日本の音楽史に爪痕を残すアーティストの功績をたどる本連載。今回は今から20年前に急逝した
文
プライベートスタジオ入手
1995年6月、フィッシュマンズはポリドール・レコードと契約。ちょうどスピッツを大ヒットさせ、邦楽部門のさらなる強化を狙っていた同社は、フィッシュマンズに“ネクスト・スピッツ”として期待をかけていたのかもしれない。スピッツとフィッシュマンズはメジャーデビュー前にしばしば対バンしており、当時は音楽性も近く、年齢も同じぐらいだったことから比較されることも多く、ファンも被っていたようだ。だが周囲の期待をよそに、フィッシュマンズは移籍を機に誰も予想しなかったすさまじい進化を遂げることになる。
移籍が決定し、新ディレクターとしてフィッシュマンズを担当することになった佐野敏也のもとをZAKが訪ねてきた。じっくり時間をかけてアルバムを作りたいのでスタジオを作りたい、その予算(スタジオの機材費、賃貸費など)を制作費のアドバンス(前渡し金)として渡してほしいという前代未聞の要求だった。当時の音楽産業は遅れてきたバブルに沸いていた。バンドブームはとうの昔に終わり、ライブハウスは閑古鳥が鳴いている状況だったが、CDの売り上げは右肩上がりに伸びていた。こんな無茶な要求でも受け入れる余裕があったのだ。2年間でアルバム3枚を作るという条件でフィッシュマンズは自分たちのプライベートスタジオを手に入れた。淡島通り沿いの小さな2階建てのビルを改造して作られた「ワイキキ・ビーチ~ハワイ・スタジオ」(正確には、建物全体の総称が「ワイキキ・ビーチ」、2Fのスタジオ部分が「ハワイ・スタジオ」、1Fのロビー部分が「ワイキキ・オーシャンビュー・ホテル」)だった。ちょうどPro ToolsなどDAWソフトが普及し始めた頃で、コンピュータを使った安価なデジタルレコーディングのシステムによって、個人のプライベートスタジオでもプロ並みのレコーディング環境が可能になり始めていた時期だったことも幸いした。高価なプロ用の貸しスタジオで、お金や時間の制約を気にしながら作るよりも、気が向いたときにスタジオに行き、1日中でもそこにいて、夜中だろうが明け方だろうが、いつでも好きなときにレコーディングできるという環境が手に入ったのである。
レーベル移籍の関係で半年間レコーディングできないという縛りがあり、メンバーには時間の余裕ができた。時間に追われる生活が嫌いな佐藤伸治(Vo)にとって“ヒマ”であることは何よりも大事なことだった。そのヒマな時間を使って佐藤は運転免許を取った。クルマを手にして、車窓から見る景色に佐藤は新たなインスピレーションを得た。そうしてできあがったのが名曲「ナイトクルージング」である。
曲作りは順調に進み、95年7月から新作アルバム「空中キャンプ」のリハーサルに突入。ところがこのタイミングで突然ハカセが(Key)バンドを脱退する。自分の音楽に専念したい、という理由だったようだが、ハカセがいることを前提として作られた楽曲は、当然ながら大きな軌道修正を迫られることになる。小嶋謙介(G)に続きハカセも脱退してバンドは5人編成から3人編成になってしまったが、レーベルを移籍し、自分たちのスタジオも手に入れ、前向きなやる気に満ちていた佐藤らには、マイナスをプラスにするような勢いがあった。ハカセの穴はHONZI(Violin, Key)、木暮晋也(G / ヒックスヴィル)などがサポートとして埋めた。
名曲「ナイトクルージング」完成
8月になってついにワイキキ・ビーチが完成。小さなスタジオゆえ制約もあった。大きな音が出せないので生のドラムは使えず、MIDIドラムを使ってレコーディングをせざるを得なかった。ギターやベースもアンプを使わないライン録音となった。3人そろってのレコーディングもできず、1人ずつ楽器をオーバーダビングしていくような態勢となった。バンドが一体となった迫力やダイナミズムを犠牲にしかねない制作態勢だったが、その分自由に音を差し替え加工することで、細かくデリケートで空間的な広がりを感じさせる音響的なサウンド作りが可能になった。言ってみれば“宅録”的な環境でロックバンドの音を作ったのである。それは当然、昔ながらの“ロック”とは違う位相のものとなった。今となってはそんなバンドや音源は珍しくもないが、フィッシュマンズがその先駆の1つとなったことは間違いない。
同年11月、シングル「ナイトクルージング」リリース。名刺代わりの移籍第1弾シングルとしては冒険と言える6分超えの大作。フィッシュマンズの変化、進化、深化を知らしめた名曲中の名曲である。「ORANGE」の延長線上にあるポップなフィッシュマンズを期待した人たちからは戸惑いの声も上がったが、この曲の完成こそが、フィッシュマンズを別格的存在たらしめ、今日まで彼らが伝説的バンドとして聴き継がれる決定的契機となったことは間違いない。茂木欣一(Dr)はこう語っている。
「できてみたらそうなったって感じかな。最初デモ・テープで聴いた時は、そんなに変わったって感じじゃなかった。録音してTDが仕上がるに従って劇的に変化したんだよね」(書籍「フィッシュマンズ全書」)
「普通のスタジオで、普通のドラム・セット置いて、いっせのせで音出してたら、<ナイトクルージング>は、ああいう手触りにはならなかったんだよね」(「ミュージック・マガジン」2006年2月号)
茂木の発言は、「ナイトクルージング」でのフィッシュマンズの変化が、佐藤のソングライティング上の変化というより、バンドの音響面やアレンジなど“文体”上の変化が大きかったことを示す。2005年にリリースされたベストアルバム「宇宙 ベスト・オブ・フィッシュマンズ」には、「ナイトクルージング」のデモバージョンが収録されており、完成版との違いがよくわかる。リズムボックスの簡素なリズムと佐藤の生ギター弾き語りでフォークソング風に歌われる同バージョンは、もちろん歌詞やメロディは同じだが、完成版とはまるで異なる印象である。単にいい曲を作り歌うだけでない境地に彼らは達しつつあったし、ちっぽけで平凡な日常を描くだけでなく、その景色のパックリと開いた裂け目から、狂おしくも美しい非日常の異世界が垣間見えるような、そんなイマジネイティブでサイケデリックな世界を獲得しようとしていた。佐藤は「この頃から見るものの景色すべてが変わってきた」と語っている。平凡で退屈な日常の景色が彼の中でなぜ、どのように変わっていったのか。生前の佐藤は詳しく語ろうとはしなかったが、そうして変わっていった景色をメロディに、歌詞に、サウンドに、音楽に焼き付ける類まれな才能が彼にはあった。佐藤が見た非日常の景色が、狂おしく増殖するイマジネーションが、ワイキキ・ビーチのレコーディング環境によって的確に音像化された。メンバーやスタッフが自由にスタジオに出入りしコツコツとレコーディングしながらコミュニケーションを交わし合ううち、その景色は自然に共有されていったのである。「ナイトクルージング」「空中キャンプ」には、その空気感が凝縮されている。
「LONG SEASON」の衝撃
アルバム「空中キャンプ」は96年2月にリリースされ、絶賛された。特にテクノ~ダンスミュージック界隈やサブカルチャー周辺のメディアから注目を集めるようになり、それまでの“日本のロック”コミューンからはみ出した支持層を生んだ。以降、メディアでの露出は格段に増え、ツアーの本数も増えた。「若いながらも歴史あり」ツアーからはHONZI、ダーツ関口(G)が加わり、以後彼らのライブはこの2人をサポートに迎えて行われることが多くなった。特にHONZIの果たした役割は音楽的にも精神的にも大きかった、とはスタッフの証言である。
同年9月にはニューシングル「SEASON」をリリース。さらに翌月にはその拡大版となる35分の1トラックアルバム「LONG SEASON」がリリースされる。「空中キャンプ」は8曲で1曲みたいなアルバムだから、じゃあアルバム1枚を本当に1曲で作ってみよう、というメンバー同士の雑談からアイデアが発展していった。「SEASON」を基に何回かのセッションを重ね、それを基にワイキキ・ビーチでメンバー全員とZAKがアイデアを出し合い細かくエディットしていった。モニターの見過ぎでZAKが目から血を流したというエピソードも残っている。
前編にも書いた通り、「King Master George」のツアーを観て失望して以来、彼らへの積極的な興味を失っていた私が、ひさびさに向き合って聴いたフィッシュマンズのアルバムがこれだった。その間わずか4年でのすさまじい進化に腰を抜かし、慌ててさかのぼって聴いた「空中キャンプ」にまた衝撃を受け、一気に彼らの音楽にのめり込んでいったという経験があり、フィッシュマンズの作品の中でもとりわけ印象深い。当時のレビューで私は「ドラッグにまみれた星屑が降り注いでくるような」という表現をしているが、ダブのメタリックで歪んだサウンドスケープがテクノ~アンビエントを経て初期Pink Floydまで飲み込んだようなサイケデリックでアトモスフェリックでプログレッシブでイマジネイティブなサウンドは、同時に夢の中に漂うような心地よさも感じさせる。長尺ながら、HONZI、ダーツ関口、ASA-CHANG、佐藤タイジ、UAといった多彩なゲストが参加し、あの手この手のアイデアを片っ端からぶち込んで決して聴き手を飽きさせない。彼らの創造性がピークに達していた頃の大傑作だ。同作のツアー「LONG SEASON '96~'97」最終日の12月26日、東京・赤坂BLITZでのライブの素晴らしさは今も記憶に鮮明だ。
メンバーの苦悩
年が明けて97年2月末に7枚目のアルバム「宇宙 日本 世田谷」のレコーディング開始。「2年間でアルバム3枚」という契約の縛りがあったとはいえ、「空中キャンプ」「LONG SEASON」という力のこもったアルバムを作り、合間にツアーやイベント出演、メディア対応など多忙を極める中、あまりに過密なスケジュールである。“ヒマであること”を何よりも大事にしていた男は、いつのまにか生き急ぐように疾走していた。レコーディングは難航を極めた。作業は煮詰まり、滞り、結局6月初旬まで続いた。担当ディレクターの佐野はこう語っている。
「つらかった。話してたのは、仮にU2が『空中キャンプ』を作ったら絶対5年はCD作らないぞって。自分たちのすべてを注ぎ込んだアルバムを作って、残るものは、空っぽになった自分と疲労感ですよ。ZAKもみんなもほんと疲れてた。(中略)小嶋謙介が抜けて、ハカセが抜けて、どんどん抜けていくわけですよ。でも作品は研ぎ澄まされていく。バンドはボロボロの状態で、でも作ることをやめられない。まさに身を削って作った。その後ZAKも(柏原)譲もやめるわけじゃないですか。ある意味自分の限界を超えてやってるから、空っぽの状態になるわけですよ。でもその人と一緒にいたら充電できない。もっと作ろうとしちゃうから。だから降りるしかない」(書籍「フィッシュマンズ全書」)
“その人”=佐藤伸治の歩みは、それでも止まらない。彼の怪物的なクリエイティビティは一向に尽きることがなかった。多忙の合間を縫って佐藤が自宅で作ったデモテープを聴いて、メンバーは途方に暮れたという。茂木は「佐藤くんのソロ色が強くなって、それをバンドに落とし込むのに苦労した」と語ったが、要はデモの完成度が高すぎて、バンドとして何をやるべきかわからなかったということだ。自分たちはこれに一体何を加えればいいのか。ヘタに付け加えれば、この美しい世界を壊してしまうんじゃないか……。
そこで割り切って、「デモテープ通り作ればいいや」とはならなかった。フィッシュマンズが佐藤のワンマングループで、彼1人の意思ですべてが決まるような、ほかのメンバーはただのサポートに過ぎないようなソロユニットなら、柏原も茂木も悩むことはなかっただろう。だがフィッシュマンズはバンドであり、ZAKや周りのスタッフも含めたチームで佐藤の思いや表現する世界を共有し支えることで成り立っていた。その愛にあふれた場所の象徴がワイキキ・ビーチだった。だが「宇宙 日本 世田谷」の世界は、共有しきれなかった。悩むメンバーを尻目に佐藤はどんどん曲を書いてくる。彼1人がすさまじい勢いで進化を続け、走り続けていた。ほかのメンバーやスタッフはそれに付いていくので精一杯だった。
夢の終わりと「男達の別れ」
7月にアルバム「宇宙 日本 世田谷」はリリースされた。「宇宙 日本 世田谷」はこれまで以上に緻密でデリケートな作り込みがなされた極めて高い完成度の高い優れた作品であり、フィッシュマンズが到達した最高地点である。と同時に、孤立無援となった佐藤の孤独が痛いほど感じられるアルバムでもあった。その作業が終わる頃、ZAKがチームを抜けた。彼は「宇宙 日本 世田谷」の終曲「デイドリーム」の作業をしているときから、“終わり”を予感していたという。ワイキキ・ビーチは賃貸契約の終了に伴い、アルバムリリース後まもなく8月4日に閉鎖された。夢のような2年間が終わった。
ZAKを失ったフィッシュマンズは、翌98年8月、2枚目のライブアルバム「8月の現状」リリース。前作のライブ盤「Oh! Mountain」同様、客席のノイズをほとんどカットして、ライブ音源をスタジオ内でさまざまに加工して作り上げた作品だった。その後、12月にシングル「ゆらめきIN THE AIR」をリリース。そして全国4カ所を回る「男達の別れ」ツアーの最終日の12月28日、赤坂BLITZ公演を最後に、柏原譲(B)が脱退した。彼の脱退は音楽やバンドとは直接関係のない家庭の事情が理由で、突発的なものではなく、あらかじめ予定されていたために「男達の別れ」というツアータイトルが付けられたのだった。
佐藤の急逝、そして2019年の現状
とうとうフィッシュマンズは佐藤と茂木の2人になってしまった。だがバンド内に悲観的な空気はなく、佐藤は意欲的に今後の方向性を語っていたという。柏原の脱退やZAKの離脱は痛手ではあったが、これからやっていこうという意欲が漲っていた。「宇宙 日本 世田谷」の頃、佐藤は細かい部分まで指定した完成度の高いデモテープを持ち込んでいたが、この頃になるとシンプルなアコースティックギターの弾き語り形式のデモに戻っていた。彼1人が突っ走るのではなく、フィッシュマンズというチームで彼の思いを共有し、ゆったりと音楽を育てていこうという体制に戻りつつあった。
しかし、翌99年3月15日、佐藤が急死。バンドはその活動を停止したのである。
佐藤が亡くなった99年は、「FUJI ROCK FESTIVAL」が現在の苗場に移って初の開催となった年である。日本にロックフェスティバルという新しい文化が芽生えつつあった。担当ディレクターの佐野は「フィッシュマンズが続いていれば間違いなくヘッドライナーですよ」と嘆く。私もそう思う。再始動したフィッシュマンズは2006年に念願だったフジロックに出演したが、やはり佐藤の、あの美しい獣のような咆哮を、苗場の自然の中で聴きたかったという思いは強く残る。また佐野は、「海外で勝負したかった」と語っていたが、誰が仕掛けたわけでもなく、世界の各地で新たなフィッシュマンズリスナーが増え続けている今の状況は、彼の願いが20年経ってようやく実現したということなのだろう。その数は今も増え続けている。
2019年は佐藤伸治の没後20年。生きていれば53歳である。
(文中敬称略)
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- 小野島大
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音楽評論家。9年間のサラリーマン生活、音楽ミニコミ編集を経てフリーに。「MUSIC MAGAZINE」「ROCKIN'ON」「週刊SPA」などのほか、新聞やWebなどさまざまな媒体で執筆活動を行っている。著作も多数。
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