デジナタ連載 Technics×「RSD Drops」CD世代のくるりが語るアナログレコードの趣

アナログレコードの祭典「RECORD STORE DAY」から派生したイベント「RSD Drops 2021」が、6月12日と7月17日の2日間に全世界のレコードショップで開催される。

「RECORD STORE DAY」は例年4月に行われているが、今年は新型コロナウイルス感染拡大の影響により中止となり、代わりにオンライン販売の展開を含む「RSD Drops」として実施されることとなった。

音楽ナタリーでは「RSD Drops」の開催を記念して、今年の「RECORD STORE DAY JAPAN」のオフィシャルアンバサダーを務めるくるりにインタビュー。Technics(テクニクス)の最新ターンテーブル「SL-1200MK7」を囲みながら、レコードにまつわるエピソードや、自身が愛聴しているレコードなどについて語ってもらった。

取材・文 / 柳樂光隆 撮影 / 須田卓馬 構成 / 瀬下裕理

Technics「SL-1200MK7」

Technics「SL-1200MK7」シルバー

世界中のDJがプレイする現場で使われ続ける「SL-1200」シリーズの最新機種。ダイレクトドライブモーターやプラッター、シャーシなどすべてを一新しながら、トーンアームや各種操作スイッチなどの配置は「SL-1200」シリーズのレイアウトをそのまま踏襲し、これまでと変わらない操作性を実現している。ボディはブラックおよび新色シルバーの2色展開。

RECORD STORE DAY JAPAN

「RECORD STORE DAY JAPAN 2021」ビジュアル

毎年4月の第3土曜日に世界で同時開催されるアナログレコードの祭典。2008年にアメリカでスタートし、現在世界23カ国で数百を数えるレコードショップが参加を表明している。日本での運営は東洋化成が担当。レコードショップでは数多くのアーティストのアナログレコードの限定盤やグッズなどが販売される。また世界各地でさまざまなイベントも行われ、毎年大きな盛り上がりを見せている。今年は世界的な新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け開催時期を調整し、「RSD Drops」として6月12日、7月17日の2回に分けて行われる。

プログレ沼にハマった思い出

──最初にお二人がレコードを最初に触った頃の話を聞かせてもらえますか?

左から佐藤征史、岸田繁。

岸田繁(Vo, G) 家にオーディオのセットがあって、日曜日になると親父がそこでレコードを聴いていました。子供が触れる場所には置かれていなかったので手は届かないんですけど、ミキサーにつまみがいっぱい付いていたので触りたかったですね。親父はチャイコフスキーとか、スコット・ジョプリンとか、ハワイアンとかをレコードで聴いていたのを覚えています。

佐藤征史(B, Vo) 自分が子供のときに一番聴いていたのは、当時テレビで観ていた「母を訪ねて三千里」や「快傑ライオン丸」の曲のLPとかですね。自分たちの世代はみんなそうだと思いますけど(笑)。自分は幼稚園の頃からレコードに針を落とすってことができていたので、何かの付録だったウルトラマンがしゃべっているソノシートなんかも聴いていました。レコードは遊びの道具でした。

岸田 子供の頃は、普通に最初から盤をこすってたよね。逆回転とかもしてたしな。

佐藤 怒られながらね。中学生になってひさしぶりにターンテーブルを使おうとしたら、壊れてました。親に悪いことしたなと。それぐらいレコードは当たり前のものでしたね。自分が小学校低学年の頃は、姉も光GENJIをレコードで聴いてましたし。

岸田 小学生の頃に放送委員みたいなものをやったことがあって、掃除や下校のときに音楽を流すんですけど、放送室に「みにくいアヒルの子」みたいな童謡や童話が入っているドーナツ盤がいっぱい置いてあって、それで友達といたずらをするわけですよ。機械でレコードを逆再生してゲラゲラ笑って、それをカセットテープに録音したり編集したりして遊んでましたね。あとセルゲイ・プロコフィエフの交響的物語「ピーターと狼」の曲が好きだったので、そのドーナツ盤を自分でダビングして聴いていました。

──僕もお二人と同世代ですが、当時「小学〇年生」みたいな雑誌にはよくソノシートやしょぼい針が付いてきて、それを手で回して再生して遊んでいたので、レコードはフィジカルなおもちゃという感覚でしたよね。

岸田 そうですね。リスニングするものというよりは、おもちゃという感じ。

佐藤 まだファミコンもなかった頃は、友達が家に来たら一緒にソノシートを聴いたりした思い出があります。

──その後、自分でレコードを買っていた時期ってあります?

岸田繁

岸田 物心が付いたときにはもうCDが出ていたんで、もっぱらCDですよね。もしくはカセットテープか。レコードは高かったし、あんまり買えなくて。

佐藤 自分もなかなか買えなかったんですけど、大学生になってバンドを始めた頃に、母親の実家を建て替えるってことになって。そのとき母親の弟が昔聴いていたレコードがいっぱい出てきて、それをもらったんですよ。当時「俺、CD◯枚持ってる」と自慢している同級生もいましたけど、自分の手元にはたまたまレコードが来たから、休みの日に1枚ずつ聴いてみたりして、いまだにそんなことをやっていますね。「今日は家でのんびりしようかな」ってときにかけるものがCDではなくてレコードという感覚は、その頃から変わってないかもしれないです。

──そのときもらったレコードってどんなものだったんですか?

佐藤 1970年代のものばっかり。ライ・クーダーが大量にあったかと思えば、Deep Purpleとか矢野顕子さんとか、いろいろでしたね。The Allman Brothers Bandもその中にあったから、西海岸のほうの音楽を聴くようになったきっかけにもなりました。

──The Allman Brothers Bandで売れていたものだと「Eat a Peach」?

佐藤 そうです、そうです。京都でバンドを始めた頃なので、1995年とか96年あたりによく聴いていましたね。

──その頃って同級生がDJをやってるとか、DJのサークルがあるとか、そういう時代じゃないですか。

佐藤 いましたね。

岸田 そうそう。アシッドハウスが流行っていて、ダンスミュージック系のレコード屋さんも京都には多かったな。僕の家の近所にも中古レコード屋があったんで、そこに入り浸ってて。1993、94年って「レコードをたくさん持ってるのはカッコいい」みたいに思い始めた頃なんですけど、全然お金なかったんで、中古のレコードしか買えないわけですよ。新譜のCDは高くて買えないから、TSUTAYAでレンタルしてきて、メタルテープにダビングするしかないけど、レコードなら傷み具合なんかによっては名盤が150円で買えたりする。だから、その中古レコード屋でわざわざCDで買わへんタイプの音楽を買ってましたね。Uriah Heep、Blue Öyster Cult、Camelみたいなプログレを。当時、プログレは流行ってなかったから安かったんです。あとは10㏄の「びっくり電話(How Dare you!)」、ELO(Electric Light Orchestra)とか、Clusterみたいなジャーマンロックもね。

──レコ屋の床に置いてあるセール中の段ボールの中身って感じがしますね、そのセレクション(笑)。

岸田 ははは(笑)。でも大学生になってからは、リアルタイムの音楽をCDで買うことも増えました。友達の中におしゃれなDJになってるやつらはいたんですが、僕はバンドやっててDJはやらなかったので、レコードでおしゃれな音楽は集めずに、プログレ沼と言いますか、行ったらあかんほうに行って。挙句の果てにはAmon Düül IIのプロモ盤(関係者に配布される宣伝用レコード)を2万6000円で買うとかね。そこで1回レコードを買わなくなりました。

──それはだいぶ痛いやつ感があっていい話ですね。佐藤さんはどうですか?

レコード化されるくるり「天才の愛」のサンプル盤を手に取る佐藤征史。

佐藤 僕らがデビューして東京に出た頃、1990年代末から2000年代初頭のCDショップには、アナログも棚の上のほうに置いてありましたよね。当時は東京に感化された自分がいたので(笑)、StereolabやRadioheadのCDと一緒に置いてあるレコードを「このアルバム好きだからアナログも買っておこうかな」というノリで買っていました。

岸田 ええ時代やなあ。

佐藤 でも、最近そういう感じが普通のレコ屋さんでも増えてきて、CDと同じ売り場にレコードも置いてあるから、手に取りやすくはなっていますよね。

岸田 あと、こういうレコードを持っておくとおしゃれみたいなのって、その人の属性によって違うやんか。俺、ホンマはジャズファンクのレコードを集めたかったんですよ。James Taylor Quartetとか初期のIncognitoのシングルをめちゃめちゃ持ってる友達がいて、「新曲買うたんやけど貸したろか」みたいに言われて、うらやましかった。でも、自分の家のオーディオではダビングできへんから、レコードを聴いただけで返したりして。そのときに「こういうレコードを持ちたかったな」と思いましたね。でも、俺はよくわからんプログレを買うてしもて。

佐藤 ちなみにうちではテープにそのまま全部オートリバースで録音できたで。

岸田 それ最高や。それがあったらよかったんやけど。

カッティングの神がいたから

──佐藤さんがおっしゃるように、1990年代から2000年代前半はCDショップでもレコードを売っていましたし、DJやってる人も多かったし、古着屋でレコードがかかっていたりもしていて、レコードは身近な存在でしたよね。

岸田 CDJがまだなかったですからね。

──確かにCDJが普及したのはもう少しあとになってからで、当時はCDでDJするハードルは高かったように思います。ところで、くるりはこれまでにCDで発表した作品をアナログでも発売していますが、くるりになってから最初に出したレコードはなんでしたか?

佐藤 2001年に「さよならストレンジャー」「図鑑」「TEAM ROCK」(メジャー1stアルバム~3rdアルバム)を3枚まとめて出したのが最初かな。

左から佐藤征史、岸田繁。

岸田 うちはビクターなので、小鐵徹さんというカッティングの神がいるんですよね(小鐵氏はレコードマニアにはおなじみの日本屈指のカッティングエンジニア。「円盤新世紀 小鉄徹工房」シリーズによる高音質の再発盤などは、その音のよさから中古市場でも人気が高い)。僕らのCDのマスタリングも途中から小鐵さんが担当するようになって、「せっかく小鐵さんとやるんやったら」という感じでアナログをカッティングしてもらうようになったので、レコードも出すようになったのはそこからですね。初めてレコードで自分たちの曲を聴いたときは、自分たちの作品が素晴らしいカッティングとともにアナログレコードという製品になったことにびっくりしたというか、「これは!!」と思った記憶があります。

──僕はそのときリアルタイムで「図鑑」を買っていたので、くるりはレコードを出したい人なんだなというイメージがありました。最初からレコードを出したいという気持ちはあったんですか?

佐藤 それは小鐵さんと一緒にやるようになったのがきっかけでしたね。カッティングを実際に見せてもらったりもしたんです。小鐵さんはマスタリングエンジニアなんですけど、技師さんというか、職人さんという感じなんですよね。

岸田 CDを作るのにもいろんな過程がありますけど、アナログに関しては職人じゃないと彫れないというか、溝を付けられない。小鐵さんにカッティングの技術とこだわりを解説してもらいながら作業していただいたことがあって、それまでは「レコードはレコードや」と思っていたけども、小鐵さんのカッティングとそうではないもの、同じ作品でもアメリカの有名なカッティングエンジニアが手がけたものと低予算で安く仕上げたものなんかをいろいろ聞き比べたら、そこには雲泥の差があるとわかったんです。そういう意味では、ビクターで小鐵さんと一緒に仕事ができたのはデカかったですね。

──僕はレコード屋で働いていた頃、小鐵さんがカッティングした「円盤新世紀 小鉄徹工房」の1950年代ジャズの高音質再発盤を何度も扱っていたのでもちろん小鐵さんのお名前は知っていましたが、まさかくるりの作品も小鐵さんが手がけていたとは。ちなみに「TEAM ROCK」や「THE WORLD IS MINE」(メジャー4thアルバム)のサウンド的には、「DJでかけたいからレコードで出してくれ」という要望もあったんじゃないですか?

左から佐藤征史、岸田繁。

岸田 はい。僕が素人DJとしてイベントで回していた頃に知り合った友達からは、「アナログ出してくれ」とか「リミックスやらしてくれ」みたいなのはけっこうありましたね。BPM120~130くらいの四つ打ちでキックが鳴っているような音楽って、例えばタナソー(田中宗一郎)がやっていたようなわりとアンダーグラウンドなパーティでも流れていたじゃないですか。僕としてもそういう場所で流れている歌モノというか、ヴァースがあってコーラスがあって、なんとなくナイトクラブのことを歌っているような曲を意識して出したところがあったんでね。

──その頃は自分たちの曲をクラブでかけるようなことはあったんですか? 恥ずかしいっちゃ恥ずかしい気もしますが。

岸田 それは恥ずかしいっすよ。

──曽我部(恵一)さんとかは全力でやってましたけどね。曽我部さんが回すイベントで観ました。

岸田 あれくらい振り切れるとできるんですけどね。DJはいまだにようわからへんというか、曲をつなぐのも、チョップしたりエフェクトかけてるふうなことをやったりするのもよくわからん。僕がやるときは、ラジオみたいに1曲かけて、「これでおしまい。はい、次の曲」って感じでやりますね。

佐藤 しゃべりのないラジオよね。

岸田 うん。それをやってたら呼ばれなくなってきた(笑)。


2021年6月11日更新