近田春夫のアルバム「超冗談だから」が10月31日にリリースされた。
38年ぶりのソロアルバムとなる本作には、近田を敬愛する秋元康が作詞を手がけた「ご機嫌カブリオレ」、のんがギター、それいゆ(SOLEIL)がドラムで参加した「ゆっくり飛んでけ」など全10曲が収められている。1970年代初頭からロックミュージシャンとして活動を始め、85年にはヒップホップレーベル「BPM」を立ち上げ“プレジデントBPM”名義でラッパーデビュー、さらには「チョコボール」や「爽健美茶」など数々のCMソングを手がけ、記憶に新しいところではラストアイドルファミリーのGood Tearsに楽曲提供を行い話題を呼ぶなど、多彩すぎる音楽活動を展開してきた近田。今回のインタビューでは新作の制作エピソードに加え、ダイナミックな変遷をたどってきた自らの音楽人生を振り返ってもらった。
取材・文 / 下井草秀 撮影 / 相澤心也
内田裕也ファミリー入り
──近田さんが最初にプロのミュージシャンとしてレコーディングした作品って、何になるんですか?
1970年ぐらいはさ、今と違ってレコード業界は景気がよかったのよ。年度末になると、どこのレコード会社も予算を使い切ろうとするわけ。で、それを利用して、餅代みたいなものを若い貧乏なミュージシャンたちにあてがうために、アルバムを作ったりするの。最初にレコーディングしたのは、たぶんそういうやつだろうね。
──その内容は?
洋楽のカバー。まあ、スーパーマーケットでかかってるBGMみたいな適当なやつだよ(笑)。当時は、どこのレコード会社も同じようなことやってたんだ。俺も20歳ぐらいだったからいろいろやってて、順番は覚えてないんだけど、ひょっとすると、山内テツさんとか瀬川洋さんとか、グループサウンズの流れの人たちが参加した「FRIENDS」(1971年)ってアルバムが最初だったかもしれない。
──その頃に、内田裕也さんと出会ったわけですか?
そう。高校の先輩の成毛滋さんに紹介されたのが初対面。
──グループサウンズからニューロックへと至る日本のロック黎明期に活躍したギタリストですね。ブリヂストン創業者の孫という毛並みのよさでも知られています。
で、赤坂に「ムゲン」っていうディスコがあったんだけど、そこに、The Bar-Kaysがハコバンとして入ってたんだよ。
──オーティス・レディングのバックを務めてたバンドですよね。オーティスが自家用飛行機の事故で亡くなったとき、メンバーの過半数が一緒に犠牲になったことでも知られています。そのバンドが、レギュラーで日本のディスコで演奏してたわけですか。
そう。それがものすごく素晴らしくてさ、しょっちゅう観に行ってたんだけど、彼らが日比谷の野音でライブをやることになって、その前座として麻生レミさんが歌うことになったんだよ。
──内田裕也とザ・フラワーズのボーカルを務めた女性シンガーですね。
当時彼女はソロに転じたばかりで、和製ジャニス・ジョプリンみたいなことをやってたんだ。その頃、麻生さんのバックバンドでキーボードを弾いてたのは柳田ヒロだったの。
──はっぴいえんどの前身的バンドであるエイプリル・フールや、陳信輝やつのだひろと組んだフードブレインでも活躍した名鍵盤奏者ですよね。
でも、その日はヒロに別の仕事が入っちゃって、内田裕也さんから「ヒロの代わりに演奏してくれねえか」って頼まれた。それが裕也さんとやった最初の仕事だね。
──その後、近田さんは、内田裕也と1815スーパーロックンロールバンドに加入します。
裕也さん以外は、ドラムが大口広司、ベースがアラン・メリル、ギターが竹田和夫、そして俺がキーボードだったんだけど……。
──今になって見ると、その顔触れは、まさにスーパーグループですね。
結成してすぐに、そのメンバーはバラバラになっちゃった。
──何が起こったんですか?
お披露目の場として、裕也さんはフジテレビの「リブ・ヤング!」っていう番組を選んだんだよ。その同じ日に出てたアマチュアバンドがキャロルだった。リハーサルでキャロルが「Good Old Rock'n Roll」という曲を演奏し始めた瞬間、横で観ていた我々全員ぶっ飛んじゃってさ。これは絶対に勝てないと思った。もう本番始まる前に意気消沈して、このメンバーでの1815スーパーロックンロールバンドはその日で終わりになっちゃった。
──近田さんは、そのしばらくあとの78年にTBSドラマ「ムー一族」で、俳優として内田裕也夫人の樹木希林さんと共演することになります。
裕也さんが演出家の久世光彦さんに俺のことを紹介してくれて、その縁で出ることになったんだよ。裕也さんと久世さんは飲み仲間か麻雀仲間だったんじゃないかと思う。
近田春夫&ハルヲフォン結成
──話を戻すと、近田さんは、そもそもはキーボードプレイヤーだし、最初は自分が歌うつもりなんかなかったんじゃないですか?
そう。なかった。
──歌い始めたのは72年に結成した近田春夫&ハルヲフォンからですよね。
もともと歌うのって好きじゃなかったんだけどさ、自分のバンドを作ったら、なんとなく歌わなきゃいけないような気がして。それで最初はキーボードとボーカルを両方やってたんだけど、今と違って昔のキーボードって重いんだよ(笑)。それでハルヲフォンの途中から、キーボードはなしにしてボーカルに専念したっていう。
──当時、ミュージシャンとしての将来の展望はあったんですか?
最初は、プロで音楽を続けるとか全然考えてなかったと思うんだ。当時は、ロックでキーボードを演奏する人の絶対数が少なかったの。なので、いろんな人と知り合って、レコーディングやライブに誘われるようになって、気が付いたら裕也さんとやるようになって、ハルヲフォンやるようになって、銀座でハコバンもやって……二十代の頃は将来のことなんて全然考えないじゃん。しかもハルヲフォンはメンバー全員、実家が東京だしさ。
──最悪、家はあるというリスクヘッジが(笑)。
毎日楽しきゃいいやみたいにやってて、気付けば30歳になってた。鉄の意志を持って「ずっと音楽やろう!」みたいなものではなく、徐々になんとなく続いていった感じだね。
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突然のラッパー転向
- 近田春夫「超冗談だから」
- 2018年10月31日発売 / Victor Entertainment
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[CD] 3000円
VICL-65050
- 収録曲
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- ご機嫌カブリオレ[作詞:秋元康 / 作曲:大河原昇 / 編曲:APAZZI]
- 超冗談だから[作詞:児玉雨子 / 作曲・編曲:AxSxE]
- 0発100中[作詞:児玉雨子 / 作曲・編曲:鈴木豪]
- ミス・ミラーボール[作詞:児玉雨子 / 作曲・編曲:山本健太郎]
- ラニーニャ 情熱のエルニーニョ[作詞・作曲:近田春夫 / 編曲:鈴木豪]
- 途端・途端・途端[作詞:児玉雨子 / 作曲・編曲:禎清宏]
- 夢見るベッドタウン[作詞:児玉雨子 / 作曲:葉山博貴 / 編曲:坂東邑真]
- ああ、レディハリケーン[作詞:楳図かずお / 作曲:近田春夫 / 編曲:WIDESHOT]
- 今夜もテンテテン[作詞:児玉雨子 / 作曲・編曲:坂東邑真]
- ゆっくり飛んでけ[作詞・作曲:のん / 編曲:岡田ユミ&SOLEIL]
- 近田春夫「昼の雑談&サイン会」
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11月3日(土・祝)
東京都 タワーレコード渋谷店 4FイベントスペースSTART 16:00
- 近田春夫(チカダハルオ)
- 1951年、東京生まれ。慶應義塾大学在学中からプロミュージシャンとして活躍。1972年に自らのバンド、近田春夫&ハルヲフォンを結成する。1978年には歌謡曲をパンキッシュなアレンジでカバーしたアルバム「電撃的東京」をリリースして話題を集める。1985年にヒップホップレーベル「BPM」を立ち上げ、“プレジデントBPM”名義でラッパーとしての活動をスタート。1987年には人力ヒップホップバンド・ビブラストーンを結成し、以降精力的なライブ活動を展開した。CMソングも多数手がけており、森永製菓「チョコボール」や日本コカ・コーラ「爽健美茶」、TOTO「ウォシュレット」など1000曲以上のCMソングを世に送り出している。またミュージシャン以外にも、雑誌「週刊文春」での連載「近田春夫の考えるヒット」の執筆や「タモリ倶楽部」をはじめとするテレビ番組への出演など、多岐にわたる活動を行っている。現在は元ハルヲフォンのメンバーによるバンド「活躍中」のボーカル&キーボード奏者として活躍中。2018年10月には38年ぶりとなるソロアルバム「超冗談だから」を発表した。