KAKKOと鈴木杏樹の選択
──時期でいうとThe Stone Rosesがデビューしたり、いわゆるマッドチェスターとかアシッドハウスとかそういう文化が出てきた頃だと思うんです。そんな先鋭的な音楽体験をしてきた人が、のちに日本の“ザ・芸能界”という環境で活躍することが不思議で仕方ないです。
CBS UKとの契約がまだ残っていたので、日本でデビューしたときはまだロンドンに戻る予定だったんですよ。
──あくまでも一時帰国しただけという。
そうです。ロンドンに戻ってアルバムを出す予定だったんですけど、湾岸戦争がなかなか収束しなくて……関西の家でじっとしていてもだんだん不安になってくるので、事務所の社長に「なんでもいいから日本で仕事をさせてください」と頼みました。ただ、音楽の契約は残っていたので、音楽以外のお仕事ということで、資生堂さんのCMや、「オールナイトフジ」の後番組「ヤマタノオロチ」(フジテレビの深夜バラエティ番組)にアシスタントで出演させていただいたりしました。
──契約的に問題がない仕事をとりあえずやってみたんですね。歌はCMでちょっと歌うぐらいで。
そうなんです。資生堂「セレンシュア」のCMソングは
──アルバムをどうするんですか、と。
ちょうどUKの契約が切れるタイミングで。再契約をするか、それとも日本のEPICで鈴木杏樹として音楽をやりますか?という話もあったんです。
──それもいいじゃないですか。
そのときは演技をがんばりたいと思い始めた頃だったので……それまで音楽には24時間365日と言っていいほど自分のすべてを費やしてきたわけです。それを8割くらいお芝居に集中してる私が、残り2割のパワーで音楽ができるのかというと、もうできないと思ってしまって。
──本気でやっていたからこそ、申し訳なくなっちゃったんですね。
はい。あれだけがんばって音楽をやっていたのに、鈴木杏樹が売れたからといって、適当に音楽やってますみたいになるのは嫌だったんです。やるならKAKKOでやってきたようにちゃんとやりたくて。なので、EPICソニーや事務所の社長に「今はお芝居に集中して、女優として演技ができるようにならせてください」と正直な気持ちを伝えました。そのあとで、自分がしっかりと音楽と向き合えるようになったときに機会をいただけるようであればまたやらせてくださいと話をして、一旦音楽から離れたんです。
──そしたら、その“一旦”が30年も続いてしまったと。
そうなんです(笑)。私が音楽をやっていたことは裏では皆さんご存じなので、「MUSIC FAIR」(フジテレビ系で放送中の音楽番組。鈴木は1995年から2016年まで総合司会を担当)の司会をさせていただいたりして。
──
そうです。「音楽同志」というNHKの番組もありました。とにかく音楽をやっていたということで音楽つながりの番組にたくさん出していただいて。でも徐々に役者業のほうが大きくなっていったんでしょうね。音楽活動について聞かれれば答えるけど、自分からあえて「実は私、歌手だったんですけど」とはなかなか……(笑)。
藤井隆とミッツ・マングローブの本気
──歌手時代のことを聞いてくるのは
そうなんです! 藤井さんに初めてお会いしたときに、「僕、KAKKOが大好きで。『We Should be Dancing』最高ですよね!」と言われて、「えーっ!?」と驚きました。最初は共演するから社交辞令的に誉めてくださってるのかなと思って、こちらも軽く「あ、ありがとうございます」という感じで返したんです。でも、藤井さんもミッツさんもそうじゃなかった(笑)。
──本気だったんですよね。
そうなんです。
──ミッツさんなんて当時イギリスでレコードを買っていたぐらいKAKKOがお好きだったと聞きました。
ラジオでご一緒したときには、12inchから7 inchから、CD、カセットテープまでたくさん持ってきてくださって。それもちゃんと保存状態がいいんですよ。「サインして!」と言われたので、何十年かぶりにKAKKOのサインをしましたね。
──藤井さんもカイリーとか大好きな人ですからね。
藤井さんはレコードレーベルを立ち上げる前からイベントでDJとかなさってて、そのときに私の曲もかけてくださっていたんですよ。あるときレギュラー番組で毎週お会いするようになって連絡先を交換したときに、藤井さんが「いつか絶対にKAKKOやりましょう!」と言ってくださって。もう何十年も前の話ですけど。
──そんな長いフリがあったんですね。
たぶん20年くらい前から言ってくださっていて。でも当時は女優業でいっぱいいっぱいの頃で、まだ舞台経験もなく人前で何かすることに恥ずかしさがあったんです。藤井さんの「やりましょう!」という熱量に対して、「いいですね、やりましょう!」と同じ熱量では返せなかった。「そうですね、機会があれば」と、ちょっと一歩退いた感じで。でも藤井さんがその情熱の炎を消さないで温めてくださってる間に、私もいろいろ経験を積んで、舞台もやるようになり、発声もよくなって、人前で演じることに対しても心臓に毛が生えて(笑)、私は私で自分なりに成長したんです。
──当時より歌えるんじゃないか、ぐらいに。
そうなんです(笑)。度胸が据わって、「Top of the Pops」のときより今のほうが堂々としていられるんですよね。そんなときに藤井さんが具体的に「『We Should be Dancing』やりませんか?」と言ってくれて、機が熟したから私もやりたいと思えたんです。
──デュエットでこの選曲って度肝を抜かれましたよ!
ね、ホントに(笑)。藤井さんはいろんなアーティストのプロデュースをされていますけど、KAKKOをどうプロデュースしてくれるのか、最初はイメージが湧かなかったんです。そんな中で藤井さんに「『We Should be Dancing』の歌詞を新たな気持ちで僕たちのために書いてくれませんか?」と言われて。なので、以前穴井さんに書いた歌詞はまったく読み返さず、英詞の内容に沿って日本語を選んでいきました。
──そこに
それは藤井さんが「アレンジはNight Tempoさんがいいと思うんですけど、どう思います?」と提案してくださったんです。そこからどんなふうになるのかワクワクでした。
KAKKO初めてマイクを持つの巻
──まさかテレビで歌うまでになるとは。
「おげんさんといっしょ」は藤井さんのおかげで出していただくことになって。あの放送を観て世間の方が「KAKKOやってたの?」と知ってくださったので、やっぱりテレビの力は大きいなと思いました。ラジオでは何回か、ミッツさんとのやり取りで楽曲をかけたりしていましたけど、ほとんどの方が知らないことだったので、黒歴史とか言われちゃうし(笑)。全然黒じゃないから!
──藤井さんのコンサートでの歌いっぷりも見事でした(参照:藤井隆ニューアルバムツアーでクルーから料理長に!KAKKO、堀込泰行、パ音、ケンモチも集合)。
ありがとうございます(笑)。本当に楽しかったです。でもほかのゲストの方が堀込(泰行)さんとか、もう本格的じゃないですか。リハーサルのときから「私ここにいていいの?」と思っていました。
──素朴な疑問なんですけど、KAKKOは当時、生歌ではなかったんですか?
イギリスは基本的に全員なんですけど、半分マイクを効かせて、自分の声が半分入ってる状態で。
──いわゆる“被せ”ですね。
基本的に生バンドの演奏はせず、全部音源があって。だからフェードアウトして拍手で被って消えていくんです。基本的には被せですね。
──ダンスをがんばっていたんだなと思いながら動画を観てました。
おかしかったのが、「おげんさん」に出たときに「マイクを持ちますか? ヘッドセットにしますか?」と聞かれて、「私マイクはどうしてたっけ? 持ったことないんだけど」と気付いたんです。
──そこの記憶もない(笑)。
YouTubeで自分の映像を観たらスタンドマイクだったので、スタンドにしていただきました。藤井さんとのコンサートでは前日のリハーサルで藤井さんから「マイクを持ってみません?」と言われて。「MUSIC FAIR」では下のほうを持っていたんですけど、「歌手のときは上のほうを持ったら重くない。下を持つと不安定だから」と藤井さんに教わりました。それが初めての“KAKKOマイクを持つの巻”だったんです。
──基本はスタンドマイクで、そこでずっと踊っていたんですね。
イギリスではスタンドしか経験がなかったんです。初めてのハンドマイクは動き回れて楽しかったですよ。藤井さんと2人でステージのあちこち行って。
──ひさしぶりに歌って血が騒ぎました?
「楽しい!」って思いましたね。これを機にまた音楽ができたらいいなとすごく思いましたし、EPICさんたちに「機が熟したら」と話していたあの場面が思い浮かびました。
──個人的には
豪太さんの還暦コンサートを観に行ったら、素晴らしい人たちと共演していて、いい音楽がたくさんあったんです。豪太さんも素敵ですし、堀込さんとご一緒した世界観もすごくいいなと思って。
──それも最高ですね!
いっぱい好きすぎて選べない(笑)。でも、チャンスがあればぜひやりたいと思っています。
──ロンドンでの経験を生かした曲も聴いてみたいと思っています。
「おげんさん」でNight Tempoさんとご一緒したときに、「英語の楽曲をまた歌ってください」と言ってくださって。「機会があったらご一緒しましょう」という話もあったんです。
“黒”歴史ではなく、黄金ですから!
──そして発売されてないアルバムがホントにもったいないですね。
ちゃんとデジタルで音源は残っているんですよ。ニッポン放送にもありますし。
──あるんだ! 版権はどうなっているんですか?
PWLにあると思います。
──なんとかリリースしてほしいですね。
私は今はピートたちとつながりがないのでわかりませんけど、藤井さんが今作のことでPWLに連絡して権利の問題をクリアしてくださったというのは聞いています。
──アルバムもサンプルぐらいまでは作っていたということなんですかね。
ちゃんとミックスダウンして残ってるんですよ。私もカセットかCDでもらったはず。
──いい話がいっぱい聞けました。
本当ですか? ありがとうございます。今思えば、当時の自分はよくがんばったと思います。今同じことを5年間やってこいと言われたらできないです。あの頃は夢と希望に満ちあふれていて、後先を考えない勢いがあったし、知らないからこそ飛び込めた。今の年齢である程度のことが予測できる状態だとあそこまでがんばれなかったと思うので、あのタイミングがすごくよかったんだと思います。
──僕は当時フジテレビで放送されていた「BEAT UK」という洋楽番組を毎週楽しみに観ていたので、音楽的にエキサイティングだった時代のイギリスでいろんな音楽を体験しているのは純粋にうらやましいです。
宝ですよね。
──黒歴史なわけがない。
とんでもないです! 私にとっては黄金ですから! あの頃があるから今の私があると思うし、自分のコアな部分だと思っています。
鈴木杏樹(スズキアンジュ)
1990年2月にイギリス・CBSレコードからリリースされたKAKKO名義のシングル「We Should be Dancing」でアーティストデビュー。ヨーロッパツアーやアルバム制作を行っていたが、湾岸戦争の勃発により帰国。1992年に女優デビューし、ドラマ「あすなろ白書」「若者のすべて」「長男の嫁」といった話題作に出演して注目を浴びる。音楽番組「MUSIC FAIR」の司会や、情報エンタテインメント番組「ZIP!」でパーソナリティを務めるなど幅広く活躍。2022年7月に藤井隆とのデュエットによるリアレンジで「We Should be Dancing」をリリースした。
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藤井隆 @left_fujii
KAKOOさんの声が聞こえてくるインタビュー、さすが吉田豪さん。
ありがとうございました!KAKKO!GO! https://t.co/NgDhTRr1a4