アーティストの音楽履歴書 第45回 [バックナンバー]
オーイシマサヨシのルーツをたどる
愛媛宇和島で育まれた手作り精神と謙虚な心、いつまでも伸びしろがあるアニソンシンガー
2023年3月23日 18:30 40
アーティストの音楽遍歴を紐解くことで、音楽を探求することの面白さや、アーティストの新たな魅力を浮き彫りにするこの企画。今回は
取材・
「かしゅ」になりたかった幼少期
愛媛県の宇和島市という田舎町に生まれまして、子供の頃から歌うことが大好きな男の子でした。毎日毎日お風呂場で歌っていたら、いつからか父親と母親が点数を付け始めたんですよ。「今日の歌は90点だった」「今日は80点かな」みたいな。満点が取れるとすごく喜んでいたのを今でも覚えていますし、「評価してもらえる」ということが子供心にすごくうれしかったんですよね。だから選曲も、親が気に入るようなものをチョイスして(笑)。谷村新司さんとか
僕、谷村さんの「昴 -すばる-」でビブラートを覚えたんですよ。最後の「すーばーるーよー」ってロングトーンのところで首を小刻みに振ると音が揺れて、それをやるとうちの親がすごく喜んでくれて。今でもファンの方とかにビブラートのコツを聞かれたりすると「首を振ったらすぐできるよ」とアドバイスしています(笑)。
そんな感じで自然と歌うことが好きな少年になったので、幼稚園の卒業アルバムの将来の夢を書く欄に僕は「かしゅになりたい」と書いたらしいです。自分では記憶していないんですけど、親がそう言ってましたね。
ライブって水を撒くものなんや
アーティストのライブを初めて観に行ったのは小学5年生くらいのとき。親に連れられるがままに地元の宇和島市営丸山球場で行われた
その後、初めて自分でCDを買うんですけど、当時はちょうどアナログレコードからCDへの転換期で、CDというメディアが世の中に浸透し始めた頃でした。履歴書にも書いた通り僕は
ちなみに当時好きだったアニソンを1曲挙げるとするなら「ドラゴンボールZ」の主題歌「CHA-LA HEAD-CHA-LA」。以前、オリジナルシンガーの
ベース演奏に心を奪われてギターを始めた
中1の1学期くらいですかね。友達の家に遊びに行ったら、その友達のお兄ちゃんがベースを弾いていたんですよ。曲は確か
最初の頃は歌本を見ながら好きな曲をひたすらカバーしていました。その本にギターコードの押さえ方とかも書いてあったので必死で覚えていって。そういうことを通じて「音楽がコードというもので成り立っている」という概念も理解するようになり、よく言われる“Fの壁”みたいなものもけっこう早い段階でクリアできたので、C、F、G、Am、Emという5つのコードを使って自分でも作曲をするようになっていきます。初めて作曲をしたのは中1の12月でした。
使っていたギターがアコースティック系だったこともあって、その頃にSimon & Garfunkelがすごく好きになったんですよ。よく聴いてましたし、ギターのフレーズをコピーしたりもしていました。S&Gは暗い曲が多いんで、親には心配されたりもしましたけど(笑)、あのフォーキーな感じにはすごく影響を受けたと思いますね。
将来の夢が「かしゅ」から「税理士」に
中2の終わりぐらいになると、学校で進路指導が始まりますよね。そのときも「かしゅになりたい」という気持ちは漠然と持ち続けてはいたんですが、クラスには自分よりギターや歌がうまいやつがいたりして、「そいつらにすら勝てないのにメジャーデビューなんかできるのか?」という思いもあり、そう簡単な道ではないことは重々理解していたんです。
それに加えて、僕の地元に宇和島東高校という商業系の学校があるんですが、そこが周辺の中学生にとっては“メジャーな進学先”という感じだったんですね。実際に僕自身もそこの商業科へ進学するんですけど、そうなってくると、その後の進路は必然的に大学の経済学部や、資格を生かした職業といったところが基本線になるわけです。
そんなことを進路指導の先生と話している中で、「まあ歌手にはなれないかもしれないし、税理士っすかね?」という感じで、少なくとも表向きの将来の夢は「税理士」と表明するようになりました。もちろん、税理士だってそんな簡単になれる職業ではないんですけどね(笑)。
なければ自分で作ればいい
高校に入って初めてバンドを組むことになり、そこで早くも税理士の夢は消えてなくなっていました(笑)。「バンドでスターになりたい」という頭にすっかり切り替わっていましたね。僕がもともと曲を作るのが好きだったこともあって、そのバンドでは早い段階からオリジナル曲をやり始めていたんですが、ざっくり言うと“ポップな日本語ロック”という感じの音楽性だったと思います。
当時は世の中的にグラムロックのブームが来ていて、僕らも
その頃、地元には練習スタジオがなかったので、自分たちでなんとかするしかなかったんですよ。そこで、近所にあった僕の家が所有していた畑を潰して、スタジオという名の掘っ立て小屋を建てまして……というのも、うちの父親が大工の免許を持っていたので、「お前が手伝うなら一緒に作るか?」と言ってくれて。そこに建てた8帖くらいの小屋にギターアンプやドラムなどの機材をみんなで持ち込んで、スタジオとして使っていました。そこで毎晩毎晩練習してましたね。
ライブハウスもなかったから、カラオケ店のパーティルームを借り切って、ビールケースを並べた上にベニヤ板を敷き、即席のステージを作ってライブをやってました。ボーカルだけはカラオケの設備をそのまま使って部屋のスピーカーから出す、みたいな感じで。そのビールケースを運ぶときも父親がトラックを出してくれましたし、何かと子供の夢に協力的な親ではありましたね。今でも「あのとき手伝ったのは無駄じゃなかった」と言ってくれていますし。
その「なければ作ればいい」という精神は、のちの音楽活動にもすごくつながっていると思います。東京ドームや日本武道館、さいたまスーパーアリーナのような会場も、もともと舞台も音響設備も何もないところにイチからステージを作っていくわけじゃないですか。規模は違えど、その重要性や大変さを身をもって知っているから、ありがたみや尊さも感じることができるし、スタッフの皆さんに対する感謝の気持ちも自然と湧いてくるんです。自分たちでイチから環境を作っていく経験はしておいてよかったな、と本当に思いますね。
天狗歴:1日
高1で組んだそのバンドで、高2のときに全国大会に出たんですよ。全国の都道府県からアマチュアバンドが集まるコンテストがあって、そこにデモテープを出したら見事愛媛県代表として出られることになりまして。メンバーみんなで大阪の会場まで行ってステージで演奏したんですけど、全国大会に出たことで、もうすっかり天狗になっているわけです(笑)。大会の翌日に相当な“ドヤ感”を出しつつ地元へ帰り、商店街を肩で風切って歩いてたら、地元のヤンキーみたいな5人組に「ちょっとお前、来い」と絡まれまして。めっちゃ鼻についたんでしょうね(笑)。ボコボコにされたとは言わないまでも、「調子に乗るなよ」みたいなことで。「なるほど、こんなふうに出る杭というものは打たれるんだな」と学びましたね。調子に乗ることが鼻につくタイプとつかないタイプがいると思うんですけど、僕は鼻につくほうの人種なんだなと悟って、それからは「何か成果を上げたときこそ冷静に、謙虚にいよう」と心がけるようになりました。それがその後の生き方における大きな指針の1つになっている気がします。
そのバンドがなぜ審査に通ったのかはもちろん知る由もないですけど、1つ考えられるのは、デモテープのクオリティがほかよりも少し高かったのかもしれないです。当時、高校生くらいだとデモテープはラジカセとかで一発録りするバンドがほとんどだったんじゃないかと思いますけど、僕らはMTR(マルチトラックレコーダー)で多重録音していましたから。なので、特にボーカルに関しては一発録り音源よりもかなり聴きやすかったはずです。
ドラムの子がその掘っ立て小屋に持ち込んだ4トラックのカセットMTRがあったので、僕は高1のときからずっと多重録音とかで夜な夜な遊んでたんですよ。それでMTRの使い方も身に付いていたので、バンドのデモを録るときは、ピンポン録音というものを駆使してトラック数を無理やり増やしたりとか、リバーブなどの機材も持ってなかったからギター用のマルチエフェクターを使ってボーカルにディレイをかけたりとか、けっこういろいろ工夫した記憶がありますね。今はパソコン1台あればなんでもできちゃう時代なので、なかなか伝わりづらい話だとは思いますけども(笑)。
メジャーデビューがゴールではなかった
高校卒業後は、兵庫県にある神戸商科大学(のちに兵庫県立大学に統合)に進学しました。ここにもまだ税理士の流れが微妙に生きてるんですけど(笑)、そこの軽音楽部で出会ったドラムの川原(洋二)くん、出席番号が近かったベースの沖(裕志)くんとSound Scheduleを結成します。
経営学を学ぶ学生3人で組んだバンドということもあって、ドラムの川原くんを中心にかなり初期の段階からバンドを会社に見立てた経営戦略を考えていましたね。彼は僕のボーカルをすごく買ってくれていて、「ラウドな音が主流の神戸のライブハウスでも、大石の声は日本語がきちんと聞き取れるくらいマイク乗りがいい。それがうちのバンドの武器だ」と明確に定義したうえで「ちゃんと歌ものとして成立するロックバンドであろう」という方針を掲げました。僕自身もポップな歌もの、歌謡曲やJ-POPが大好きだったので「合点!」ということで、歌が映えるような楽曲作りを当初から意識していましたね。
そのSound Scheduleというバンドで2001年にメジャーデビューするわけですが……高校までのことを詳細に書きすぎて履歴書の欄が足りなくなっちゃったので、それ以降を1行にまとめてしまいました(笑)。とはいえ、「メジャーデビューがゴールじゃなかったな」というのは22年という芸歴の中ですごく思っていることで、デビューしてからのほうが大変なことは多かったような気がします。当時はまさかこんなにアニメソングに関わるようになるなんて思ってもいなかったですし……。
そういう意味では、初めて携わったアニソン案件がTom-H@ckくんの楽曲を歌う男性ボーカリストオーディションだった、というのは大きかったと思います。2006年にバンドを解散し、2008年に大石昌良としてソロでデビューしたものの、いい音楽をやっている自負はあってもなかなか世の中に響かず……という中で、そのオーディションに当時のマネージャーさんが勝手に応募していたんですよ。だから最初はわけもわからず歌いに行ったんですけど、そのときに録った仮歌がそのまま本チャンとして使われて「ダイヤのA」というアニメのオープニング(Tom-H@ck featuring 大石昌良「Go EXCEED!!」)になりまして。
たぶん、そこでアニソン業界の方々が「Tom-H@ckが選んだ相方なら間違いないだろう」という目で僕を見るようになってくれた部分はあると思うんですよね。そこからいろいろアニメ関連のお話が舞い込んでくるようになり、2014年にアニメ「月刊少女野崎くん」のオープニング曲「君じゃなきゃダメみたい」でアニソンシンガー・オーイシマサヨシが誕生するわけです。
いつまでも伸びしろがある
先ほど「メジャーデビューがゴールじゃなかった」と言いましたけど、それは作る楽曲の音楽性にも同じことが言えますね。アマチュア時代、青春時代に受けてきた音楽的な影響の総量を、メジャーデビュー後に受けた影響が追い越してしまっているように思うんです。
例えば2010年、11年あたりに青山の月見ル君想フっていうライブハウスによく出入りしていたミュージシャン仲間には、ソウル系とかのブラックミュージックを好きな人たちがすごく多くて。Namiotoさん、
そういうソウルやジャズ、ミュージカルなどからの影響って、僕のバンド時代の楽曲にはあまり感じられないかもしれないですけど、ソロデビュー以降の楽曲にはけっこう色濃く出ていると思うんですよ。プロになったあとでも新たに影響を受けることは全然あるし、今後もまだ大きな出会いがあるかもしれないですよね。いつまでも伸びしろのある状態でいられるというのは幸せなことだなと思います。
「アニソン界のおしゃべりクソメガネ」の目論見
ちなみに「アニソン界のおしゃべりクソメガネ」というキャッチフレーズは、記憶している限りでは2015年あたりから使い始めていると思います。よく言われるんですけど、品川庄司の品川祐さんが有吉弘行さんに付けられたあだ名「おしゃべりクソ野郎」とはまったく無関係でして。もちろんそのフレーズを存じ上げてはいたんですけど、意識的にもじったわけではないんですよ。実は。
メガネをトレードマークにしたアニソンシンガーとして活動していくにあたって、「何か登場時の口上のようなものがあったほうがいいんじゃないか?」と思うようになりまして。というのも……これはあまり話したことないんですけど、
それに倣ってと言いますか、「クソメガネ」を自称することで皆さんに「イジってもいいキャラですよ」というスタンスが伝わりやすくなりますし、「おしゃべり」というワードを入れることで、ワンチャンMC業や司会業にもつながるんじゃないかという目論見もあったりして。実際、今はそういうお仕事もさせてもらってますしね。実はけっこう計算されたキャッチフレーズなんです(笑)。
大石昌良 / オーイシマサヨシ
愛媛県宇和島市出身のシンガーソングライター。大学の軽音楽部の仲間である川原洋二、沖裕志とともに1999年に結成したSound Scheduleでボーカル&ギターを担当する。2006年にSound Scheduleが解散したのち、2008年にシングル「ほのかてらす」でソロデビュー。2011年にはSound Scheduleの再結成でも話題を呼んだ。またアニソンシンガー・オーイシマサヨシとして多数の人気アニメの主題歌を担当し、Tom-H@ckとのユニット・OxTとしても活動中。2017年7月にアニメ「けものフレンズ」オープニングテーマとして声優ユニット・どうぶつビスケッツ×PPPに書き下ろした「ようこそジャパリパークへ」が大ヒットを記録し、のちに動画サイトで公開されたオーイシが自ら歌った仮歌も話題を呼んだ。最新作は2023年3月リリースのEP「ギフト」。同月、ワンマンライブ「オーイシマサヨシ ワンマンライブ 2023」を兵庫と東京で行う。
オーイシマサヨシ ワンマンライブ 2023(※終了分は割愛)
2023年3月25日(土)東京都 TOKYO DOME CITY HALL
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