?
岩井 明確には決めていなかったですね。大学時代に映画研究サークルに入ったんだけど、みんな麻雀ばっかりやってて(笑)。だから下宿先に映写機や編集機を持ち込んで、ずっと自主映画を作ってました。サークルに映画を撮りたい後輩が入ってきたときには「岩井さんが持ち出してけしからん」みたいなことを言われたり。
志磨 サークルの機材を独り占めされてたんですね(笑)。
岩井 でも当時の映画業界は何年間か下積みをするのが常識だったから、それがつらくて。
志磨 へえ!
岩井 僕はすぐ結果を出せるほうがよくて、マンガ家も目指していましたね。いろんな出版社に持ち込んでいくうち、講談社の「週刊少年マガジン」の編集部が原稿を預かってくれたんですよ。
志磨 えっ! その作品は掲載されたんですか?
岩井 掲載はされなかったんですけど、月例賞で佳作に入って、賞金10万円をいただいたんです。
志磨 すごい。そこで「マンガ家を目指そう!」とは思われなかったんですか?
岩井 思いましたね。「もうこれしかない」って。ただ、すぐに掲載させてもらえるわけではなく、ネーム(※コマ割りやセリフなどを大まかにまとめたもの)を作って編集者に見てもらうんだけど、それだけで半年近くかかってしまった。「絵はすぐうまくなるけど、お話を作れないとどうしようもない」とアドバイスされたのをよく覚えてます。
志磨 ちなみに、そのとき描かれたマンガのストーリーって覚えていらっしゃいますか?
岩井 もちろん。最初に持っていった作品は、雨の日に兄妹が留守番してる物語でしたね。お兄ちゃんが家にやってきたセールスマンのことを「吸血鬼だ」と言って妹を怖がらせたり、1人で買い物に出かけちゃったり。高野文子先生に影響を受けた感じの作品だったから「正直マガジンとはあまり噛み合わないよな」と思っていましたけど、「マガジン」は意外とゆるくて、「絵が個性的で女の子もかわいく描けるから、あとはストーリーがよかったらいけるよ」と言われて。それでやる気になってしまった(笑)。
志磨 でも、そこからマンガ家の道に進まれなかったのはなぜですか?
岩井 途中からストーリーが何も思い浮かばなくなって、来る日も来る日も白い原稿を眺めているうち「これはダメだ」と思っちゃったんです。映画は撮影しながら脚本を考えられるけど、マンガはネームがないと始まらない。今でも脚本を書くときに苦しむことはあるんですが、マンガでは耐えきれなくて、結局挫折してしまいました。
岩井俊二の監督人生を決めた一言「辞めようかな」
志磨 マンガの持ち込みをしていらしたのはまだ大学生の頃ですか?
岩井 そうですね。マンガ家になるのをあきらめたあと大学を1年休学して、復学したあとはイベント会社でバイトしながら学生最後の自主映画を作ったり、そのバイト先経由で少しずつ映像の仕事が来るようになって、アイドル番組のディレクターを担当することになったりして。
志磨 映画制作のセオリーや撮影方法は、いつ頃、どこで学ばれたんですか?
岩井 現場に来たプロのスタッフを見て学びました。ちょっとずつ機材や専門用語がわかるようになったり、現場に残った機材のセッティングを見て、使い方を覚えていったり。
志磨 独学! すごいですね。
岩井 ただ、現場があまりにもキツくて、あるとき誰もいない場所で、1人「辞めようかな」とつぶやいたんです。その途端「俺にはもうこれしかない」と頭の中をよぎって、これから何をしなければいけないか瞬時にわかって、「自分が思いつくアイデアすべてを明日の仕事に投入しよう」と考えるようになったんです。
志磨 辞めないためにはどうすればいいか、やるべきことが絞られるわけですね。
岩井 毎日全力でやるしかないと思ったんでしょうね。そこから番組のオープニングを自分なりに作ってみたり、インタビューパートの間にミュージックビデオを盛り込んでみたりしたら、レコード会社からも仕事が来るようになったんです。
志磨 それでMVのお仕事につながっていった。
岩井 まさにそう。それで翌年くらいにはMV制作だけで生活できるようになりました。その後、僕の映画をたくさん撮影してくれた篠田昇さん、今は映画監督の行定勲さんと仲よくなって、知り合いが増えたことで将来映画が作れる仲間が増えた時期でもあって。
志磨 その頃には、映画業界に対する不安はなくなっていましたか?
岩井 いや、まだありました(笑)。当時「ぴあフィルムフェスティバル」から若手の監督がたくさん輩出されたんだけど、みんな大変な目に遭ってて。頭髪が1カ月で真っ白になってしまった……みたいな人までいたんですよ。その苦労話をさんざん聞いていたから、もう怖くて怖くて。僕は知っているスタッフを集めてチームを組めたから結果大丈夫だったんですが。
次のページ »
「式日散花」に思春期の原風景がいっぱい