タクシー内という独特の空間の面白さ
──本作の伊藤沙莉さんや、「ナイト・オン・ザ・プラネット」のウィノナ・ライダーらが演じるタクシードライバーという職業は、これまでもさまざまな形で映画になってきました。マーティン・スコセッシの「タクシードライバー」はもちろん、最近では「ドライブ・マイ・カー」や、アニメですが「オッドタクシー」もヒットしました。クリープハイプの楽曲には「NE-TAXI」という曲もありますよね。「密室での会話劇」というスタイルは、何かしら創作意欲をかき立てるものがあるのでしょうか?
尾崎 タクシー内でのドライバーと乗客の距離感って、ほかにあまりないシチュエーションなんですよね。特にコロナ禍で、そのことをより意識するようになって、「今、自分は他者と密室空間にいるんだ」ということに改めて気付いたというか。そんなことをなんとなく考えていたときに、この映画もタクシー内での会話のシーンが多くて、不思議な気持ちになりました。
松居 本作を撮るにあたってタクシーの運転手さんに取材をしたら、「1人でいるほうが気楽なんですよ」と言う方が多かったんです。勝手に僕は、人と話すのが好きだからタクシードライバーになる人が多いんだと思っていたんですけど、どうも逆みたいで。確かにタクシードライバーと乗客の関係って一期一会というか、目的地までは同じ空間にいるけど、目的地で降ろしたらもう他人っていう。乗客目線では「他人と密室にずっといる」という感覚ですが、実際のところ運転手さんは1人で流している時間のほうが長い。そういう独特な距離感や、そこで交わされる会話の濃淡、時間が経つスピード感などが、考えれば考えるほど面白いなと思いました。ほかにこういう職業ってあまり思いつかないですし。
尾崎 落ち込んだ気分で乗ってくる人もいれば、幸せな気分で乗ってくる人もいる。でもタクシーの中では、それらの感情はピークではない。これから最高な出来事が待っているとしても、タクシーではその直前までしか入っていけないじゃないですか。だからこそ本音や本性が出るのかもしれない。これから大事な人に会う前の、ドキドキしている人の裏の顔が見えたり。
松居 失恋したあとの人もいるだろうしね。そういう意味ではタクシーって、グレーな空間とも言えますよね。
──そうやって考えてみると、この映画もある場所からある場所へ行くその中間を描いているというか。照生の誕生日は、2人が付き合った日でも、別れた日でもない。だからある意味では、宙ぶらりんの人たちを描いているとも言えますよね。
松居 まさにそうですね。劇的な出来事じゃない日々を積み重ねながら、それを思い返している映画ですし。
──池松さん演じる照生をケガで挫折してしまうダンサーという設定にしたのは?
松居 この映画では、闇と光の両方を描きたかったんです。夜の街を流すタクシードライバーの葉を闇だとするならば、反対側にいる照生は光に関係する人がいいなと。それで照生を光に照らされる側の人として描き、途中で挫折して光を照らす側に回るのはどうだろう?というアイデアが思い付きました。さっき尾崎くんが言っていたように葉がいるタクシーのシーンは会話劇になるから、照生は言葉ではなく体で表現するダンサーから照明スタッフになっていく“動き”のシーンにしたかった。
池松 なんせ僕はダンスをやったことがなかったので、すごく嫌でしたね(笑)。
全員 (笑)。
この作品に尾崎さんは絶対にいてもらいたかった
──クリープハイプではない架空のバンドのボーカルとして登場する尾崎さんの演技に関しては、皆さんどう思われましたか?
尾崎 いや、演技してないですけどね(笑)。
松居 素晴らしかったですね。普通の役者さんには出せない味があるというか。
尾崎 そういうイジり方はよくないよ?(笑)
松居 イジってないよ(笑)。褒めなかったら褒めなかったで「俺、どうだった?」って聞いてくるくせに。
尾崎 池松くんのダンスと同じく、自分も演じるのは嫌だったので、最初は抵抗していたんですよ。そしたら松居くんに「ジャームッシュの映画にだって、ミュージシャンのトム・ウェイツが出てるよ」と説得されて。「じゃあトム・ウェイツのコスプレをさせてくれるなら出る」と条件を付けたんです。
──それで髭面に帽子姿だったのですね(笑)。
尾崎 はい(笑)。基本的に池松くんとのやりとりが多かったので、撮影のギリギリまでしゃべっていて、そのテンションのまま撮ってもらいました。
池松 最高でしたよ、尾崎さん。それは「ミュージシャンだから」ということではなく、尾崎さんという人がそこにいることで起こる“映画的リズム”に感銘を受けたと言いますか。ジャームッシュも自分の作品に、ミュージシャンやコメディアン、俳優、素人など多種多様な人たちを集結させ、何年も前からダイバーシティに関する映画を非常に純粋な動機をもって撮っていたわけですよね。この作品の内部にも尾崎さんは絶対にいてもらう必要があったと思います。
──役者以外のキャストで言えば、ニューヨークの屋敷裕政さんも重要な役どころでした。
松居 決して「芸人さんにオファーしよう!」という狙いがあったわけではなくて、この人が芝居したら面白そうだなと思って脚本も当て書きしました。屋敷が演じる康太は、一見チャラいけど、付き合ってみるとわりといいやつなんじゃないか?と思わせる人物にしたくて。語り口は軽いけど、筋はちゃんと通している、そういう彼の人柄をそのまま生かしました。
──居酒屋で鉢合わせた葉と康太のやり取りも息がぴったりで、まるで漫才を見ているかのようでした。
松居 そうですよね。あのテンポ感は、カメラを回す前から2人の間でできあがっている気がしました。屋敷がそのままでいてくれてよかったです。
池松 松居さんは内的な演出というよりは“場”を作ってその人本人を演出していくタイプだと思います。例えば、僕と伊藤さんが向き合う中で新鮮な遊びやリアクションをいれてどんどんシーンの密度を上げていく。松居さんは、それをうまい具合に切り取って映画にパッケージしてくれていました。
松居 芝居が芝居ではなくなる瞬間が、僕はやっぱり好きなんです。走ったり食べたりするのもそうだけど「今のって芝居じゃないよね?」と思わせるシーンがあると、やはり観客は入り込める。池松くんはそういうのを積極的に仕掛けてくれるし、僕はわりとそういう部分を編集して使うんです。今思い出したのですが、照生と葉が高円寺のアーケードを歩くシーン前の路上で地団太を踏むシーンは台本になかったんですよ。その場で2人にセリフを付けてもらって、ああいう形になりました。
池松 ある意味セッションですよね。僕らは監督から「やれ」と言われたことだけをやることが仕事ではないし、監督は、俳優に丸投げするのが仕事でもない。お互いの中で生まれてくるものだと思います。
松居 アーケードで2人が踊り出すシーンもそうでした。台本にあったシーンではあるけど、芝居はもちろん、その場のムードや音楽、映像、衣装……そういういろいろな要素が混じり合った瞬間を僕らは切り取っている。そんな感覚です。
作り手が寂しくなるほどの曲が作れて幸せ
──ところで今年の4月でクリープハイプはデビュー10周年を迎えます。そのタイミングでクリープハイプの新曲「ナイトオンザプラネット」が映画化されるのは、長年のファンにとってはとても感慨深いものがあるのではないかと。
松居 実は僕も映画「アフロ田中」(2012年)の公開からちょうど10周年なんですよ。2月18日がデビュー日です。
池松 え? 僕は映像デビュー作が恐らく2002年で、それから今年20周年です。
尾崎 おお、先輩!(笑)
松居 みんなアニバーサリーなんだね。
尾崎 「ちょっと思い出しただけ」は自分が作った曲がきっかけになっている映画ではあるけれど、完全に曲とは別物というか、音楽と離れたところで成立している映画だと思います。そういう意味では少し寂しい気持ちもあるんですよね。映画が音楽を超えていってしまうような寂しさを、観ながら少し感じたりしました。
──そうだったんですね。
尾崎 もちろん、作品として最後まで引きこまれたうえで、エンドロールで自分たちの楽曲が流れた瞬間に思うこともいろいろありました。映画を1度通すことによって、「ナイトオンザプラネット」という曲の聴こえ方も変わってくるし、映画と音楽で仲よくしているというよりは、正面からぶつかり合う感じもあって。作り手が寂しくなるくらい、自分の手から離れていく曲を作れたのは本当に幸せなことだし、あとはお客さんがこの「ちょっと思い出しただけ」と「ナイトオンザプラネット」をどう受け止めたのか、感想が気になります。