渋谷系を掘り下げる Vol.2 [バックナンバー]
多くの才能を輩出したネオGSシーン
小西康陽、田島貴男らが集った80年代後半のインディームーブメントを検証
2019年11月20日 20:00 66
もう1人の重要人物・高護
そんな
「小西さんはB級GSだろうが洋楽のカバーだろうが面白いものは面白いという感じでファントムのことを評価してくれていたんです。そして、もう1人の重要人物が、のちに僕らのマネジメントをしてくれることになる高護さん。高さんは当時、GSや歌謡曲をマニアックに掘り下げる『季刊リメンバー』という雑誌を刊行していたんですけど、僕は『季刊リメンバー』を愛読していて、GSや洋楽をボーダーレスに聴く感覚を身に付けていたんです。だから、ライブを観に来てくれた小西さんと会って話をしたときに『ああ、僕と同じような感覚の人っているんだな』と思えたんです。小西さんと僕は同世代なんですけど(小西が1歳年上)、今思えば時代やジャンルを超えて純粋にいい音楽を評価するという、あのボーダーレスな感覚が、のちの渋谷系につながっていくような感じもありますね。小西さんは『ネオGSはパンクムーブメントに匹敵する日本初のインディーズシーンではないか』とおっしゃっていて。2003年にファントムが未発表音源集(『ザ・ファントムギフトの奇跡』)を出したときにもそういうことをコメントで書いてくださっていました」
2枚の自主製作シングルを発表したのちザ・ファントムギフトがリリースした4曲入りコンパクト盤「魔法のタンバリン」(1987年)の制作に携わったのがソリッドレコード / SFC音楽出版を運営していた高で、彼と親交の深い小西が「僕がレーベルを紹介する」と声をかけてつないだのがミディレコードだった。ザ・ファントムギフトの躍進の影には、そんな要人たちのバックアップがあったということだ。
「小西さんはサウンドプロデューサーというより、正確に言えば、スーパーバイザー的な立場でアルバムの制作に関わってくれたんです。僕らがスタジオで、ああでもないこうでもないといった感じで音を出してるときに、小西さんが的確なアドバイスをしてくれたり。ある意味、バンドのまとめ役みたいな感じでしたね。小西さんといえば、ヒッピー・ヒッピー・シェイクスのサミー中野さんを通じてデザイナーの信藤三雄さんと知り合ったのもこの頃です。信藤さんがギタリスト兼リーダーを務めていたスクーターズもネオGSと近いところにいたバンドで。僕が知り合った頃には、もうユーミンのジャケットのデザインとかも手がけていて、すごい人なんだなと思った記憶があります。その信藤さんが、のちにピチカート・ファイヴやフリッパーズ・ギターなど渋谷系と呼ばれるアーティストたちのアートワークを多数手がけるようになるわけで……そう考えると面白いですね」
キーワードは「60年代音楽再評価」
一方で、久保田はネオGSシーンの周辺で次々と活動を始めていた同世代のバンドたちとの“共闘”が、渋谷系への胎動を加速させたのではないかと分析する。例えば、東京発のネオモッズを標榜していた
「ネオGSシーン界隈で活動していたバンドはだいたいみんな60年代の音楽に影響を受けていました。僕らはガレージロック、ワウ・ワウ・ヒッピーズの木暮くん、白根くんやレッド・カーテンの田島くんはサイケ、THE COLLECTORSの加藤くんはモッズとか、それぞれ嗜好性は異なりましたけど、自分たちのサウンドを追求するうえで60年代の音楽を参照していたという点では共通していました。60年代の音楽を再評価するという動きは、XTCとかThe Dukes Of Stratosphear(アンディ・パートリッジを中心としたXTCの変名バンド)あたりの存在が大きかったのかなと思います」
1987年、そうした動きを象徴するような作品がリリースされる。MINT SOUND RECORDSが発表したオムニバスアルバム「ATTACK OF...MUSHROOM PEOPLE」だ。そこにはザ・ファントムギフト、ヒッピー・ヒッピー・シェイクス、THE COLLECTORS、ワウ・ワウ・ヒッピーズ、レッド・カーテン、ザ・ストライクスといったネオGSシーン界隈のバンドが総結集していた。
「ファントムってモッズ方面とは交流がなかったんですよ。そんな中で加藤くんは音楽的な間口が広かったのでTHE COLLECTORSとはよく対バンするようになって。あと、モッズシーンで活動していたザ・ロンドン・タイムスの片岡健一くんが“脱モッズ”みたいな感じで新たなアクションを起こそうとしていて、三多摩地区を中心に活動していたファントムを新宿JAMとかでやるイベントに誘ってくれたのも大きかったと思います。そのあたりから、『ATTACK OF...MUSHROOM PEOPLE』に参加しているような、いろんなバンドとつながりが生まれるようになって。そういえば、真城めぐみさんがやっていた女性3人組のコーラスグループ、ペイズリー・ブルーのバックをファントムのメンバーで務めたこともありましたね」
その真城めぐみは、ワウ・ワウ・ヒッピーズの木暮、高桑、白根、ザ・ハワイズの中森泰弘、そしてネオGSシーンの周辺にいた片寄明人と、のちにロッテンハッツで合流。そこから枝分かれした
お手本は筒美京平?
そして、さらに「渋谷系のお手本になっていたのは筒美京平だったのではないか?」と久保田は話す。筒美京平は主に1960~80年代にかけて歌謡曲のフィールドをメインに膨大な数のヒット曲を手がけた作曲家 / アレンジャーだが、90年代に入ると筒美の作品をまとめたボックスセットがリリースされるなど急速に再評価が進んでいく。ストリングスを生かしたきらびやかなアレンジ、都会的で洒落たメロディやコード進行、歌謡曲なのに体を揺らせて踊らせることもできるグルーヴィな音作り。小沢健二と筒美が共作した「強い気持ち・強い愛」などはあの時代の筒美京平再評価を象徴する1曲だ。
「結局、渋谷系的な音楽の在り方に共通しているのって筒美京平さんの仕事なのかなと思うんです。最先端の洋楽の要素を時代ごとに引用しながら、日本の新たなポップミュージックを作り出すというようなスタイルですよね。そういった和洋折衷的なセンスが90年代に入って花開いたのが渋谷系だったんじゃないですかね。京平さんがやっていたようなことを当時体現していたのが、まさに小西さんや田島くんだった。ファントムは青木くんが抜けるような形で終わっちゃいましたけど、小西さんや田島くんのようにその後もずっと活躍していく人がいたことが、ネオGS界隈と渋谷系がつながることになった大きな理由なのかもしれないです。あとはやっぱり高護さんというキーパーソンの存在も改めて大きいなと思います」
柔軟でハイブリッドな音楽の聴き方を提案していた小西と高という核となる重要人物の働きが、渋谷系という音楽誕生の背景の1つになったのは揺るぎない事実だろう。その礎の1つがネオGSだった。同じように当時の東京のインディーシーンで60年代の音楽の影響を受けたガレージロック、サイケデリックロック、モッズ系のバンドたちのエネルギーが1つになり、来たる90年代の幕開けにバトンをつないだからこそ渋谷系という価値観がオーバーグラウンドで形になったのではないか、と。
今回の取材の最後に、サリー久保田にこんな質問をしてみた。「ところで、ネオGSという言葉はそもそも誰が名付けたものなのですか?」
「高護さんです。ファントムがミディから作品を出す頃に、THE COLLECTORSやザ・ストライクスといった同じように60年代の音楽に影響されたバンドが出てきていたから、このムーブメントを適切に言い表すようなジャンルみたいなものを考えようということになって。そこで、高さんが『ネオGSってどうかな?』って(笑)。THE COLLECTORSの加藤くんが『俺たちはネオGSじゃない、ネオモッズだ』って当時怒っていたのも無理はなかったと思いますよ(笑)。出てきた背景も違うし、ファンも少しずつ違っていましたから。でも、そう言いつつ加藤くんは僕らを好きでいてくれたと思うし、一緒にライブもよくやりました。音楽の方向性は違えど、どこかで互いに理解し合っていたと思います。そういう柔軟な姿勢が渋谷系の時代につながる、1つの大きなエネルギーになっていたんじゃないですかね」
サリー久保田
1980年代中盤よりネオGSバンド、ザ・ファントムギフトのベーシストとして活躍。バンド解散後はles 5-4-3-2-1、サリー・ソウル・シチュー、
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- 岡村詩野
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東京生まれ京都在住の音楽評論家。「岡村詩野音楽ライター講座」の講師や、京都精華大学ポピュラーカルチャー学部の非常勤講師を務めている。
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