BUMP OF CHICKENの5年ぶりアルバム「Iris」藤原基央1万字インタビュー (2/3)

趣味の要素が出てくるのをいとわないフェーズに来ている

──アルバムを聴いての印象なんですが、すごく音楽的に饒舌な曲が多い印象がありました。例えば「邂逅」「窓の中から」「Sleep Walking Orchestra」など、ひと筆書きのような曲ではなく、途中で曲調が変わったり、最後のほうでまた違う風景が見えたりする曲の印象が強かったです。

確かに言われてみて、そうかもなと思いました。なんか、表現のリミッターみたいなものが、28年の活動の中で特にここ数年、外れてきているような感じがします。

──リミッターが外れることによってどんな変化が生まれたんでしょうか?

饒舌な曲は、より饒舌になる。逆もあって、シンプルな曲はよりシンプルになっていく。あと、より趣味が出やすくなってるというのもあります。

──趣味が出る、というのは?

僕の中では「やりたいことをやる」というのと「趣味をやる」というのは全然違うことで。それこそ「邂逅」みたいな曲は、僕の中のオルタナマインドとかプログレマインドみたいなものが、なんのリミッターもなく音に現れていますね。あとは「strawberry」もだいぶ趣味に寄ってます。モータウンとかソウルとかファンクとか、そういう要素が自分の中から出てくるのをいとわないフェーズに来ているというか。今までそれをセーブしていたつもりは全然ないんですけど。

──「Sleep Walking Orchestra」もそういうタイプの曲ですか?

これもそうです。

──「Sleep Walking Orchestra」はケルトやアイリッシュ音楽のようなイントロがある一方で、ダンスミュージック的な軽快さもあって、これも一辺倒ではないサウンドになっている。藤原さんがおっしゃる趣味というのは、ジャンルや方法論というよりも「音楽のこういうところによさを感じる」という、その感覚的なエッセンスが抽出されて出てきているという印象があります。

本当にその通りで。こういうものは、趣味に走ったものを作ろうと思って作るわけじゃなくて。できあがったあとに「すごく楽しかったな、こういうことをやりたかった」と思う、その連続なんです。「Sleep Walking Orchestra」に関しては、打楽器とか笛とか弦楽器とか、いろんな地域の楽器を地域もジャンルもバラバラで集めてきて。ヨーロッパも南米も入っているし、それを自分なりの基準で「この音とこの音が合う気がする」と、ごちゃ混ぜで作ったサウンドなんです。メロディも大陸的な空気感というか、いわゆる普通のポップスやロックの解釈じゃない、どこかの民族に伝わる音楽のような雰囲気をはらんだ、地域性みたいなものを感じられるようなものにしよう、と。それでいて地域が特定しづらい、ヨーロッパの風景にも、南米の風景にも、日本の風景にもあるような不思議なメロディを考えて、初めて聴く温度感だけどなぜか懐かしい、みたいなものを目指して作った。それが「Sleep Walking Orchestra」のテーマでした。

増川弘明(G)

増川弘明(G)

──「邂逅」はどういうところから書いていったんでしょうか?

この曲はスケジュールが詰まっている中での制作で、「Sleep Walking Orchestra」のあとに書いたんですけど、その前から映画(「陰陽師0」)の主題歌のお話をもらっていて。何を書くのかも自分の中で定まってないままスタジオに行って、ギターを持ってじっくりと自分の心の中にあるものを探したんです。で、この当時、自分の身近なところで命にまつわるレベルの出来事がいくつかあって。自分もいろいろ思うところがあったわけで、そういうものがちょっとずつ言葉になっていきました。

──命にまつわるレベルの出来事?

身近なところでただごとではないことがいくつかありまして。そのすべてにおいて自分は無力な立場にいて、どうすることもできない状況だった。で、あとになって思ったんですけれど、このメロディはヨナ抜き音階っぽい感じなんです。ヨナ抜き音階っぽいメロディで和風のアプローチをするということは、今まであまりしたくなくて、意図的に避けていたようなところもあって。ところがこの「邂逅」に関しては、Aメロの出だしに初めてそれっぽいニュアンスが出た。というのも、命にまつわるレベルの出来事の1つは自分が幼い頃からお世話になっていた人に関することなんですね。そういうこともあって、率直な、素直な郷愁みたいなものを秘めたメロディが出てきたのかなと自己分析しています。でも、そこからその雰囲気のままいくのかと言ったら、全然違う。「邂逅」という曲の表現の入り口に立ったときにまず向き合ったのがそういう思いだったんだな、ということですね。

チャマに聞かれた「これなんで『strawberryなの?』」

──前作からの5年間でライブが多くあったことは、楽曲制作に影響しましたか?

めちゃくちゃしました。馬鹿正直なドキュメント、と最初に言ったのはそういうところからなんです。ライブをやっていて感じたこと、気付いたこと、思い知らされた気持ち、事実みたいなものが、そのまま歌詞になっている。ものによっては聴いてくれた人に対するラブレターのようになっている。

──それが特に色濃くあらわれている曲はどれでしょうか?

「strawberry」はまんまですね。「strawberry」の歌詞の多くは僕がステージでしゃべっていたようなことです。「どんな昨日からやってきたの」という歌詞があるんですけれど、これは実際にどこかのMCで言ったことで。別にこの歌詞を書いている途中でそれを思い出したとかじゃなく、日頃思っていることを言っただけで、それが歌詞になったんです。

──日頃から思っていること、というのは?

ツアー先に新幹線で行くと、あと15分で着くぐらいのときに、まだ新幹線は山の中らへんを走っていて、山と山の間に小さな街がバッと急に出てくるんです。その景色の中で、ヘルメットをかぶった学生服の男の子が自転車を漕いでいて。今から自分はライブをするために移動していて、もうすぐその目的地に着くわけで、そのライブにもしかしたらこの景色の中の誰かが来てくれるかもしれないと思うと、途端に切なくなるんですね。その人の日常を一瞬垣間見た気がして。そして一瞬垣間見ちゃうといっぱい知りたくなっちゃう。あのヘルメットの男の子が来てくれるんだとしたら、あいつはアルバムを買ってくれたんだろうか。だとしたら自分のお小遣いで買ってくれたのか、お年玉で買ってくれたのか、誕生日にお母さんに買ってもらったのか、もしくは友達から借りたのか。友達とちゃんと仲よくやれてるのか、親友とケンカしちゃって、ずっと謝れてないんじゃないのか。要はどんな日常の中で僕たちの音楽と出会ってくれたのか、みたいなことがすごく気になる。で、ライブをやって、それをお客さん1人ひとりに感じちゃうから、けっこうわけがわからなくなるんですよね。

──というと?

本当に1人ひとりと話せないだろうかみたいな、そういう実現不可能な気持ちまで生まれてきてしまうんです。で、アンコールの最後の曲まで終わると、こんなに深いところでつながった気がするのにもう終わってしまうのか、と思う。「じゃあね」ってなったら、その人たちが、またそれぞれ日常に帰っていく。その切なさがもうどうしようもなくて。そこから生まれる感情とか考えとか思いとか、熱量みたいなものがそのまま歌詞になっている。そういうライブを経て、僕も僕の日常に戻って、僕はその人の日常に付いていくことはできなかったけど、僕たちの音楽はその人の日常に付いていくことはきっとできる。その人が望んでくれさえすれば、その人の日常の傍らにいさせてもらうことができる。そういう全部が「strawberry」になっています。

升秀夫(Dr)

升秀夫(Dr)

──「strawberry」というタイトルはどのように決まったんですか?

曲ができてメンバーに聴いてもらって、みんなでスタジオに入っているときに、隣でソファに座って歌詞を読んでたチャマ(直井由文 / B)に「フジくん、ちょっとごめん。これなんで『strawberryなの?』」って聞かれたんです。「こういうの聞くの本当どうかと思うんだけど、ごめん。俺、本当わかんなくて」って。でもわかんなくて当然なんですよ。もともとタイトルが全然思いつかず、1コーラスか2コーラス書けたときにちょうど目の前にイチゴがあって。そのときに「strawberry」だって思ったら、自分でもびっくりだったんですけど、それしかありえなくなっちゃった。だから解説できる意味っていうのもまったくないんです。

──ただただしっくりきた、と。

しっくりきました。それ以上の理由もなくて。チャマもきっと「何か意味があるんだろう」と思って、一生懸命歌詞を読んでくれたんだと思うんです。あいつも真面目だから、バンドのメンバーとしてなんとしても藤原に答えを聞かずにその答えにたどり着きたいと思ったんだろう、と。でも、たまたま目に入ったものを当てはめてみたらそれ以外なくなってしまっただけのことで。