活動50周年を経た今なお、日本のみならず海外でも熱烈な支持を集め、改めてその音楽が注目されている
ゼミ生として参加しているのは、氏を敬愛してやまない安部勇磨(
取材
歌謡曲に囲まれて生まれ育った細野晴臣
──今回のテーマは歌謡曲です。そもそも歌謡曲といっても、捉え方によって各々イメージするものが違うと思うのですが。ちなみにWikipediaによると「歌謡曲とは昭和時代に流行した日本のポピュラー音楽の総称である」とのことです。皆さんは、歌謡曲という言葉からどんなイメージを思い浮かべますか?
ハマ・オカモト なんとなく1980年代いっぱいまでのヒット曲、みたいなイメージですね。僕らが物心付いた頃には、もう歌謡曲という言葉はあまり使われていなかったような気がします。あと歌謡曲には、レコードの時代の音楽というイメージもあって。80年代後半くらいからだんだんCDが主流になってきて、その時代のヒット曲はあまり歌謡曲という感じがしない。僕の中では、7inchシングルで発売されたような曲が歌謡曲というイメージがあります。
──安部さんは?
安部勇磨 メロディが人懐っこいというか。生まれる前の曲なのに、なぜか懐かしいと思ってしまうような。歌謡曲って、僕の中ではそういうイメージです。
──では細野さんの中で歌謡曲はどのようなものなのでしょうか?
細野晴臣 僕は歌謡曲に囲まれて生まれ育った世代ですから。街を歩くと、理髪店とかいろんな店で歌謡曲が流れていたりして。自分では買わないけど、しょっちゅう流れてたから覚えちゃうのね。僕が子供の頃は春日八郎の「お富さん」とか大流行してた。
ハマ “流行歌”っていう言い方もあるじゃないですか?
細野 そうそう。当時、歌謡曲とは、あまり言わなかった。
ハマ やっぱりそうなんですね。
細野 そもそも歌謡曲以前、戦後に
ハマ それはカバーですか?
細野 そう、カバー。江利チエミはデビュー作が「Tennessee Waltz」とか、そこらへんね。ドキュメンタリーをYouTubeで観たら、すごく面白かったよ。
ハマ 江利さんは「Tennessee Waltz」でデビューしてるんですね。デビュー曲が洋楽のカバーって面白い。
細野 笠置シヅ子が歌っていたのは服部良一が手がけた和製ポップスなんだけど、わかりやすく言うとブギウギなんだよね。戦後の復興期はそういう曲が一世を風靡してたから、最初はやっぱり洋楽っぽかったね。
ハマ ブギウギとかが当時最先端の音楽だったということですよね。
細野 そうだね。で、笠置シヅ子とかの前には「リンゴの唄」という曲が流行って。マイナー調の叙情的な歌だったけど、それも子供の頃によく歌ったね。それから昭和20年代の後半あたりに、江利チエミ、雪村いづみ、
──なるほど。
細野 それに、作曲家で歌謡曲の流れが違ってくるというか。戦後の歌謡界を切り開いたのは服部良一だけど、その後、美空ひばりの一連の曲を書いた古賀政男が台頭してきて。
ハマ 古賀政男さんって聞いたことあります。
細野 あの人はギターを弾きながら作曲するんだけど、マイナー調の曲ばかり作ってたわけ。それが歌謡曲の原形かもしれない。あのマイナー調のメロディが。
洋楽の影響が強かった流行歌
ハマ 演歌とかの流れっていうのは?
細野 演歌っていうのは、意外と新しい言葉なんだよ。
安部 えっ、そうなんですか?
細野 うん。藤圭子が登場した、70年代初頭あたりから一般的に使われるようになった気がする。
安部 へえ! そうなんだ。
ハマ じゃあ、それまでは演歌的な曲も、普通に流行歌と呼ばれていたんですか?
細野 そう。ヒットしてる曲はすべて流行歌。
ハマ 流行歌の細分化が始まるのが、そういうタイミングだってことなんですね。
細野 あとは三橋美智也とか民謡系の流行歌手もいるし。でも日本の歌謡界は戦後しばらく米軍キャンプの存在が強かったんじゃないかな。江利チエミも雪村いづみも、みんな14、15歳から米軍キャンプで歌っているわけで。笠置シヅ子も米軍キャンプの兵隊たちの応援があったんだよ。レコーディングに兵隊たちが見学しに来たぐらいだから。米軍が東京から撤退するにつれて、流行歌が和風になっていった。
ハマ そうなんですね。
細野 僕はずっと洋楽しか聴いてなかったけど、心に残っている歌謡曲はいっぱいあるわけだよ。最近それを聴き直したりしてる。そうすると、再現ができない音楽っていう意味では、アメリカの40、50年代の音楽にも似てるんだよね。名曲がいっぱいあって。
ハマ 年代的には子供の頃ですか?
細野 昭和30年代かな……例えば橋幸夫とか、いいんだよね。「潮来笠」とか。曲のテーマは全然わかんないんだけどね(笑)。
ハマ ははは(笑)。当時の歌謡曲って演奏はジャズ畑の人たちなんですか?
細野 うん。素晴らしいんだよ、その演奏がなかなか。コロムビア・オーケストラとか。昔のほうが洋楽っぽかった。演歌も含めて。洋楽の影響が強いんだよね。
新しい装いをしているようで中身はフォーク
安部 でも、歌謡曲より演歌という言葉があとに生まれたというのは面白いですね。
ハマ それこそシティポップとかもそうじゃん。流行り始めた頃は「シティポップ」という言葉はなかったわけで、やっぱり後付けというか。
細野 シティポップの前にフォークがあったでしょ? そういえばフォークが歌謡曲の代わりになってきた時代があったね。
ハマ 70年代くらいですかね。
細野 かぐや姫とかアリスとか。そのあたりの人たちが、その後、歌謡界の中枢を担うようになっていく。谷村新司さんなんて歌謡曲以上に歌謡曲だから(笑)。
ハマ 確かに(笑)。谷村さん、歌謡曲の塊みたいな方ですよね。
細野 実は今の時代の音楽も一見新しい装いをしているようで、中身はフォークだったりするから。
一同 ああー。
細野晴臣の初歌謡曲仕事は
──細野さんもこれまで多くの歌謡曲のお仕事をされてきたと思いますが、最初のお仕事は覚えていらっしゃいますか?
細野 最初は和田アキ子さんだね。シングル用に曲を書いて。
ハマ 「見えない世界」(1975年)ですか?
細野 そう。よく知ってるなあ(笑)。
ハマ めっちゃカッコいいですよね、あの曲。
細野 作曲を頼まれたのはいいんだけど、全然書けなくて、高校生の頃に考えたメロディを仕方なく使っちゃったんだよね(笑)。
安部 それがそのまま採用されたんですか?
細野 うん。「大丈夫かな……」とか思いながら(笑)。
ハマ すごいですね(笑)。先方から何かオーダーはあったんですか?
細野 あったね。
ハマ こういう感じにしてください、みたいな?
細野 それはちょっと覚えてないけど。難しかったね。やったことなかったから(笑)。
安部 でも一応は、やってみようと思ったんですね。
細野 うん。やっぱり頼まれると断れないっていうか(笑)。
ハマ 今思えば、細野さんにお仕事を振った人、すごいですね。当時の和田アキ子さんのシングルで、「細野晴臣に作曲をお願いしよう」っていう話になったわけですもんね。
細野晴臣 Haruomi Hosono _information @hosonoharuomi_
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