2022年5月10日、AppleはiPod touchの在庫限りでの販売終了を発表した。
この10年弱、iPodシリーズはゆっくりと終わりに向かっていた。2014年にはiPod Classicが、2017年にはiPod NanoとiPod Shuffleが販売終了。機能面から言って、iPod touchは事実上iPhoneの廉価版のようなものだった(あるいは携帯ゲーム機としても親しまれた)から、音楽プレイヤーとして親しまれたiPodはすでに数年前に姿を消していたと言ってもいいかもしれない。とはいえ、2001年に登場し、世界に大きな文化的インパクトを残したこのガジェットがついに名前ごとカタログから消え去る。その事実には感じ入るものがある。本稿では、改めてiPodが音楽に与えた影響とその後について振り返りたい。
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iPodを振り返ることは、連動するソフトウェアやハードウェアを振り返ること
本題に入る前に注意したいのが、iPodを1つの自立したガジェットと捉えてしまうと、そのインパクトの大部分を見過ごすことになるということだ。WIREDが適切に指摘するように、iPodの躍進を支えたのは、このガジェットのローンチに先駆けてリリースされていたiTunesだった(※1)。
あの象徴的なスクロールホイールに代表されるミニマルなデザイン(Classic、mini、および第5世代までのnanoに継承された)や、大量のライブラリを気軽に持ち運べる便利さは確かにiPodの重要な特徴だったけれども、iTunesを経由したライブラリの同期や、あるいはiTunes Music Store(のち、iTunes Storeに改名。以下iTMS)による楽曲のダウンロード販売といったサービスが噛み合うことによって“iPodの時代”は10年以上にわたって隆盛を極めたのだ。
そもそも、iPodがなぜ「ポッド」なのか?といえば、Macをハブとして音楽を持ち歩ける携帯プレイヤーというプロダクトの特徴を、宇宙船の離脱部(=ポッド)になぞらえたからだ(※2)。 iMacやiMovie、iPhone等々、小文字のiを冠するAppleのプロダクトは、この接頭辞を除けば読んで字の如く、自身の説明になっている(iMacはMacそのものだし、iMovieは映像編集ソフト、iPhoneは電話、iTunesは楽曲管理ソフトだ)。一方でiPodは、字面だけ見たところで携帯音楽プレイヤーだとすぐにはわからない。しかし、その爆発的な流行をもって、iPodといえばウォークマンと並ぶ携帯音楽プレイヤーのシノニムとして君臨するほどの認知度に達することになる (余談だが、ここ数年その人気が再燃しているポッドキャストも、もとはと言えばiPodとbroadcastのかばん語だ。歴史的な経緯を説明する場合を除けば、ポッドキャストを語る際にそれを意識する人はもはや少ないのではないか)。
というわけで、iPodを振り返ること、それすなわちiPodと連動するソフトウェアやハードウェアを振り返ることでもある。
アルバムに対するアンチテーゼ、シャッフル機能がもたらした「セレンディピティ」
前置きが長くなってしまった。
2015年、プリンスが第57回グラミー賞で最優秀アルバム賞のプレゼンターを務めたとき、こんなことを言ってのけた。「アルバム。覚えてます? アルバムは今なお大事なものです。アルバムは、本や黒人たちの命と同じように、重要なんです」(※3)。 当時大きなうねりとなっていたBlack Lives Matter運動をもじりながらアルバムの重要性を説くひと言だ。
アルバムという形式は、半世紀ほどにわたり音楽作品にとって特別な意味を持ち続けた。シングルよりも単価も利益率も高く、1曲では伝えきれないストーリーやコンセプトを伝えることができるアルバムは、レコード会社にとってもアーティストにとっても重要な商品であり、表現の機会だった。
しかし、プリンスがわざわざ「大事だ」と言いたくなる程度には、アルバムなるものの意義は揺らいでいた。その要因と言い得る物事は数え切れないほどある。例えば、当時成長を続けていたストリーミングプラットフォーム。Spotifyはすでにシェアを伸ばしていたし、プリンスがアルバムの意義を訴えた同年、AppleもApple Musicをローンチする。だが、少なくともiPodが――あるいはiPodを代表とする、2000年代にAppleの作り出したエコシステムが――その流れを著しく加速させた1つであることは間違いないだろう。
例えば、iTMS。当時インターネットを介した音楽配信サービスはいまだ黎明期で決定打となるサービスに欠いていたが、充実したカタログと利便性、そしてiPodとの容易な連携にも助けられ、大きなシェアを獲得した。そこで目を引いたのが、1曲99セントという破格の値段(サービス開始当時、アメリカにて)で、シングルに限らずアルバムの中の好きな曲だけダウンロード購入できる単曲販売のシステムだ。もはやリスナー=消費者はアルバムという売り方に従う必要はなくなった。
しかし、「ナップスターは音楽の流通を破壊したが、iPodが破壊をもたらしたのは音楽の聴き方だった」(※4)と音楽産業を専門とするコンサルタントの榎本幹朗氏が指摘しているように、アルバムに対するもっともラジカルなアンチテーゼとなったのは、iPodのシャッフル機能だろう。榎本氏はシャッフルのもたらしたものを「セレンディピティ」というキーワードで簡潔にまとめている(※5)。自分が所有する膨大なライブラリをシャッフルさせることで、アルバムという統一的な経験とは異なる「偶然の出会い」が生じる、ということだ。もともとプレイヤーのいち機能に過ぎなかったシャッフルだが、ユーザーからの人気は強く、また2005年にはiPod Shuffleというシャッフル専用機まで登場することになる。
さらにITジャーナリストのスティーブン・レヴィはシャッフルを「iPodがメディアに与えた衝撃を象徴し、またデジタル革命が指し示す方向性を体現している」と断言し、音楽にとどまらない文化的な“革命”の象徴とまで言い切っている(※6)。その口ぶりはいかにも2000年代的な、問題含みながら楽観的なテクノロジー論といったところだが、実際シャッフルの与えた影響は見過ごせないほどに大きい。
「ポスト・ノイズ 越境するサウンド」なる特集を組んだ雑誌「ユリイカ」2005年3月号には、
音楽批評家のアレックス・ロスも、クラシック音楽へのアンビバレントな思いと提言を詰め込んだ「これを聴け」というコラムの中で、シャッフルが「私の音楽の聴き方を変えた」とつづっている。いわく、「iPodにおいて音楽は、あらゆる無意味な自己規定や重要性という間違った信念から解き放たれる」のだという(※8)。ロスの話が面白いのは、続けてこう述べて、ジャンルが無効になる未来、いわば「ポスト・ジャンル」的な展望を述べていることだ。
多くの若い聴き手はiPodが考えるように考えているように見える。彼らはひとつのジャンルに、つまり自らの存在を形成したり世界を救済することを約束するジャンルに、もはやそれほど入れ込んではいない(※9)。
あるいはレヴィも引用している、ニューヨーク・タイムズによる2005年の野外音楽フェス「Coachella Valley Music and Arts Festival」のレポートでは、リスナーの間でジャンルごとのいわゆるタコツボ化、島宇宙化が進んでいた状況に対するオルタナティブを、同年初めに発売されたばかりのiPod Shuffle(と、そのキャッチコピー”Life is random.”)を引き合いに出して論じている。いわく、その年のコーチェラは“Shuffler's Delight”、すなわち「シャッフルリスナーの大好物」だという(※10)。いろんなジャンルを、その垣根を気にすることなくつまみ食いするみたいに楽しむ。シャッフルはそんな感性の代名詞となっているわけだ。
もっとも、アーカイブの充実とアクセシビリティの改善が越境的でフラットな感性を育む、という議論はテクノロジーに革新が起こるたびに繰り返されるクリシェではあるし、巨大フェスのジャンル横断化とiPodの間に因果関係があるとも思えない。そもそも、そうした越境性が本当に存在したと言えたかも検証する必要があろう。もっと慎重に言うならば、2000年代にはそうしたいつの時代も変わらない「新しい」価値観が、iPod、というかシャッフルに託されていた、というところか(もちろん、2010年代にはそれがサブスクになる)。
それに、先に書いたように、iTMSの単曲配信は“膨大なライブラリをシャッフルする”快楽よりも、“欲しい曲だけ手に入れる”欲求を満たすものでもある。どちらも「アルバム」という形式に問いを投げかける行動のあり方だけれども、いわば両極だ。日本では「着うたフル」という単曲配信が2000年代中盤~後半に数多くのミリオンヒットを送り出したことが思い起こされる。ガラケーの限られたメモリでは、iPodのようなシャッフル体験を実現することは難しいし、単価の高さという壁もある。本稿ではシャッフルに焦点を当てているが、実際はユーザー層や地域の違いによって見える景色も違ってくる。
限界のあるシャッフルに取って代わられたもの
showgunn @showgunn
iPodの登場は人々の聴取体験をどう変えたのか https://t.co/KLjrKmMxuc