毎回1人のアーティストの“音楽遍歴”を紐解くことで、音楽を探求することの面白さや、アーティストの新たな魅力を浮き彫りにするこの企画。第4回は
取材・
初めて買った奥田民生の「イージュー☆ライダー」
一番古い子供時代の音楽の記憶だと、
初めて買ったCDは
ヨコシマな気持ちでアコギを買う
12歳くらいでアコースティックギターやキーボードを買いました。まだ音楽を本当に好きとは言えない感じでしたけど、たぶん自分で「僕は陰キャでモテないから、音楽でもやんないとプラマイゼロにならない」って気付いたんでしょうね。そういうヨコシマな考えで、いきなりアコギを買いました。買ったその日に、兄に「絶対すぐ飽きるよ」って言われました。実際、歌本でコード見ながら弾いてみて、難しかったらすぐページめくって、ということをやる程度で(笑)。だからこうやって今まで音楽を続けられててよかったです。
メロディへの興味が生まれる
ただ、その頃から“いいメロディ”への興味は少しづつ生まれてました。「COUNT DOWN TV」(TBSの音楽番組)とかは、「わ! またglobeが1位だ。そりゃそうだよ、いいメロディだもんな」みたいなことを思いながら観てて。だから自分の中で「これ、いいかも」と思うメロディが浮かんだら、その断片をカセットレコーダーとか録音機器で録り溜めてましたね。まだ1曲まるまる作ったりはできなかったですけど。
もう少しあとですが、14歳くらいになると携帯電話に着メロを作る機能が付いて、僕は3和音くらい出せるタイプのものを持っていたので、それで友達に「これ、着メロにして」って頼まれた曲を耳コピして作ってあげたりしてました。そんな中、自分で思いついたメロディも携帯電話に打ち込むという方法での作曲もするようになったんです。
MALICE MIZERに衝撃
MALICE MIZERとの出会いは13歳の終わりでした。もともと僕、J-POP大好きで、「COUNT DOWN TV」とTOKYO FMで育ったみたいな偏り人間だったんですけど、ある日夕食のあと、横になりながら「速報!歌の大辞テン」(日本テレビの音楽番組)を観てたら、徳光さんが10位か9位くらいで紹介したのがMALICE MIZERだったんです。僕はそのビジュアルと音楽の融合をすぐには理解できなくて、横になりながらも開いた口がふさがらなくなったんです。なんかすごいものを観たという感じで、“衝撃を受ける”というのはこのことでしたね。翌日、授業が終わってすぐに近所のCD屋さんに駆けつけました。
バンド名は英語で読めなかったんですけど、ジャケットを見たらすぐに「これだ!」ってわかりました。それだけMALICE MIZERの世界観が構築されていたからですよね。バンド名を知らずともCDジャケットを見ればすぐにたどり着けるというのはすごいですよ。そこからはもうMALICE MIZERの音楽の研究者みたいになっちゃいました。インタビューを読んで何に影響を受けたのかを探りましたし、「似た音楽はどこにあるんだ」といろいろな音楽を聴きました。
秋葉原のマニアックなCDショップとかに入り浸って、「これはちょっと違う、これは惜しいな」みたいに探求して。宗教音楽とか、ゴシック要素のある音楽とか、よくわからないものでもMALICE MIZERに関係がありそうなCDは買えるだけ買ってましたし、メタルでもMALICE MIZER的なクラシック要素のあるものは聴いてました。Rhapsody(現ラプソディー・オブ・ファイア)とかカッコいいバンドにも出会って。それがあって自分の音楽の幅もずいぶん広がったと思います。
バッハはおじいちゃん
14歳の頃から音楽的な趣向は更新されてないですね(笑)。「尊敬するミュージシャン」としてバッハの名前を挙げていますが、それはバッハがMALICE MIZERのルーツの1つだということもあります。バッハは“音楽の父”ですからね。でも僕にとっての“音楽の父”はMALICE MIZERなので、バッハは僕から見ると“音楽のおじいちゃん”。そのはずなんですけど、(ゴールデンボンバーで)お父さんやおじいちゃんの要素はあんまり出せてないんですよ。真似ができないというか「The Beatlesが好きなんだけど、自分が歌ってる言語は日本語」くらいの感じなのかな。好きだけど真似したら絶対に滑稽になっちゃうからできない、という感じです。
バンドを結成するも……
高校に入る頃にはバンドを組むことに対する憧れが溜まっていたので、軽音楽部に入りバンドを組みました。僕はギターだったんですけど、9月の文化祭で弾こうとしたら、緊張ですごい手汗が出てきてスライドしちゃってたくさんミスをしたんですよ。それで「俺はギターじゃない」と思ってドラムを始めたんです。それなら手汗もあんまり関係ないし(笑)。自分の童顔への反発もあって、ドラムで男らしくなりたいという気持ちもあったんです。
僕は「高校の3年間しかバンドはできない」と思っていたので全力でやりたかったんです。軽音楽部のバンドなんて練習しても披露するのは文化祭だけじゃないですか。そのために半年くらいああだこうだと練習してるのに、文化祭前の8月くらいになったらみんな抜けていったりする。やる気のないメンバーのせいで、自分がステージでやることがお粗末なものになるのも嫌だった。だけど、そのことでケンカするような性質でもないし……もしも僕が内縁の妻だったら「私の時間を返せ」って何千万か慰謝料請求してますよ(笑)。
耳から血が出るほどDTMに没頭
そんな憤りを感じていたときにDTM、つまりパソコンで音楽が作れることを知ってしまって。それからは、そっちが楽しくてしょうがなくなったんです。なにしろいろんな曲を自由自在に演奏してくれる機械を手に入れてしまったから、それはハマっちゃいますよね。楽器を根詰めて練習しようという気にならなくなったんです。DTMを知ってしまってからは、晩から朝までずっとイヤフォンはめてやっていたから耳から血が出ましたもん(笑)。ただ、バンドや音楽についての憧れはありつつも「ミュージシャンとしてやっていけるはずはない」とも思ってました。
ゴールデンボンバー結成
高校を卒業してから僕はよしもとクリエイティブ・エージェンシーの養成所である東京NSCに入りました。もともと芸人になりたかったけど、18歳から1年間通って、卒業する頃にはお笑いの世界で僕は成功できないとわかりました。それからはもう芸人はやめようと思って、ぼーっとしてました。
その頃、友人の
だったらそこは大きく振り切って、打ち込みのクオリティを上げるほうが理想の音楽への近道に感じたんです。その頃、僕の恩師といえるDTMの先生に“ドラムを生っぽく鳴らす”とかの打ち込みの技術を学んで、「これでもうメンバーは募集しなくていいや」と。でも、僕がやりたいのはバンドだから、バンドなら人がいないよりは立ってたほうがいいとも思って(笑)。で、喜矢武くんと当時のサポートメンバーだった血祭(鉄兵)さんに「とりあえず弾かなくていいから音楽に合わせて一緒に揺れてくれ」って話したんです。前例がないし、誰も理解してくれなかったですよ。いまだに納得してるわけじゃないと思いますけど(笑)。まあそんな感じで今に至ります。
寄り添って来たのはつらい、さびしい曲
僕は歌詞をすごく大切に聴くんですけど、みゆきさんだと「歌姫」の船や港の描写が素晴らしかったり、GLAYさんの「都忘れ」にある「夢中で伸ばした指先に触れるものは何?」という切ない歌詞がよかったり。B'zさんもトップスターですけど、歌詞はけっこう情けなかったりします。2004年のアテネオリンピックのとき、テレビ朝日がテーマ曲として「ARIGATO」を使用していましたが、テレビで流れる部分は明るくポジティブっぽいんですけど、実はAメロの歌詞は暗めなんですよ。そういうところがいいんです。僕の曲は全部女々しいですけどね。
鬼龍院翔
1984年6月20日生まれ、東京都出身。ヴィジュアル系エアーバンド・ゴールデンボンバーのボーカル兼コンポーザー。2004年に喜矢武豊と共にゴールデンボンバーを結成し、“笑撃的”な体を張ったライブパフォーマンスと歌詞のギャップで注目を集める。2009年10月にリリースした「女々しくて」でブレイクを果たしたことを機に、お茶の間でも人気を博す。ライブの演出やステージ構成を手がけるほか、大竹しのぶ、氣志團、大国男児、Dancing Dolls、ノースリーブス、HAKUEIらに楽曲を提供するなどマルチに活躍。2018年12月にはセルフカバーアルバム「個人資産」をリリース。2019年4月、新元号発表に合わせて「令和」を制作し、リリースした。
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