半世紀以上にわたって日本の芸能界、音楽界で圧倒的な存在感を放ち続けるマイトガイ、小林旭。
1958年に「ダイナマイトが百五十屯」(後に甲斐バンド、真島昌利らがカバー)で日本のロックの第一歩を切り開き、1975年には「昔の名前で出ています」が90万枚を超える大ヒットを記録。1985年に大瀧詠一作曲の「熱き心に」を発表し、1995年に東京スカパラダイスオーケストラとのコラボレーションを行うなど、その歴史はそのまま日本の歌謡史といっても過言ではないだろう。
そして2007年、小林旭はさらなる音楽活動のために自身のレーベル「マイトガイレーベル」を設立。全曲新録のオリジナルニューアルバム「KEEP ON RISING, CHANGE THE STREAM」をリリースした。
本作では彼を慕う若い世代のミュージシャンが集結。THE BOOMの小林孝至をメインアレンジャーに迎え、100sの玉田豊夢・山口寛雄・町田昌弘、Natalie Wiseの斉藤哲也、HEATWAVEの山口洋、Goodings Rinaなど、多くの才能がせめぎ合い、小林旭の新たな魅力を引き出すことに成功している。
今回ナタリーでは、そんなマイトガイへのインタビューを敢行。齢69歳とは思えないそのパワフルなエネルギーはどこから来るのだろうか? 存分に語ってもらった。
「今日まで芸能界でメシを食ってきたっていうのが、自分の意志とはまったく反対なんだよね。本当はもう50代のときには芸能界をやめて、それでちゃんとした仕事を持ちながら、きちっと保証のあるような何かをやるべきだと、そう思っていたんだよ。芸能界というような浮き草稼業というものは、そうそう続くものじゃないというのが、まぁ理念だから。そんな中で四苦八苦しながら一所懸命やり続ける必要が果たしてあるだろうかっていうのが、30代、40代のころにしきりに考えていたことだよね。でもそうやってあがけばあがくほど、人生のドツボにハマる。うん、なんかそういうことが往々にしてあるんだね。だから人間というのはやっぱり天性というか、天命というか、生まれたときから背負っている星というものをやっぱりくつがえすことはできない。運命を受け入れてやっていくしかないんだよ。例えば小林旭の歌についてきてくれる人たちがいる。それから小林旭のタレント性についてきてくれる人がいる。そういう人たちを、やっぱり精神的に裏切っちゃいかん。だから俺はその仕事を一所懸命やるしかないんだよ。どこかの終着駅に着くまでの間、もうとにかくガムシャラにやるしかねえじゃねえか、というのが人生だね」
そう、歌い続け、演じ続けるのが「小林旭」の人生だ。映画俳優からそのキャリアをスタートさせ、歌手としてもヒット曲を多数発表してきた小林旭。そんな彼が今回ひさびさのニューアルバムで、またのびのびと音楽制作をしているように感じられる。
「楽しそう? いや、やってる最中はたいへんだよ。イライラしたりね、こんちくしょう、この野郎ってカッカしたりして。もの作りっていうのはやっぱりそんなもんだと思う。いろんな葛藤をしながら作るしかない。でも、その結果産まれた作品、いや作品というよりも答えだな。そうやって到達した答えに関して、他人様がこっちの葛藤を感じるようなものを残したら、これはいけないことだよね。だから俺の歌を聴いてくれる人には絶対そこは見せない。そのへんがやっぱり年の功かね(笑)。年とったぶん勉強してきて、うまいことリカバーを覚えたんじゃないのかな。でもそのへんぜんぶひっくるめて、もの作りは楽しいんだよ。やっぱりなにかやる以上は、楽しさを感じながらやんなかったら、生きてる価値がないんだね。うん、どんなことでもそうだと思うよ、俺は」
思えば彼が歌を歌い始めた頃は、シンガーソングライターという概念もまだなかった時代。歌手の仕事というのは、作曲家・作詞家の先生が作った楽曲を歌うことだった。ところが現在、彼は多くの曲の作詞や作曲を自分自身で行っている。彼が音楽に目覚めたきっかけはなんだったのだろうか。
「最初は音の世界では、俺はまったくの外様だったよ。映画の中の挿入歌とか主題歌とかを映画の役者が歌う。考え方としては歌はアルバイトだよ。うん、映画が本職で歌はアルバイト。俺責任ねえよって言って、まったくいい加減に吹き込んでた。それが(昭和)30年代、40年代の半ばまでだね。それまで順風満帆というか天上天下唯我独尊みたいな世界を味わって、もう俺は天下の小林旭だ、みたいな時代もあったりしてね。でも40年代の半ばを過ぎて自分なりに、その、要するに事業に失敗したりして。そこからはまあ「地底の歌」の世界だ。ある瞬間、どん底のうめきを自分なりに掌握した瞬間から、血の気が引いて、あっやべえ、こりゃまずいな、このままじゃ一家皆殺しにするしかねえ、どうする。人殺して自分が這い上がるか、それもできねえな。それじゃどうすりゃいいんだ、自分が死ぬしかない。死ぬ気になってがんばるしかねえ、ってところに答えがいったら、もうその瞬間から掴むものは全部、自分の身になるように吸収してくっていう知恵しかでてこない。だから言葉のひとつも、音のひとつも、何もかも、自分の中でできる限りの努力をして、答えが出せるものに関しては100%の努力をしようと。でもまあそれでも100%にはなかなかいくもんじゃないけど。とにかくそれに少しでも近づいて、70%でも80%でもいい、自分のなかで納得のいくところまで追求していったら這い上がれるんじゃなかろうかっていう。そんなどん底から学びとったもんだよね。で、ちょうどその時期に触れ合って別れたのが、天下の美空ひばりだろ? 歌ってもんはどうやって歌うんだっていうのをさ、あの天才にじっくり教えられたわけだよ。うん、納得させられた。俺なんかが歌ってた歌っていうのは、いい加減この上なかったなって。あるとき「ダーリン、『北帰行』わたし好きなの、歌っていいかしらね」って、「ステージで歌う」って言われてね。ああそうかい、やりゃあいいじゃねえかって。それでやつがポンと「北帰行」を歌ったら、もう俺の歌を軽く超えちまうわけだよ。じゃあこいつがここまで歌えるなら俺だってできるんじゃねえかって話になるわけで。負けてたまるかの負けずぎらいがニョコニョコと出てきて。それから歌について吸収しはじめたらあとは海綿体だよね。どんどこどんどこ新しい発見をして、なるほどなあ、やっぱりこの辺が欠けてた、こういうこと勉強してなかったって。ひとつひとつ気づきはじめたときに、歌というものは本当に大事に言葉と心を伝えなきゃいけないものだ。メロディというのは人間の血の流れと同じなんだと。それに温かさや冷たさ、そういったものが全部重なってきてこうなるんだという、その答えが出てきたときに、初めて俺にもそれなりの表現のしかたが身に付いた。そういうことだね。それまではさ、ほんとに五里霧中だよ。無我夢中でやるだけやってきて、借金取りに追われなくなって、初めて少しだけゆとりが出たときにさ、その血流にたどり着いたり、あるいは何かに手が届いたりっていうことが現実に起きて。いや、一家皆殺しにしないで済んだわい、という世界になったんだよね」
「一流は一流を知る」とはよく言ったものだ。小林旭のまわりには常に一流の才能が集まってくる。映画の世界で一線級の役者に囲まれ、私生活ではあの美空ひばりと過ごし、趣味ではじめたゴルフも、今ではプロライセンスを獲得するほどの腕前だ。それでも彼はなお歩みを止めず進んでいくと宣言する。
「隠居するつもりなんかまったくないよ。隠居するぐらいだったら俺は人生をやめてもいいと思ってる。人間は生きてる間は勉強の時間、吸収する時間が続いてるんだ。もう満腹ですよって世界はありえない。腹いっぱいになったら目の皮だってたるむでしょう。そうなっちゃったらおしまいだもんな。あとは棺桶入って目つぶるだけだから、それまでの間っていうのは、やっぱり年中ハングリーで吸収することに神経を尖らしてたほうがいいんじゃないのかな。そんな気がする」
そんなハングリーな精神が、このアルバム「KEEP ON RISING, CHANGE THE STREAM」には詰まっている。老若男女必聴。半世紀を第一線で走り続けてきた男にしか歌えない、本物の"歌"を全身で受け止めてみてほしい。
収録曲
- 朝日のあたる家
- 折紙人生(アルバム・ヴァージョン)
- ダンチョネ節
- アキラの人生学校 PART1
- ダイナマイトが百五十屯
- あれから
- 風の旅人
- 琵琶湖周航の歌
Bonus Tracks
- ダンチョネ節(ver.GR)
- 朝日のあたる家(ver.GR)
- あれから(to Yu and for You)
プロフィール
小林旭(こばやし・あきら)
1938年東京生まれ。映画俳優・歌手・日本プロゴルフ協会名誉会員。
1956年、第三期ニューフェースとして日活入社。同年10月「飢える魂」で銀幕デビュー。「絶唱」や「完全な遊戯」などでのナイーブな青年役を経て、1959年、マイトガイのニックネームで、抜群の身体能力を活かしたアクション映画に出演。「ギターを持った渡り鳥」を第一作とする「渡り鳥」シリーズ全9作、「流れ者」シリーズ全5作、「銀座の次郎長」シリーズ全5作、「賭博師」シリーズ全8作などに主演。東映の「仁義なき戦い」シリーズ、東宝での「青春の門」など、時代を象徴する作品に出演。日本映画のトップスターとして総計158作に出演している。
また、1958年9月、コロムビアから「女を忘れろ」でレコードデビューを果たし、「ダイナマイトが百五十屯」「ダンチョネ節」「ズンドコ節」などの"アキラ節"が大ヒット。「さすらい」「北帰行」などの哀愁ソングなどが映画主題歌としてヒットを続け、歌う映画スターとして一世を風靡。1964年のクラウン移籍後も、「自動車ショー歌」がロングセラーとなり、「ついて来るかい」「純子」と"男と女の歌謡ドラマ"シリーズを次々とヒットさせた。1975年に発表の「昔の名前で出ています」は、カラオケブームの先鞭となり記録破りとなる。「お世話になったあの人へ」「熱き心に」「五月雨ワルツ」「雪散華」「あれから」「惚れた女が死んだ夜は」「昭和恋歌」など、時代を象徴する楽曲を次々とヒットさせる。これまで発表したシングル320曲、レコーディング楽曲は1000曲にも及ぶ。
2004年に芸能生活50周年を記念して、東京国際フォーラムでリサイタルを開催。毎年、全国ツアーを実施するなど、歌手としても精力的にステージ活動を展開している。2007年7月には、19年ぶりの座長公演「無法松の一生」(大阪新歌舞伎座)で無法松を演じている。