鈴木雅之の音楽履歴書。

アーティストの音楽履歴書 第50回 [バックナンバー]

鈴木雅之のルーツをたどる

音楽の神様を信じてる──ブラックミュージックだけじゃない、ラブソングの王様を作った10曲

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アーティストの音楽遍歴を紐解くことで、音楽を探求することの面白さや、アーティストの新たな魅力を浮き彫りにするこの企画。記念すべき50回目となる今回は、“ラブソングの王様”マーチンこと鈴木雅之が登場する。

今年68歳、音楽活動44年のキャリアを積み上げてきたマーチン。ブラックミュージックのイメージの強い彼だが、いったいどんな音楽を愛聴してきたのか。「影響を受けた10曲」を軸に話を聞くと、「あまり語ってこなかった」という貴重なエピソードが次々に飛び出した。

取材・/ 秦野邦彦

マーチンが影響を受けた10曲

「だからここに来た」岡林信康はっぴいえんど(1970年「全日本フォークジャンボリー」)
「12月の雨の日」はっぴいえんど(1970年)
「ぼくの好きな先生」RCサクセション(1972年)
「Sunrise」Uriah Heep(1972年)
「Mary Jane On My Mind」ストロベリー・パス(1971年)
「Super Bad」ジェームス・ブラウン(1970年)
「You Are Everything」Diana Ross & Marvin Gaye(1973年)
「Superstar(Remember How You Got Where You Are)」The Temptations(1971年)
「A Woman Needs Love(Just Like You Do)」Ray Parker Jr. & Raydio(1981年)
「Never Too Much」ルーサー・ヴァンドロス(1981年)

初めて自分で買ったレコードはSam & Dave

デビューまもない頃。

デビューまもない頃。

ノギスという測定器を使っている鈴木雅之(左)と、その不器用な姿を見て笑っている父親(右)。

ノギスという測定器を使っている鈴木雅之(左)と、その不器用な姿を見て笑っている父親(右)。

僕は東京都大田区大森ってところで生まれ育ったんだけど、小さい頃に聴いてた音楽と言えばラジオから流れるアメリカンポップスの日本語バージョン。例えば、のちにピンク・レディーのディレクターになる飯田久彦さんが歌ったジーン・ピットニーの「Louisiana Mama」とか、「あの子はルイジアナ・ママ やってきたのはニューオリンズ」っていうすごい日本語だけど軽快でカッコいいな、と思ってたね。それからグループサウンズ、そしてモータウンやアトランティックのR&Bを、とにかくごちゃ混ぜに聴いてきたんだよね。

小学3年生くらいになると、4歳上のお姉ちゃん(歌手の鈴木聖美)が中学に上がって盛んに音楽を楽しむ世代になって。その頃はお姉ちゃんと相部屋だったから一緒にラジオを聴いたり、お姉ちゃんが買ってきたレコードを聴かせてもらったりしてたんだ。小学5、6年生の頃は子供ながらにR&Bに傾倒していく感じになる。初めて自分で買ったレコードはSam & Daveだった。その頃、テレビで唯一リアルタイムにR&Bを歌ってくれたのがグループサウンズのバンド。ズー・ニー・ヴーがSam & Daveの「Hold On, I'm Comin'」やFour Topsの「Reach Out I'll Be There」を本格的にカバーしてるのを目の当たりにしてレコードを買ってた時代が、まず小学生のときにあったんだ。

こういう音楽的ルーツを語る企画はこれまでも何度かあって、だいたいブラックミュージックを中心に話してきたんだけど、僕の音楽遍歴はいろんな切り口があるから、今回はこれまであまり言ったことのないところも紹介していこうかな。

歌うという行為の出発点 / 「だからここに来た」岡林信康&はっぴいえんど(1970年「全日本フォークジャンボリー」)

※はっぴいえんどとのライブ音源は未配信。アルバム「狂い咲き」の演奏メンバーは柳田ヒロ、高中正義、戸叶京介。

中学に入ると友達の兄貴にフォークギターを習って、聴くだけじゃなく自分が歌う側にシフトしていく。それで「帰って来たヨッパライ」が大ヒットしたザ・フォーク・クルセダーズの曲とかをコピーして楽しみ始めたんだ。フォークブームの中、いろんなミュージシャンが現れたけど、とにかく僕は岡林信康さんが大好きだった。

その頃、「全日本フォークジャンボリー」(第1回は1969年8月開催)っていう野外フェスが開催されたんだ。「日本のウッドストック」なんて呼ばれてたけど、いろんなミュージシャンが一堂に会して。そこで僕の大好きな岡林さんが、はっぴいえんどを従えて歌ったのは衝撃的だったね。ボブ・ディランとThe Bandみたいで、なんてカッコいいんだろうと思って。「だからここに来た」は「フォークジャンボリー」のテーマ曲みたいなものだったんだよ。

デビューまもない頃のレコーディングにて。

デビューまもない頃のレコーディングにて。

中学2年生のとき、僕は「土曜日の放課後、音楽室を開放してください」って校長先生に直談判して、コンサートを開催した。「だからここに来た」をテーマ曲にして。「家から会社から学校から逃げ出したくて 自由がほしくてここに来た」って歌を、自分もフォークロックバンドを組んで、はっぴいえんどをバックにやるような気持ちで音楽室で歌ってた。集まってくれたのは2、30人だったけど、自分で歌うという行為の出発点はこの曲だね。

ただ、このあと僕の興味は岡林さんからはっぴいえんどに移行していく。シャネルズでデビューして初めて大阪に行ったとき、岡林さんのラジオ番組にゲスト出演する機会があって。ドゥーワップをやってる若者が「岡林さんの曲、よく聴いてました」って言うのもおかしな話だし、「そのままはっぴいえんどが好きになりました」って失礼にも言っちゃったんだけど(笑)、すごく喜んでくれたことを今でも覚えているよ。

いいなと思うのは全部大瀧さんの曲だった / 「12月の雨の日」はっぴいえんど(1970年)

通称「ゆでめん」っていう、はっぴいえんどの1stアルバム「はっぴいえんど」(1970年)は、細野晴臣さんが6曲、大瀧詠一さんが5曲作曲して、松本隆さんが作詞(「飛べない空」は細野、「いらいら」は大瀧が作詞も担当)してるんだけど、最初は誰が作ってるかわからないまま聴いていたのに「12月の雨の日」とか「かくれんぼ」とか「朝」とか、いいなと思うのは全部大瀧さんのクレジットだった。そこから大瀧さんという存在が僕の中ですごく大きなものになったんだ。

「12月の雨の日」はアルバム発売の翌年、シングルで出たからそっちも買ったんだけど、シングルとアルバムでテイクが違うんだよね。同じ曲なのに、なんでこんなに違うんだろうってすごく不思議だった。大瀧さんのこだわりでシングル用に新たに録り直したっていうのはだいぶあとになって知るんだけど、そのときは全然わからなかったんだ。

忌野清志郎=気になる存在 / 「ぼくの好きな先生」RCサクセション(1972年)

中学の卒業式の前に3年生を送る会があって、卒業生のために在校生が寸劇とかいろんな催しをしてくれたんだよね。そのとき、同じ学校の1学年下の桑野信義がトランペットを持って出てきて、「ただいまから10時何分をお知らせします」みたいなことを言って時報を吹いたの。「何やってんだ、こいつ」と思いながら、桑野がトランペットを吹くことを知ったのはその瞬間。あの時報がなかったら桑野はシャネルズに入ってないからね(笑)。

そのあと、今度は卒業生から在校生へってことで僕が当時組んでたバンドのライブを聴かせたの。まずは先生に対してRCサクセションの「ぼくの好きな先生」を贈って。のちに僕が「スローバラード」をカバーしたのは、フォークロック的なアプローチの中で忌野清志郎さんがすごく気になる存在だったからだね。そして在校生にはGAROの「たんぽぽ」と「地球はメリー・ゴーランド」。当時Crosby, Stills, Nash & Youngに代表されるウエストコーストの音も好きで、それを日本に置き換えるとGARO。彼らの1枚目のアルバム「GAROファースト」(1971年)はCSN&Yをものすごく意識したアルバムだったんだ。僕はそういう本家本元を目指すイミテーションゴールドみたいなものが好きでさ。イミテーションゴールドって、時として本物よりきれいに光ったりする瞬間があるからね。そういうところからもカバーすることの心地よさみたいなものを知らず知らずのうちに学んでたんだと思うよ。

「ウッドストック」のSha Na Naとリンク / 「Sunrise」Uriah Heep(1972年)

中学3年生のときにラジオから流れてきた「メリー・ジェーン」という曲に僕はすごく魅せられたんだよね。のちにシングルカットされて、つのだ☆ひろさんの代表作になる楽曲なんだけど、もともとはつのださんと成毛滋さんがやってたストロベリー・パスというバンドのアルバム「大烏が地球にやってきた日」(1971年)に収録された「Mary Jane On My Mind」がオリジナル。この頃、成毛さんが音楽雑誌で海外のロックバンドを紹介してて、僕はそれでLed Zeppelinを知った。この頃はLed ZeppelinとGrand Funk Railroadが自分の中の2本柱で、Deep Purpleには行ってない。やっぱりどこかブルースを感じる音楽が好きだったんだよね。

そんな中でイギリスのバンド・Uriah Heepをよく成毛さんが紹介してたから、ものすごくインプットされて。楽曲を聴いたらカッコいいから、当時出てたアルバムも全部そろえたよ。「Sunrise」は彼らの5枚目のアルバム「魔の饗宴」(1972年)の1曲目で、僕も観に行った初来日公演(1973年3月、東京・日本武道館)の1曲目でもあったから、すごく印象に残ってる。

ただ、このときのPA環境がものすごく悪かったんだよね。正直、Uriah Heepってこんなもんなのかな?という印象を受けた。客のノリもそんなによくなくて。ところがアンコールで「Blue Suede Shoes」とか「At the Hop」とか、50'sのロックンロールをメドレーでやったらものすごいウケちゃって、オリジナル楽曲より客がノったんだよ。それでロックンロールってすごいなと思って。日本ではキャロルとかが出始めた頃だったけど、当時最先端のUriah Heepですらオールディーズのロックンロールをやるってことは、やっぱり本人たちも好きなんだよね。たぶんスタジオで遊んでて、これ面白いからやっちゃおうぜみたいな感覚だったんじゃないかな。

レコードを買い漁っていたデビュー前、22歳頃の自室にて。この頃、山下達郎とレコードショップで出会う。

レコードを買い漁っていたデビュー前、22歳頃の自室にて。この頃、山下達郎とレコードショップで出会う。

それまでドゥーワップやロックンロールを現代によみがえらせているバンドは、Sha Na Naくらいしかいなかった。「ウッドストック」のドキュメンタリー映画「ウッドストック / 愛と平和と音楽の三日間」(1970年)が日本でも公開されて、僕はSly & The Family StoneやCrosby, Stills, Nash & Young、ジミ・ヘンドリックス目当てで観に行ったんだけど、Sha Na Naが出てきていきなり50'sのロックンロールをやってるのを観て、何これ?と思った。当時Sha Na Naはまだ大学生バンドだからネームバリューからしたらフィルムに入るわけないんだけど、最終日のトリがジミヘンで、その前のSha Na Naから撮影クルーがカメラを回してたんだね。そのときの記憶とUriah Heepのロックンロールメドレーが完全にリンクしちゃったんだよね。そこからドゥーワップやロックンロールのレコードを後追いで買い漁り始める。いろんなレコード店を回っては、見つけていくのが楽しくて。

よく行ったのは原宿の竹下通りにあった「メロディハウス」っていう輸入レコード店。セコハン的なところだと、蒲田にあった「えとせとらレコード」。あそこはもともと蒲田のちょっと先にある雑色駅の質屋が、駐車場にプレハブを建てて質流れのアナログ盤を売り始めたのが最初なんだ。その情報を知って見に行ったら、ドゥーワップとかそういうレコードが惜しみなくある。上野のアメ横にある「蓄晃堂」や銀座・数寄屋橋の「ハンター」にもよく行ったね。あとは大阪の「FOREVER RECORDS」が年に1回、神保町にレコードをいっぱい持ってきてバーゲンセールをやるんだけど、そこで僕は同じくレコードを買い漁ってる山下達郎さんと出会ってるんです。だから音楽を一緒に奏でる人とは、偶然じゃなく必然的に出会う運命なんだと思う。ロックンロールに魅せられなかったら、そういう出会いもないから。

ダンスフロアのチークタイムで再会 / 「Mary Jane On My Mind」ストロベリー・パス(1971年)

※埋め込みはつのだ☆ひろの「メリー・ジェーン」。

グループサウンズブームが終わって、日本のロックシーンに「ニューロック」と呼ばれるバンドたちが登場すると、日本ではフラワー・トラベリン・バンドやブルース・クリエイションみたいに英語で歌って海外バンドっぽくやるか、はっぴいえんど、あんぜんバンドみたいに日本語をロックにする美学を追求するかの真っ二つに分かれて。僕は日本語のバンドなら、はっぴいえんどを聴いてたし、英語の楽曲はというと「メリー・ジェーン」を聴いて、つのださんみたいなドラム&ボーカルになりたいと真剣に思っていたんだよね。

信濃町スタジオでドラムをセッティングしている鈴木雅之。

信濃町スタジオでドラムをセッティングしている鈴木雅之。

ストロベリー・パスのステージはよく観に行ってた。メンバーが2人しかいないから成毛さんが左手でギター、右手でハモンドを弾きながらフットペダルでベース音を出してて、すごい人だなと。それから間もなくストロベリー・パスは、ESCAPEってバンドで高校生ギタリストだった高中正義さんをベースに迎えて、トリオ編成のフライド・エッグになるんだ。

僕は最初フォークロックのバンドを組んだけど、その後クラスメイトとThe Rolling Stonesのコピーバンドを始めてドラム&ボーカルを担当することになる。つのださんの影響でね。当時はR&Bを演奏するやつが周りにいなくて、ロックテイストでちょっとブルージーなものを感じるバンドとなると、ストーンズだったんだよね。高校に入学後はベースとギターとドラムの3人編成で、フライド・エッグ、Mountain、Grand Funk Railroadのカバーをやるようになるんだけど。

そんな感じで、ずっとロックとして聴いてきた「メリー・ジェーン」とダンスフロアのチークタイムで再会したときは本当に驚いた。あの頃は踊り場──のちにディスコと呼ばれる店に行くと、自分のアルバム(2001年発表「Soul Legend」、2024年発表「Snazzy」)でもカバーしたビリー・ポールの「Me and Mrs. Jones」(1972年)や、マイケル・ジャクソンの「Ben(ベンのテーマ)」(1972年)とか、Harold Melvin & The Blue Notesの「if you don't know me by now(二人の絆)」(1972年)といったバラードをDJたちがチークタイムに選んでレコードをかけてくれてね。そこに「メリー・ジェーン」も入っていた。中学生のときにラジオで聴いて衝撃を受けた僕が、今度はラブソングとしてこの曲にもう1回出会えたことに運命的なものを感じたんだよね。

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まだまだ続くマーチンのルーツ。レイ・パーカーJr.との貴重な写真も

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