音楽ナタリー Power Push - 高橋まことが振り返る「BOØWY伝説」
BOØWY公式アーカイブサイト オープン記念
氷室京介(Vo)、布袋寅泰(G, Cho)、松井常松(B)、高橋まこと(Dr)という編成でかつて活動し、今年で結成35周年を迎えるロックバンド・BOØWY。彼らのスマートフォン向け会員制サイト「BOØWY HUNT」がオープンした。「BOØWY HUNT」というのは元をたどれば、バンドの解散に向けて1987年から1988年まで計4冊作られたファンクラブ会報の名前。この会報ではメンバーとさまざまなクリエイターが力を合わせ、美しいアートワークとこだわりのコンテンツでBOØWYなりの雑誌表現に挑戦していた。
その「BOØWY HUNT」の意志を受け継いで新たにオープンした会員制サイトは、高橋の当時の手帳を参照して作られた年表などバンドにまつわるさまざまな資料をメインコンテンツに、BOØWY関係者へのインタビュー、オフィシャルグッズ販売ページなどのコンテンツが随時更新されている。このサイトの開設を受けて音楽ナタリーでは高橋へのインタビューを実施し、伝説となったBOØWYの活動について当事者の目線で振り返ってもらった。
取材 / 津田大介 文 / 橋本尚平 撮影 / 上山陽介
「なんでこんなに会場に人がいるんだろう?」って不思議だった
──BOØWYの活動は7年くらいしかなくて、その間に一気にアルバムを出してライブをやって、燃やし尽くして終わったみたいな印象なんですが、高橋さんにとってもその7年間は特別濃密な時間でしたか?
うん、そうだね。でも結成から4年間はホントに売れてなくて、お金もないし、車に機材積んでツアー回ってたから。あとの3年ぐらいですよ、急にびょーっと売れたのは。
──最初の頃は、地方のフェスに出演したらギャラが野菜だったという逸話は有名ですよね(笑)。みんなの中で印象が強いのはクールに決めていた後半3年だけかもしれませんけど、初めのうちは中京テレビの「5時SATマガジン」に出て、メンバーみんなでボーリングをやってたりもしましたしね。
やってましたね。東京のキー局でそういうことやっちゃうと、おちゃらけが全国に知れ渡るけど、名古屋とか大阪のテレビでやる分には、その地域でしか見られないからいいかなーと思って。まあ「5時SATマガジン」はちゃんと2曲ぐらい演奏させてくれたんで。ただおちゃらけて帰ってくださいっていう番組じゃなかったから出た、っていうのはあったね。
──売れなかった最初の4年間も、ずっとBOØWYだけに専念されていたんですか?
そうそうそう。アルバイトしてBOØWYやるだけの生活。事務所もたいしたことしてくんないし、俺たちもライブハウスぐらいしか露出できる場がなくて。自分たちにできるのはポスターとかチラシを手作りして撒くぐらい。やってることは今の若い子たちと一緒だよ。
──そんな中で、自分たちを取り巻く状況が変わってきたと感じたのはいつ頃でしたか?
必死になって新宿LOFTにお客さん集めて「LOFTで一番入るバンドになろうぜ!」みたいなことを言ってたら、そのうちLOFTに人が入りきんなくなって。次はもっと大きい渋谷のLIVE INNでやったらそこもいっぱいになって。その頃は「あれ? なんでこんなに人がいるんだろう?」って不思議だったよね。
──そうこうしてるうちに、渋谷公会堂、日本武道館とどんどん会場が大きくなったわけですね。当時はバンドのメンバー同士でどういう話をされてたんですか?
たいした話はしてねえなあ。売れたらどうするかとかもあんま考えなかったような気がするし。たぶんヒムロック(氷室京介)は、東芝EMIに移籍してベルリンで3枚目(1985年発売「BOØWY」)を録音したあたりから、これから上がってく絵が見えてたんじゃないかと思うけどね。EMIに入って初めてシステム通りに「いつまでにアルバム作って、いつ発売して、ここでツアー」みたいなことを決めてくれるようになったけど、それまでは事務所から「作らせてやるから、音録っとけ」みたいなノリで言われてたんだよね。いつ発売するのかもわかんない曲を余った時間に録音してて、なんかこう、先が見えないモヤっとした感じだったね。
普通に叩いてたら布袋が「そこもっと変にして」って
──ベルリンでのレコーディング以降、曲作りのスタイルは変わったんですか?
かなり変わりましたよ。3枚目のときはベルリンに行く前に、曲も歌詞もあらかじめできてるものをきっちり練習して、ベルリンに着いたらすぐに録音してとっとと終わらしてたの。お金ないからって(笑)。でもだんだんデモテープを作らなくなってきた。布袋が書いた曲のざっくりしたコード譜をもとにその場で演奏してみて、「これいけるね」って言ってプリプロもなく録り始めたのが「BEAT EMOTION」だった。
──コード譜さえあればすぐにレコーディングできるようになったと。
うん、多分腕が上がったんじゃないかな。その日初めて聴いた曲を、練習しなくてもみんな録音できてたから。
──布袋さんから「ドラムのフレーズはこういう感じで」みたいな注文はあったんですか?
ある程度の指示はされるけど、最終的に叩くのは布袋じゃなくて俺だから、まあ俺のドラムになっちゃうよね。
──高橋さんのドラムって、ほかのドラマーと比べてフィルやタム回しがすごく印象的だなと思っていたんですが、そういうのもご自身で考えていたんですか?
普通に叩いてると「そこもっと変にして」って布袋の指示が入るの(笑)。「変にって、どうすんだよ?」って言ったら「じゃあ、タム入れ替えちゃえばいいじゃん」みたいな(笑)。布袋はトリッキーな曲を作る人だから、8ビートで始まるのに急に16ビートが入って、また8に戻るみたいな、そういうことを平気で曲の中に散りばめるんですよ。8ビート一発でガガガガガガガガッ!ジャン!みたいな終わらせ方はしないで、途中に絶対トリッキーなポイントを入れてくる。だから聴いた人が「あれ?」って思って印象に残るんじゃないのかな。
──BOØWYのステージを観ていると、高橋さんのドラムセットにものすごい数のタムが並んでるのも印象に残ってて。ストレートなロックバンドのドラマーでは割と珍しいですよね。
あの頃はね、タムをたくさん並べてる人そんなにいなかったからね。
──いつからあのスタイルになったんですか?
やっぱり、人よりちょっと違うことしないと目立たねえだろうみたいなさ(笑)。別にすごいフレーズ叩くわけじゃないしツーバスなんてなくても全然いいんだけど、ツーバスのほうが見た目が派手でいいじゃんみたいな、そういう単純明快な考え方よ。タムはいっぱいあったほうが迫力あるだろうみたいなノリ。
──自分で「これが高橋まことのドラミングスタイルだ」みたいのが確立したと感じたのはいつ頃ですか?
どうだろう? 速い8ビートは昔から得意だったけど。ただ俺はそれで競ってるわけではなかったから。池畑(潤二)のほうが速いだの、誰のほうが速いだのって周りから言われて「そんなの関係ねえだろ。速きゃいいのか?」って思ってた覚えはあるなあ(笑)。
──そういう周りからの音楽的な批評みたいなことはあまり気にしていなかったんですね。
気にしないっていうか、メンバーみんな人の言うことをあんまり聞かなかったんだと思うね。だからBOØWYはこういうバンドになったんじゃないかな。同じ方向を向いてる奴らは固まりやすいもんだけど、俺たち全然そういうとこにいなかったし。ARBとかアナーキーとか、当時のバンドとは一緒に酒飲んだりもしてたけど、同じようなことやろうとは思ったことないもんな。
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- BOØWYの全てが分かる唯一無二のオフィシャルサイト「BOØWY HUNT」
- BOØWY HUNT
■利用料金
月額500円(税抜)
■対応端末
Android OS 2.2以上搭載機種
iPhone(iPhoneの標準ブラウザが利用可能な端末)
高橋まこと(タカハシマコト)
1954年生まれ、福島県出身のドラマー。1981年に暴威(のちのBOØWY)の初ライブを観たことをきっかけに、ドラマーオーディションに参加してバンドに加入。1988年に東京・東京ドームで最後のライブ「LAST GIGS」を行うまで、パワフルかつタイトなビートでバンドの屋台骨を支え続けた。BOØWY解散後は、元ALLERGYの宙也を中心としたバンド・De-LAXに参加し。De-LAX解散後はソロアルバム「楽しき人生」をリリースしている。その後もさまざまなバンドに関わりながらドラマーとして精力的に活動。2007年には自叙伝「スネア」を出版した。