「プロテストソング」と言えば、あなたはどんな曲を思い浮かべるだろうか。反戦、政治批判、差別問題、反原発、いじめ、貧困……あらゆる政治的抗議のメッセージを含む歌がプロテストソングと呼ばれるものだ。
新型コロナウイルスのパンデミックにより世界中が外出自粛を余儀なくされる状況の中、杏による加川良の「教訓I」の弾き語りカバーが話題を集めたり、安倍晋三首相が星野源が発表した「うちで踊ろう」と共に優雅に自宅で過ごす姿を公開したことで「音楽の政治利用である」という批判が多く寄せられたりと、改めて“音楽と政治”が注目される今。時代と共に歌われるメッセージも音楽性も異なるプロテストソングは、日本においてどんなきっかけ生まれ、広がってきたのか。小野島大によるこの連載では、フォークソング、ポップス、ロック、ヒップホップなどさまざまなジャンルにおけるプロテストソングの歴史を、時事問題を交えながら計3回にわたって紹介している。第2回では1980年代から90年代にかけてのプロテストソングをフィーチャーする。
なお記事の最後には、小野島大が制作したSpotifyプレイリスト「プロテストソングの歴史」も公開する。
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アナーキーやTHE STALINが80年代に踏み込んだタブー
フォークからニューミュージックへと時代のトレンドが変わり、1970年代以降の日本のポップミュージックからは抗議や抵抗、つまりはカウンターカルチャーとしての匂いは消えていく。そんな中、唐突に現れたのが旧来のロックへの牙を剥き出しにしたパンクロックのムーブメントだった。The Clashの「White Riot(邦題:白い暴動)」(77年発表)をはじめ海外ではプロテストソングの名曲を数多く生んだパンクロックだが、日本においてはさほどでもなかった。頭脳警察のような存在を例外として、グループサウンズ以降の日本のロックは不良の音楽としての“反抗”はあっても、政治性や思想性をはらんだプロテストとは無縁だったのである。
その中で、まず挙げられるプロテストソングは、アナーキーの「東京イズバーニング」(80年発表)と
チェルノブイリ原発事故後にTHE BLUE HEARTSやRCサクセションが生み出した反原発ソング
そんなある意味でぬるま湯的な状況だった日本のポップミュージックに大きな衝撃を与えたのが、86年に起きたチェルノブイリ原発事故である。世界で唯一の被爆国でありながら、有数の原発大国である日本に住む我々も、明日にも起こりうるメルトダウンの恐怖に直面した。それ以前の84年から「音楽を通じて反核・脱原発を訴えていく」をテーマにした「アトミック・カフェ・フェスティバル」が開催され、尾崎豊、BOOWY、
作者の真島昌利らしい気取りのない率直な口調で、原発の“いやな感じ”を歌うTHE BLUE HEARTSの「チェルノブイリ」(88年発表)、
しかしにわかに盛り上がったこのムーブメントは、たちまち社会の壁にぶち当たった。THE BLUE HEARTSの曲は所属レーベルのメルダックからリリースできず、彼らの所属事務所が設立したインディレーベルから発表された。メルダックの親会社が原発企業の三菱電機だったため、発売許可が下りなかったとのちに元所属事務所の社長が明らかにしている。そしてその直前にはRCの「サマータイム・ブルース」「ラヴ・ミー・テンダー」などを収録したカバーアルバム「COVERS」が「素晴らしすぎて発売できません」という新聞広告と共に突然発売中止になる騒ぎとなった。発売元だった東芝EMIの親会社がやはり原発企業の東芝で、発売許可が下りなかったのである(東芝は連載第1回記事の通り、ザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」を同様に発売中止にした前科がある)。原発事故という出来事をきっかけに、新たなタブーが可視化してアーティストの目の前に立ちはだかったのだ。
忌野清志郎の気骨とTHE TIMERS結成
しかし、忌野清志郎の反骨精神はこれで収まらない。「COVERS」発表と同年の88年に覆面バンド、THE TIMERSを結成。全編ほとんどプロテストソングからなるアルバム「THE TIMERS」を89年に発表する。さらに盟友THE TEARDROPSに提供した楽曲「谷間のうた -素敵な泉-」が某FM局で放送禁止となったことに抗議し、テレビの生番組で放送禁止用語を連発するなど大暴れ。その後も日本を代表するレベルロッカーとして、ユーモアを交えた大らかな批判精神が失われることはなかった。なおRCの「COVERS」は、のちに古巣のキティレコードから発売されている。
一方THE BLUE HEARTSは、「チェルノブイリ」以降、直接的なプロテストソングや社会性を帯びた歌を歌うことはなくなった。だが、その後甲本ヒロトと真島昌利が結成した
80年代には日本でもヒップホップカルチャーが生まれたが、その時代の代表的なプロテストソング(今ではコンシャスラップあるいはポリティカルラップと言われる)は、
1990年代を代表する「満月の夕」「傷痍軍人の唄」
90年代に入ると、空前のバンドブームに沸く音楽シーンとは裏腹に、再びプロテストソングは沈静化していく。その中で重要なのは
95年に起きた阪神・淡路大震災の直後から被災地を回り演奏する慰問活動をしていたソウル・フラワー・ユニオン(ソウル・フラワー・モノノケ・サミット)が、被災地の情景やそこに住む人々の思いを歌った名曲「満月の夕」。この曲自体は強いプロテストを含む内容ではないが、「人災としての阪神・淡路大震災」と規定するなど社会派ロックバンドと言われ、反原発、反レイシズムなど政治的・社会的発言や運動への参加を厭わず、東ティモール、パレスチナ、辺野古などの現場で歌い、ロック、ソウルやファンクのほかに世界中の民俗音楽や民謡、大衆歌謡などをミクスチャーした独自の音楽性を追求してきたソウル・フラワー・ユニオンの集大成とも言える作品で、彼ら自身も含むさまざまなアーティストが歌い継ぐスタンダードとして定着している。バンドはその後もチリのシンガーソングライターのビクトル・ハラの反戦歌「平和に生きる権利」を日本語でカバーしたり、2004年にはオリジナルの反戦歌「極東戦線異状なし!?」を発表したり、2013年には理不尽な状況を前に受動的ではなく主体性を取り戻せと歌う「踊れ!踊らされる前に」を発表するなど、精力的に活動を続けている。
また在日韓国人二世のシンガーソングライター朴保&切狂言が歌う「傷痍軍人の歌」も90年代の日本を代表するプロテストソングと言えるだろう。「傷痍軍人 従軍慰安婦 松代大本営 誰のために死んだのか 戦争は本当に終わったのか」という問いかけで、戦争という国家犯罪を容赦なく弾劾していく朴保の叫びはあまりに衝撃的だ。さらに90年代以降を代表するグループ
ラップシーンおいてプロテストソングを歌い続けたECD
一方、ラップシーンでは
現在のラップシーンに直結するという意味でキングギドラ(現
近日公開の第3回では、「アメリカ同時多発テロ事件から東日本大震災、そしてこれから」をテーマに2000年代から現在にかけてのプロテストソングについて記す。
<つづく>
※「BOOWY」の2つ目の「O」はストローク記号付きが正式表記。
※記事初出時、リード文に一部誤りがありました。訂正してお詫びいたします。
- 小野島大
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音楽評論家。9年間のサラリーマン生活、音楽ミニコミ編集を経てフリーに。「MUSIC MAGAZINE」「ROCKIN'ON」「週刊SPA」などのほか、新聞やWebなどさまざまな媒体で執筆活動を行っている。著作も多数。
ANTIFA大阪 @antifa_osk
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