昨年8月放送の「おげんさんといっしょ」(NHK総合)に登場し、今再び注目されているKAKKOをご存知だろうか。
KAKKOは
同曲が収録されたアルバム「Music Restaurant Royal Host」の特集(参照:藤井隆「Music Restaurant Royal Host」インタビュー)では、藤井がインタビュアーの
これまで本人からほとんど語られることのなかったKAKKO時代の音楽活動。「杏樹さんの音楽話は触れちゃいけない」「黒歴史」など、巷でまことしやかに囁かれていたウワサは本当なのか? 鈴木杏樹からKAKKOの真相が語られる。
取材・
酒井政利に見出され、なぜかロンドンへ
──以前、藤井隆さんのアルバムのインタビューをナタリーでやらせてもらったとき、「鈴木杏樹さんの音楽活動についてだけ聞くインタビューを豪さんにやってほしいんですよ!」と託されまして。
そうなんですね。すみません、30年以上前のことを(笑)。
──今日はいろいろ聞かせていただければと思います。
よろしくお願いいたします。覚えている限りをお話しします(笑)。
──そもそも音楽活動のことだけを話すインタビューは初ですか?
日本では初めてです。
──ああ、そうか。向こうでは当時当たり前のようにされていたんですね。
逆に歌手しかやっていなかったので。でも日本では音楽やKAKKOの活動についてそれだけを詳しく語ることはなかったかな。
──女優・鈴木杏樹として有名になった結果、ある時期からKAKKO時代に触れちゃいけないのかという誤解が広まって。
いやいや、そんなことは全然ないですよ。とてもプラウドなことだし、なかなかできることではない経験なので。
──20年ぐらい前に高田純次さんのインタビューをしたとき「噂のCMガール」の話になって、「杏樹さんの音楽話は触れちゃいけないみたい」というようなことをおっしゃっていたんですよ。
やだ! なんでそんなこと言うの(笑)。まったくそんなことないです。触れていただいて大丈夫です。
──了解です! もともと音楽をやりたかったわけですよね。
そうですね。小学校3、4年生ぐらいのときにちょうど「ザ・ベストテン」や「夜のヒットスタジオ」できらびやかなアイドルを観ていたので、最初は憧れからスタートしました。中学でインターナショナルスクールに入学するんですけど、その頃に先輩方から洋楽のカセットテープをもらって聴くようになって。クリストファー・クロスとか映画「フラッシュダンス」のサウンドトラックとか……。
──「ベストヒットUSA」の時代ですね。それで洋楽っぽいことをやりたくなったんですか?
その頃はまだ具体的ではないんですけど、歌手になりたいという目標は持っていました。歌手になるためには歌を歌えるようにならないといけないから勉強しようと思って、中学校の帰りに音楽教室に通い始めたんです。自分が歌いたい楽曲を持っていって、それを先生のピアノ伴奏で練習していました。
──どんな曲を持っていったんですか?
REBECCAの「フレンズ」とか、あとは小泉今日子さんの「The Stardust Memory」も歌いましたね。当時マドンナとNOKKOさんがすごくカッコよくキラキラして見えて、あんな歌唱力を得られたら素敵だと思ってレッスンしていました。その音楽教室では年に1回発表会があるんですけど、レコード会社の方や事務所関係者も観にいらしたりして。
──つまり、スカウトの場にもなっていると。
そうです。そのときに声をかけてくださったのが、CBS・ソニーで山口百恵さんなどを担当されていた酒井さんという方で。
──え、酒井政利さんにスカウトされたんですか?
そうです。家まで来てくださって。
──そうだったんですか!
はい。私は百恵さんも松田聖子さんも大好きで憧れもありましたので、酒井さんの下で歌手デビューできることがすごくうれしかったんです。
──酒井さんなら安心だってなりますよね。
それで私は東京に行く心持ちでいたんですけど、ちょうどそのときに日本人アーティストを海外でデビューさせようというプロジェクトがEPICソニーで持ち上がって(※CBS・ソニーレコードが誕生時の合弁相手であるCBS社傘下のCBSレコードを買収した)。私は英語が話せたので、ロンドンでデビューさせたらどうかということになったんです。
──急激に話が大きくなって。
そうなんです。でも私の母は国際線のキャビンアテンダントだったので、海外での活動に対して抵抗もなく、「大丈夫よ、できるわよ」と背中を押してくれて。「え、ロンドン? 1人で海外?」って私のほうがドキドキするぐらいだったんですけど、17歳で単身ロンドンに行くことになるんです。
──17歳でいきなりロンドン。
はい、行きましたね。当時、向こうにはMELONの佐藤チカさんとトシ(中西俊夫)さんがいて。彼らをお世話していたマネジメントの日本人男性もいて、私もそこでお世話になりました。
中西俊夫と藤原ヒロシが奏でるギコギコした音楽
──
そうなんです。Cute Beat Club Band(
──当然、当時はプラスチックスやMELONを知らないですよね?
知らなかったです。でもトシさんがギコギコ言っている音楽を家でずっとかけていたことは覚えていますね(笑)。「こんな音楽もあるんだー」と思いながら聴いていました。
──ギコギコ(笑)。たぶん相当最先端の音楽がかかっていたはずなんですよ。
──たぶん2人がハウスとかにハマっていた時期ですね。
そうですね。そのあとトシさんとチカさんが日本に帰ることになって、私はマネジメントの方と、ギタリストの鈴木賢司くん、日本から来た
──それもすごい環境ですよね。
すごく楽しかったです。夜になるといろんなミュージシャンが遊びにやって来て、豪太さんがエレクトリックドラムを叩いたり、賢司くんがギターを弾いたり、家が静かなことがなかったですね。
──時期的には1986~87年ぐらいですか?
私のデビューが1990年だったので、87年から90年ぐらいですね。私は関西出身なのでロンドンで話すのは英語か関西弁だったんですけど、フミヤさんに「KAKKOちゃんはバタくさい顔してるし、ロンドンデビューという肩書きになるんだから、帰国までに標準語を話せるようになったほうがいいよ」とアドバイスをいただいて。そこから標準語を勉強したんです。
──実際、それが役立った?
役立ちましたね(笑)。帰国してから
──デビュー前にそうそうたる人たちと接点ができて、影響を受けたりはしたんですか?
ロンドンの家に
──いい人だなあ! どんなCDを買ってくれたんですか?
Wingsやニック・カーショウがありました。ニックの「The Riddle」という曲を聴いたときは、「木枯しに抱かれて」(歌:小泉今日子 / 作詞・作曲:
──しかし、その環境で暮らしながら音楽を聴くのがカセットとラジオのみってすごいですよね。
本当に貧しかったんですよ(笑)。とにかくボーカルトレーニングをして、ダンスを習って、夜はクラブに行って。
──その時代のロンドンのクラブカルチャーも体験しているわけですか。
行ってましたね。でも私が箱入り娘だったものだから夜に出歩いたことがなくて、最初は「え? 夜なのに出かけるんですか?」みたいな感じでした(笑)。
──夜が盛り上がるんですよ!(笑)
そんな調子だったので、マネジメントの方が「この子はしょうがねえなあ」と、日本人のお姉さんや先輩方を紹介してくれて。クラブに着て行くお洋服もケンジントンマーケットやカムデンマーケットで買って、ドクターマーチンを履いて、唇と爪を真っ赤に塗って行く、みたいな感じでしたね。
──87年から90年ぐらいにかけて、ちょうどクラブカルチャーが盛り上がっていく時期じゃないですか。
そうですね。「音楽の勉強をするにはクラブに行かなきゃダメだよ」と言われて、よく聴きに行っていました。
1年のお茶くみを経てデビュー、「やっと来たー!」
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藤井隆 @left_fujii
KAKOOさんの声が聞こえてくるインタビュー、さすが吉田豪さん。
ありがとうございました!KAKKO!GO! https://t.co/NgDhTRr1a4