伝説の「SHIBUYA RECOMMENDATION」
今も語り継がれているのが、太田氏が手がけた「SHIBUYA RECOMMENDATION」というコーナーだ。その後、渋谷系と呼ばれることになるアーティストのCDを輸入盤の紹介文のようなスタイルでレコメンド。今では当たり前になった“レコメン”を邦楽でいち早く取り入れ、予約カウンターには新譜情報と共にライブやクラブのフライヤーを置き、情報発信基地としての機能も充実させた。
「予約システムを始めたら、思っていた以上に反応がよく、たくさんの予約注文が入るようになったんですが、予約カウンターに女子高生がたむろすようになり、井上陽水を買いたいサラリーマンが困惑するような光景が見受けられたんです。店としては両方の売り上げを確保したいわけですから、ここは思い切ってユーザーを分けちゃおうと。それが93年の邦楽売り場拡大につながっていったんです。社内での根回しもしたつもりです」
店の現場に立ち、実務的な観点から客筋を捉えていたからこそ成し得た決断でもあった。そこにバイヤーとしての嗅覚が加わり、「SHIBUYA RECOMMENDATION」は、独自の展開を見せてゆく。
「それが洋楽担当者との対立を生むことになるんですが(笑)、Brand New HeaviesのCDを5枚くらい借りて、ORIGINAL LOVEの隣に並べたり、
邦楽に関連付けるように洋楽を並べた太田氏のエディトリアル感覚はレコード店でキャリアを重ねたことで培われたものだ。「洋楽が好きな人は、年齢を重ねても音楽を聴く」と考えていたのだ。
「邦楽ファンは自分の好きな歌手なりバンドに興味を失うと売り場から去って行ってしまう。僕としては、きっかけは邦楽でも、お客さんにずっと音楽を聴き続けるようになってほしいという気持ちがあったんですね。“渋谷系”のような洋楽の影響を受けた音楽を好きな層なら、その可能性は高いはずだと思ったんです」
フリッパーズ・ギターからネオアコやギターポップ、ORIGINAL LOVE経由でアシッドジャズやソウル、ピチカート・ファイヴの流れで映画音楽やソフトロックという具合に、リスナーが好きなアーティストのルーツや影響を受けた音楽を“掘る”または“探す”行為を楽しむようになるのもこの頃から。
「『DICTIONARY』で、U.F.O.の松浦俊夫さんが『ルパン三世』のベスト盤を取り上げていたのを見て、試しにU.F.O.の隣に置いてみたら、すぐに売れて。旧譜なのに累計1000枚は売れました。あれはうれしかったですね」
無名の新人ラヴ・タンバリンズの快挙
渋谷HMVが邦楽売り場を拡大したのは1993年3月。新しいマーケットを開拓すべく、従来の邦楽から独立する形で「SHIBUYA RECOMMENDATION」の売り場を確保。そのタイミングでデビューしたのが、Crue-L Recordsの新人、ラヴ・タンバリンズだった。このインディーズの無名のバンドが、B'zを抑えてHMV渋谷の邦楽チャートで初登場1位に輝いたことで、シーンは一気に注目を集める事態になってゆく。
「ラヴ・タンバリンズは、新宿JAMで行われたCOOL SPOONのライブの前座で初めて観たんですよ。小柄な女の子がソウルフルに歌っている姿がミニー・リパートンを思わせて僕もいっぺんで気に入っちゃって。瀧見憲司さんは踊り狂っているし(笑)、これはイケると直感しましたね」
91年に「BLOW-UP」でCrue-Lの洗礼を受けていた太田氏も、ここぞとばかりに勝負をかけた。
「いいアルバイトスタッフがいたこともツイてましたね。のちにラパレイユ・フォトというレーベルを主宰する梶野彰一くんなんですが、彼が瀧見さんを紹介してくれて、何度も説得してやっとCrue-Lの商品をHMVでも置けるようになった。ラヴタンが爆発的に売れたのは、そんな背景があったんです」
渋谷系という言葉が生まれたのもこの年だとされている。渋谷109の電光掲示板にHMV渋谷のチャートが映し出され、「ラヴなんちゃらって、誰だよ?」と話している若者を見て、してやったりとほくそ笑んでいた太田氏も“渋谷系の仕掛人”として注目され、取材のオファーが殺到した。
「渋谷系という言葉を最初に使ったのはセゾングループが発行していたタウン誌『apo』らしいですが、名称の是非はともかく、渋谷で何かが起きているとメディアが煽ったのは大きかったと思います」
HMV渋谷で1万枚売れた小沢健二の「LIFE」
元フリッパーズ・ギターの2人が満を持して動き出したことも拍車をかけた。7月に
「それまではHMV渋谷の邦楽の売り上げは全体の7、8%だったんですが、93年には20%近くまで伸びたんですよ」
1994年に入ると、小沢健二とスチャダラパーの「今夜はブギー・バック」が大ヒット。小沢健二は2ndアルバム「LIFE」で飛躍的にセールスを伸ばし、渋谷系にとどまらぬ幅広い支持を獲得してゆく。
「現場担当者として、1万枚売ったのはあとにも先にも『LIFE』だけでしたね。HMVの邦楽担当になった頃、銀座の山野楽器はドリカムを1万枚売るらしいと聞いて、それを目標にしていたので、自分なりの達成感はありました」
渋谷系という呼称が一般に広まると、店の売り上げはさらに上昇した。
「他店やほかの街でも同じ商品が買えるのにわざわざ渋谷に来て、HMVで予約したり買ってくれる人もいたんですよ。あの頃は新譜が出るたびに平台に商品をどう並べるかを考えるのが楽しくて、ディスプレイや特典にも力が入りましたね」
HMV渋谷は“渋谷系の総本山”になった。売り場をポップに彩る遊び心のあるディスプレイやそこで流れる音楽、最新の情報を入手できるフリーペーパーや雑誌。それらがファンを惹き付け、異様なまでの活気を生んでいた。まさに“渋谷系”狂騒曲時代と呼べる光景が確かにそこにはあった。
「店内イベントもいろいろ仕掛けましたが、一番大騒ぎになったのはスカパラでした。あれは『FANTASIA』(1994年)の頃だったかな。日曜日の午後の店が忙しいときに、急遽スカパラが来店して、メンバーが店内を歩き回りながらゲリラ的に演奏したことがあったんですよ。お客さんはどんどん店に入って来るわ、メンバーを追いかけ回すわでパニック寸前でした」
狂騒の終焉
レコード会社側からは「SHIBUYA RECOMMENDATION」コーナーへの売り込みも急増。「渋谷で売れるらしい」は、すでに「売れる」に変わっていた。マーケットが広がるにつれ、大人の戦略が入り込む隙も生まれたのだ。
「某バンドもブレイク前に熱心に売り込まれて、『いやいや、そのうちメジャーで大きく売れますよ』なんて偉そうなこと言ってたら、まんまとその通りになりましたけどね(笑)。レコード屋はテキ屋じゃないので、お客さんを店に呼ぶためにはその土地、その場所で求められるものを売っていかないといけない。その線引きは大事にしていました。ただ、渋谷系もオリコンチャートに入るようになると、王道に近付いていく感じはありました」
ブームになると、それに対する反発も生まれる。田島貴男の渋谷公会堂での「俺は渋谷系じゃない」という発言は、その象徴のように言われたが、実際にライブを目撃していた太田氏は、「自意識過剰かもしれないですけど、あのときは逃げ出したくなりましたね」と振り返る。
「今思えば、川勝正幸さんの名言『僕のORIGINAL LOVEから僕たちのORIGINAL LOVEへ』を生んだ過渡期でもあったんですよね。『LIFE』以降の小沢さんもそうでしたが、うちで推してきたアーティストに対して、僕の気持ちは『SHIBUYA RECOMMENDATION』のままでしたが、もう渋谷系という見出しは必要なくなったんですよ」
96年6月、本社異動が決まり、太田氏は渋谷から離れることになったが、太田氏がHMV渋谷の店頭にいた91年からの5年間こそ、渋谷系のゴールデンエラだったのではないかということだ。
「一番重要なことは、HMV渋谷でお薦めしていた渋谷系と呼ばれた人たちが今でも活躍されていることだと思います。そういう意味ではあの頃の自分は間違っていなかったのかなと。ただ、ここまでお話ししてきましたけど、自分自身も当時は、渋谷系という言葉は極力使わないようにしていましたけどね(笑)」
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- 佐野郷子
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ライター / エディター。1980年代から雑誌を中心によろず執筆 / 編集。98年からは編集プロダクションDo The Monkeyに所属。
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