名物イベント「Jazzin'」始動
──一方で松浦さんのDJとしての活動はいかがだったんでしょうか。
91年に芝浦のGOLDの2階でラファエルがレギュラーDJを始めました。そして僕がサポートで入りました。当時は3階でEMMAくんがハウスを回していて、2階のバーエリアで僕らがジャズをかけてました。2階は人が通り抜ける通路みたいな場所だったので、決してメインのような扱いではなかったです。でも、徐々に盛り上がってきて2階を目的に来る人も増え始めたんです。僕が手伝いに行くようになって、イベント名が必要だよねという話になって、「Jazzin'」という名前を付けました。そこからフロアもメインの3階に移っていきました。
──「Jazzin'」にはダンサーも入ってたんですか?
ダンサーもいました。GOLDのときは先ほど話題に挙がったジョニーに手伝ってもらっていました。91年12月に西麻布にYELLOWというクラブがオープンしたんですけど、そのタイミングで「Jazzin'」もYELLOWに移って。SAMさんと初めて会ったのもYELLOWだったと思います。
──その頃はどんな選曲をしていたのでしょうか?
いろんな人が集まっていたので、「どうやったらピュアなアフロキューバンジャズとかで踊らせることができるか?」ということを学ぶ場所としてGOLDは大きかったです。ジャズヒップホップのあとに、その元ネタのジャズをかけて流れで踊らせるとか、グラウンドビートに混ぜてジャズをかけるとか。
──クラブジャズパーティの先駆けともいわれる「Jazzin'」でさえも、ジャズで踊りに来ていた人に向けてジャズをかけていたわけではなくて、どうやってジャズを入れていくかを試す実験的な場だったということですね。
そうですね。まずお客さんを踊らせないとジャズをかけられないから、そのためにダンサブルな曲をかけて流れを作ったり。そんな感じで常に試行錯誤していました。ジャズのかけ方も含めてスタイルを模索したので、そこから独自のスタイルが生まれたと思います。
──クラブ界隈で活動する中で、国内のほかのシーンからDJとして声がかかったりはしなかったんですか? 時期的にも渋谷系周辺のアーティストとの接点があってもおかしくはないですが。
当時、渋谷系と呼ばれていたアーティストだとORIGINAL LOVEですね。初期のORIGINAL LOVEは井出靖さんがプロデュースを手がけていたので、彼が接点になっていました。井出さんは僕らや小林径さん、荏開津広さんといったDJをまとめて、渋谷CLUB QUATTOROでイベントをやったりしていましたから。
──井出さんが違う島をつないでいたと。
そうですね。
──同時期にアシッドジャズが盛り上がっていたこともあって、渋谷系とジャズって、なんとなく接点があったように語られますけど、実は渋谷系の中にジャズの要素はあまりないですよね。渋谷系の中にあるジャズって、スウィングジャズとかで、ジャズダンスやレアグルーヴの要素は実はあまり入っていない気がするんです。
そうかもしれないです。当時U.F.O.は渋谷系周辺のアーティストとして紹介されることが多かったのですが、僕らは渋谷系というカテゴリー括られるのがあまり好きじゃなかったんですよ。アシッドジャズと括られるのも嫌だったんですけどね。
──U.F.O.の音楽の独自性を語るうえでは、ブラジル音楽からの影響も重要じゃないかと思います。
そうですね。ブラジル音楽に関しては井出さんが早かったんですよ。井出さんは当時ご自身でやられていたFANTASTICAというお店で、いち早くブラジル音楽のレコードを仕入れていましたから。井出さんの先見の明はすごいなと思います。井出さんがFANTASTICAを開店したのは、ORIGINAL LOVEのプロデューサーをやめて、小沢健二さんのプロデューサーをやり始めたあたりの93、94年くらいでした。
──94年にジャイルス・ピーターソンが「Brazilica!」や「Brasil - Escola Do Jazz」といったコンピレーションを出して、その頃からクラブカルチャーの周辺でブラジル音楽が話題になる機会が一気に増えました。松浦さんはブラジル音楽にはどういうタイミングで入りましたか?
92年だった気がしますけど、ロンドンに行ったときに、ジャイルス・ピーターソンがジョイスとかブラジル音楽をかけてたんですよ。それで1000人クラスのお客さんが踊ってて、すごいなと思いました。ちなみに93年にリリースしたU.F.O.の1stアルバムではエルメート・パスコアールをサンプリングしました。まだ情報としては東京にはそんなに届いていなかったと思うんですよ。井出さんが扱い始めた頃は、今みたいにブラジル音楽のレコードが高価ではなく、まだ3800円とか4800円くらいだったので日本でもけっこう買えたんですよ。
──渋谷系とブラジル音楽の接点でいうと、小西康陽さんだったらQuarteto em Cyみたいなソフトロックとも通じるものや、A&M系のボサノヴァのイメージがあります。
僕らはそこはプレイする楽曲としてはスルーしてましたね。
──ですよね。同じブラジル音楽でもU.F.O.はプログレッシブな方面のイメージです。
A&M系だと小西さんだけじゃなくて橋本徹さんが「Suburbia Suite」でやっていたので、自分たちでそれをやらなくてもいいかなと思ってたし、僕らはもっとアヴァンギャルドなものが好きだったんですよ。価値基準としてカッコいいかどうかという感じで、エルメート・パスコアール、エグベルト・ジスモンチ、ナナ・ヴァスコンセロスあたりが好きでした。
似非ではないカッコよさを求めて
──バンドとの関係についても伺いたいんですが、「Jazzin'」にはCOOL SPOONみたいな和製アシッドジャズバンドも出てました。
その頃はMONDO GROSSOとも対バンしましたね。正確には覚えてないけど、ファイルレコードつながりかもしれません。みんなが積極的に動いていた時代だったので「自分はこういうバンドをやっていて」という感じで音源を持ってきて、「聴いてください」みたいなことが盛んだったんですよ。その中からピックアップした人は多かったですね。
──ミュージシャンとの密なつながりみたいなものもそうですし、当時親交のあったMONDO GROSSOやCOOL SPOON経由で渋谷系のバンドとつながったりはしなかったんですか?
ないですね。僕らは日々U.F.O.だけで完結していた気がします。それだけでいっぱいいっぱいだったというか(笑)。
──では、Crue-L Records周辺はどうですか?
現場があまり一緒にはならなかったですね。Crue-L Records周辺でいえばWACK WACK RHYTHM BANDの山下洋くんには「Jazzin'」でライブをやってもらったりしましたけど。そこはコミュニティの違いがあったのかもしれないです。
──「Jazzin'」の規模もそれなりだったし、その中で新しいことができていて、外に何かを求める必要がなかったというのもあったのかもしれないですね。
当時の僕らは一生懸命カッコつけていたんですよ。似非じゃなくて本気のカッコよさを常に模索していた。インターネットもなかったですし、欲しい情報が雑誌に出ているわけでもないから、あらゆるものを自分たちで作っていくしかなかった。それぞれが理想の音楽や場所を作るために切磋琢磨して、お互いに影響を与え合っていたと思います。当時のU.F.O.はそのバランスが絶妙に取れていたのかもしれないですね。
──では最後に渋谷系のゴールデンエラと言われる90年代初頭~中旬を振り返ると、どんな思いがありますか?
すでにバブル経済の終焉は迎えようとしながらも、音楽を含めたカルチャーはまだまだ勢いがありました。若い人たちの、新しいもの、そして過去の作品など未知のものに対する好奇心が高かったこともあり、さまざまなクリエイティブでクオリティの高いものが街にあふれていて、それらを日常的に目にし、耳にすることができた時代だったと思います。そして作り手もそれに刺激を受け、また後押しされる形で世界という“外”も視野に入れ創作し、活動してんだと思います。
松浦俊夫
1990年、矢部直、ラファエル・セバーグと共にDJユニットUnited Future Organization (U.F.O.)を結成。5作のフルアルバムを世界32カ国で発表し高い評価を得る。2002年のソロ転向後も国内外のクラブやフェスティバルでDJとして活躍。イベントのプロデュースやファッションブランドなどの音楽監修も手がける。2013年に現在進行形のジャズを発信するプロジェクトHEXを始動させ、Blue Note Recordsからアルバム「HEX」をリリース。2018年、イギリスの若手ミュージシャンらをフィーチャーした新プロジェクト、
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- 柳樂光隆
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1979年、島根県出雲生まれ。音楽評論家。21世紀以降のジャズをまとめた世界初のジャズ本「Jazz The New Chapter」シリーズ監修者。共著に後藤雅洋、村井康司との鼎談集『100年のジャズを聴く』などがある。
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