秋山黄色が3rdフルアルバム「ONE MORE SHABON」をリリースした。
昨年3月にリリースされた2ndアルバム「FIZZY POP SYNDROME」の延長線上にあるという今作には、テレビドラマ「封刃師」の主題歌「見て呉れ」や、「BOAT RACE」のテレビCMソング「ナイトダンサー」など既発曲を含む全10曲を収録。エモーショナルな歌声とメロディを軸に、自身の代名詞でもあるダイナミックなバンドサウンドに留まらないさまざまな音楽的挑戦を形にしたアルバムだ。
音楽ナタリーでは秋山に、初の全国ツアーを経ての変化や楽曲の制作環境、そして収録曲に共通する“夜”のモチーフについて話を聞いた。
取材・文 / 柴那典
「FIZZY POP SYNDROME」の炭酸が抜けたあと
──アルバムの全体像やイメージが定まったのはどんなタイミングでしたか?
すでにある曲を当てはめて、そこから2、3曲新しく書いたり、アレンジを変えたりしながら、ある程度プレイリスト的に曲をそろえていったりするので、全体のイメージは同時進行か、遅れて考えつく感じですね。最初に「こういうアルバムを作る」と決めてかかると、心変わりしたときに最悪なことになる。可能性を狭めて、いい方向に進んだ経験がないので。先に曲を並べてみて、その中で共通しているものを見ながら、なんとなく「世の中にこういうものが必要なのかな」とか「自分としてはこういうステップを踏みたいのかな」ということを考えている感じです。
──タイトルの「ONE MORE SHABON」はいつ頃、どういうふうに浮かんだものですか?
タイトルを付けるのはいつも絶対最後ですね。今作のテーマ自体は途中からふんわり決まって「こういうものにしたい」となってから、それを言語化しなきゃいけない。ネーミングセンスには自信があるので、新しくも懐かしい、字面としてカッコいいけど難しすぎない英単語をチョイスする。そういうことをいろいろ考えて最後に付けました。
──その言葉はアルバムをどう象徴するものになったんでしょうか。
これは「FIZZY POP SYNDROME」という前作アルバムのタイトルありきで考えました。「FIZZY POP SYNDROME」は「炭酸症候群」という意味なんですが、リリースした時期は何しろコロナ禍で、自分ができることとして、少しでもみんなのつらさを薄められたらという気持ちを“炭酸を注ぐ”行為にたとえたんです。ただ、薄めることって、結局薄めるだけでしかなくて。それが1年なのか2年なのかわからないですが、いつかは炭酸が弾けて抜けるときがくる。今はコロナで現実的にいろんなことがつらいという人も、それが終わるときがくる。そのつらさを薄めてくれていた炭酸が抜けきったとき、人間は孤独や虚無に悩むと思うんですよね。そういう人間の危うさとか脆さを表現するのに「儚いものってなんだろう」ということを考えて、シャボン玉が思い浮かんだ。作品を通してノスタルジックなことにこだわっていた節もあるのでそのイメージにもつながるし、“シャボン”という語感もよかった。そこから考えました。あとは、本音で言うと、「FIZZY POP SYNDROME」から大幅なステップを踏みたくなかったというのもあって。
──というと?
本当はこういう音楽もできるとか、最近はこういうのにハマってるとか、どんどん見せたい思いもあるけど、それをただ作って投げて終わりになるのは嫌だった。炭酸が抜けたあとの話を書きたかったのと、もう一度シャボン玉を吹くようなノスタルジックさがあってもいいなという気持ちを込めて「ONE MORE」を付けたんですよね。ジャケットにしても「FIZZY POP SYNDROME」は気泡をフィーチャーした作りなので、「ONE MORE SHABON」のジャケットと並べるとシャボン玉を吹いているように見えるんです。
──「FIZZY POP SYNDROME」と「ONE MORE SHABON」は“泡”というモチーフが共通するわけで、その背景には前作と地続きのものを作るという意識があったのでしょうか。
そうですね。ちゃんと曲の比率的にも新しく“ちょっと変なこと”をしているものと、今までの感のあるものが混じり合っていると思います。歌詞的にも「FIZZY POP SYNDROME」の続きなのでポジティブなものもありますが、もはやどうしようもない悩みに向けて書いたものが多い。僕はどうしようもないことを題材にしたことが、自分のステップアップにつながったと思っているんです。音楽的な成長とか歌詞の技術が上がるなんていうのは当たり前だし、面白いと思ったことにトライしていたら当然新しくなっていきますから。クリエイターとして取り扱う題材が次に進んでいるということを示したという意味で、もう一歩踏み込んだ感じですね。
宇都宮凱旋ライブで得たもの
──去年「FIZZY POP SYNDROME」を出して以降、全国ツアーやフェスへの出演もありましたが、そこを経ての実感はどういうものだったんでしょう?
正直なことを言うと、物足りない感じはありましたね。フェスも出たし、ツアーもやったし、吐くほど大変だったんですけど、それでも終わってみれば「本来はもっとライブで新曲を披露するんだろうな」という感覚があった。例えば大きなライブイベントに呼んでもらったときにも、当然時間は限られているので2ndアルバムから披露するものをどれだけチョイスできるかという制限もあって、作った曲を活用していくことにおいての量感が伴っていなかった。アルバムを作って出すというスパンについても考えたんですよね。これまでは何も考えず、なんの取り決めもなく、とりあえず1年に1枚出してきたんですけど。
──なるほど。もっとツアーを回ったり、曲をライブで見せる機会があってもよかったと。
昇華させる場が意外とないなとは思いましたね。僕の考えの根幹の考えとしては「音楽は作っていれば十分だ」というのがあるんですけど、実際には時代の流れの中でいろんなものを体感するうちに、結果的に人にライブで聴かせたいんだと思うようになった。ツアー自体が与える影響は、自分自身にとってもわりといいものが多いという感じがありますね。
──前作のツアーのファイナル公演は秋山さんの地元である宇都宮のHEAVEN'S ROCK Utsunomiya VJ-2で開催されましたが、終えたときの感触は?
結果的には地元でライブをやってツアーを終えるというエモいストーリーになりましたけど、やる前はツアーのラストという感じではなかったですね。そこまで気持ちを整理できなかった。地元でワンマンをやるというのは凱旋という見え方になるかもしれないけれど、個人的には全然そうじゃなくて。前日までMCで何を言おうか迷っていた。それほど複雑なんです。嫌な思いをしてきた数も半端ないんで。でも、最終的には後輩たちのためにがんばろうという気持ちが大きかったです。地元には同い年で音楽やっているやつは少ないですが、上と下の世代には多くて、慕ってくれるやつもたくさんいる。そんな中で表立って活動しているので、自分が道を作ればいいかなっていう。今は反省してますけど、俺、東京でライブをするときに栃木をネタにしてたんですね。後輩が栃木を盛り上げようとがんばっていても、「俺には関係ねえ」っていう素振りをずっとしていたんです。でも、個人的にケンカをしていた部分が多いというだけで、そうやって1人でネガティブキャンペーンをしてるのはめちゃめちゃダサいなと思って。もちろんまだ許せない部分もあるけど、優しくしてくれた人はいるし、こんな俺でもステージに立たせてくれたライブハウスは大事な場所だから、個々に恩がある人には恩を返していこうと。
──そう思えるようになったのは大きな変化ですよね。
大きかったです。自分としては、ツアーファイナルが終わって個人的に一番強かったのは和解の感情でしたね。気持ちの整理がついたというか。
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夜にもがき苦しむのはダンスみたいだ