エンジニアが明かすあのサウンドの正体 第3回 [バックナンバー]
筒美京平作品、角松敏生、石川さゆりらを手がける内沼映二の仕事術(前編)
1970~80年代のレコーディング事情
2019年9月13日 12:30 21
1980年代に入って24trに
──その後、1980年代に入ってから
おそらくレコーダーが24trになった頃だと思います。アナログテープの24trレコーダーを回している時期で、セパレーションというか、音像がよりハッキリ作れるようになったかもしれないですね。24trになってからはいろいろなことができるようになりましたね。
──ドラムのオーバーヘッド(※ドラムセット全体のサウンドを収音するためにセット上部に立てるマイク)がかなり少なめで、オンマイクの比重が高いように聞こえるのですが、タムの音は近めでも深みのある音に聞こえます。このあたりのサウンドはどのように作っているんでしょうか?
あー、痛いところ突かれちゃったな。オーバーヘッドはホント少なかったですね。24trで録っていますけど、タムとオーバーヘッドを分けられるほどまだトラック数に余裕がなかったので。タムもオーバーヘッドもシンバルも個別にマイクを立ててはいましたけど、チャンネルが足りなくて、まとめて同じトラックに録音していたんです。当時バスドラム、スネア、タムはVALLEY PEOPLEのKepex(※1)というノイズゲートをかけて余韻を削るのが流行っていて、タムと一緒のトラックにオーバーヘッドを録音しているもんだから、タムのない箇所を削ろうと思うとオーバーヘッドもなくなってしまうことがよくあったんです。反面、サウンド自体はクリアになったのですが、ドラマーからもシンバルが聞こえないと言われたこともありましたね。その後トラック数に余裕が出てきてようやく解消されました。でも時代とともに流行も変わるので、その後はノイズゲートをかけることがほとんどなくなっていたかな。
※1. 不要なノイズを除去するために用いられるノイズゲートの代表格。本来は楽器の音が鳴っていない箇所の雑音を減らすために開発されたエフェクトだが、過剰に効かせることで楽器の余韻を短くするサウンドが流行した。リバーブの余韻にかけることで、残響音が急にストンとなくなるゲートリバーブもこのエフェクトを使った効果。
──なるほど。オーバーヘッドでも録音はしているけど、タムが鳴ったときだけゲートが開いて両方の音が鳴るので、空気感も深みのあるサウンドになっていたんですね。オーバーヘッドの分量が常に少ないと思っていたので、オンマイクであの音を作れるのが不思議に感じていました。1980年代に入って音作りもだいぶ変わってきたと思いますが、その頃に参考にされたエンジニアはいますか?
ウンベルト・ガティカ(Chicago「Chicago 17」や、マイケル・ジャクソンらが参加した「We Are The World」などを担当)っていうロサンゼルスのエンジニアが作る、どっしりした重厚なロックサウンドが好きで、どうやってんだろうってChicagoを研究しました。ドラムス各々の音が太く、キレがいいのは当然ですが、ドラムのリバーブ(デジタルリバーブ・EMT250)の使い方がうまいんですよ。
音楽に貪欲な角松敏生が持ちかけたリミックス
──角松敏生さんは近年海外でも再評価が進んでいますよね。僕がエンジニアリングを担当しているアーティストもリファレンスに「AFTER 5 CLASH」(1984年発表)などを持ってくることが増えています。今また若い人に新しい音楽として聴かれるのはなぜだと思いますか?
やはり、ひと言で言うと「カッコよさ」だと思いますね。角松さんはその時代最先端のビートやアレンジの研究に時間を費やしていました。結果としてカッコいいサウンドが構築できたのではないかな。彼はアイデアに困るとアメリカに行って向こうのスタジオを見て回って、戻ってくると「こんなことやってたからやってみよう」って持ちかけてくる。サウンド的にはかなり面白いことをやっていたと思いますよ。例えば、角松さんがリミックスをやろうよって言い出したんです。きっかけはアルバム「GOLD DIGGER~with true love~」(1985年発売)を担当したフランス人エンジニアのマイケル・ブラワーがリミックスした「TOKYO TOWER」(1985年発売)でした。あの作品が衝撃的で、我々もリミックスを作ろうとしたのです。マイケルの手法や、角松さんがアメリカに行って習得したアイデアと、アナログテープのエディットテクニックを駆使してできたのが「T's 12 INCHES」(1986年発表)なんですけど、今聴いてもよくできたと思います。
──どうやって作ったんですか?
楽曲のオリジナルのマルチチャンネルテープから「ドラムのこの部分を使おう」という感じで2chハーフインチのピースを大量に作っていき、できたピースをつぎはぎしてつないでいくんです。今みたいにPro Tools(※AVIDのDAWソフト)じゃないから、本当に大変でしたよ。昼に始めて、次の朝になっても1曲の編集が終わらなかったからね。すごいキツかったけど楽しかったな。
──デジタル録音したものをポン出しで再生できるサンプラーが導入される前にリミックスの手法を実践していたんですね。サンプラーはいつ頃から使い始めましたか?
僕はサンプラーを使い始めたのは非常に早かったですよ。最初はAMSのものを使ってたんですけど、Publisonっていうフランスのサンプラーがあって、これが優れものでね。当時確か300万円近くしたんだけど買っちゃって、もうサンプリングしたくてしたくてしょうがなくて(笑)。
──ドラムの修正で、例えば1発のスネアだけをサンプラーで差し替えるような使い方もされていたんでしょうか?
ありました。特にリミックスでは、オリジナルとは別物のサウンドが必要だったこともありかなり使い込みました。
──日本ではスイッチの切り替えでボーカルテイクを選ぶ手法がありましたよね。あれは日本独自のものなんじゃないかと思っているんですが。
ボーカルセレクターでしょ? そうそう、これは日本独自のものだから、アメリカ人が見ると「何をやってるんだ?」ってビックリするよね。これの導入も早かったな。現在でも大活躍ですよ。今はPro Toolsで無尽蔵に録れてしまうので、テイクを選ぶときにボーカルセレクターで切り替えながら聴いて、いいテイクが決まったら後はデジタル編集でやるようにしていますけども。だから今の歌い手さんは本当に恵まれていますよね。いくらでもトラックを使えるから。
──確かにそうですね。
昔はボーカル用に1つか2つのトラックしか空きがないから、それで録らなきゃいけなかった。そう考えると、昔のアイドルは歌が下手じゃなかったんだなと思うよね。ピッチなんて直せなかったし、せいぜいディレイで少しタイミングを変えてあげるくらいだったから。
内沼映二
1944年生まれ。1965年にテイチク株式会社に入社し、日本ビクターを経て1979年に株式会社ミキサーズラボを設立。これまで石川さゆり、近藤真彦、鷺巣詩郎、C-C-B、杏里、角松敏生、冨田勲、西城秀樹、郷ひろみ、南沙織、ピンク・レディー、和田アキ子、SPEED、福山雅治、ゆず、MISIAら数々のアーティストのレコーディングに携わるほか、「ジャングル大帝」「踊る大捜査線」などの劇伴のエンジニアリングも担当。1994~98年、2007~15年の通算12年にわたり、一般社団法人日本音楽スタジオ協会の会長を務め、現在は名誉会長。
中村公輔
1999年にNeinaのメンバーとしてドイツMille Plateauxよりデビュー。自身のソロプロジェクト・KangarooPawのアルバム制作をきっかけに宅録をするようになる。2013年にはthe HIATUSのツアーにマニピュレーターとして参加。エンジニアとして携わったアーティストは入江陽、折坂悠太、Taiko Super Kicks、TAMTAM、ツチヤニボンド、本日休演、ルルルルズなど。音楽ライターとしても活動しており、著作に「名盤レコーディングから読み解くロックのウラ教科書」がある。
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