去る3月17日に
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内田裕也が開拓し定着させたものとは
2019年3月17日、内田裕也が亡くなった。
テレビのワイドショーなどが伝えるのは、伴侶である樹木希林の死から半年、大物芸能人夫婦の晩年の感動物語といった内容が主で「都知事選に出馬したことのある芸能人」といった印象を持った人も多いかもしれない。その訃報には日本だけでなく、ショーン・レノンやアラン・メリル(ジョーン・ジェット「I Love Rock 'n Roll」の作者)などの海外アーティストも哀悼の意を表しているが、芸能人であるがゆえマスコミの報道には、内田の功績が隠れてしまっている感は否めない。
ひと言で言うと内田は、我が国に“ロック”という文化を開拓し定着させた人。例えば、日本のロックバンドの海外進出や大型フェスティバルといった今や当たり前のような出来事も、ロック黎明期の日本で内田(とその仲間たち)が開拓したと言っても過言ではない。
映画界でも1970年代後半から1990年代には、俳優 / プロデューサー / 脚本家 / 監督として多大な業績を残しているが、ここでは音楽プロデューサーとしての内田裕也の歴史を追っていきたい。
ロックシンガーとしての鮮烈なデビュー
1939年11月17日に神戸で生まれた内田はエルヴィス・プレスリーに代表されるロックンロールの洗礼を受けて、1950年代後半から関西のジャズ喫茶で歌い始める。この頃のシンガーというのはバンドの添え物的な扱いを受けることもあり、まだ10代後半の内田はボーヤ(見習いのようなもの)にも関わらずステージングやトークなどの構成を独自に考案していた。戦後の芸能界を牛耳っていた渡辺プロダクションにスカウトされ東京に進出、ソロシンガーとして1963年より1965年の3年間にシングル6枚、尾藤イサオと組んだアルバム2枚を東芝よりリリース。この時期の日本では、The Beatlesをはじめとする英国ビートグループはまだマニアックな存在で、米国のヒット曲を日本語で歌うカバーポップスやThe Venturesを筆頭とするエレキインストが大流行する中、内田はジーン・ヴィンセント、チャック・ベリー、プレスリーなどのロックンロールをレパートリーとし、アルバムではThe Rolling StonesやThe Beatlesもカバーしている。内田の歌唱は、どの曲もオリジナルを忠実に再現しているのではなく、その最初期から自分なりの個性を盛り込んでいるのが興味深い。この時期の録音は、1990年代以降にロック系のDJや若いコレクターに注目され人気も高いが、入手困難な音源も多い。ピチカート・ファイヴの小西康陽も歌手・内田の声が好きだと語っていた。
The Beatlesの来日公演に出演
1966年に来日したThe Beatlesの日本武道館公演では計5回の前座を務める。The Beatlesが1曲目にチャック・ベリーの「Rock 'n Roll Music」を歌い出したとき、内田は「国が違っても、彼らも自分と同じルーツを持っていると実感した」という。60年代半ばの日本では偉人チャック・ベリーもかなりマイナーな存在だったのだ。
同時期に、内田は関西で発掘したファニーズという10代のバンドをスカウトする。当初はビートグループとしてプロデュースを企てていたが、渡辺プロのお膳立てで内田は外され、ファニーズはザ・タイガースと改名しデビュー。たちまち国民的なアイドルグループとなり、社会現象にまでなったグループサウンズ(GS)ブームのトップに君臨した。タイガースからは沢田研二、岸部一徳といった今も第一線で活躍するスターが生まれ、タイガース解散後、沢田とは近年までジョイントが続く間柄であり、岸部が俳優の道に進もうとしたとき、内田は「笠智衆のような俳優を目指せ」とアドバイス。これは今思えば非常に的確だったと言える。
1967年、内田はタイガースの一件もあり渡辺プロと喧嘩し離脱、約3カ月間、ヨーロッパ各地に放浪の旅に出る。日本で海外旅行というのは極めて限られた人間しか行けなかった時代。そこで目の当たりにしたのは、スウィンギンロンドン、フラワームーブメント、サイケデリックといったロックカルチャーの大革命だった。
GSブームの真っ最中に帰国、日本にもGSを超えた本格的なロックバンドを作ろうと1968年に結成したのが内田裕也とザ・フラワーズ。フラワーズはスティールギターをフィーチャーしたサイケデリックバンドという世界的にも珍しいグループであり、女性ボーカリスト・麻生レミを擁した。例えば、「日劇ウエスタンカーニバル」の大舞台で「蝋燭を立てて無声映画を投影し、麻生レミが乳母車を押して登場してJefferson Airplaneの『White Rabbit』を歌う」などの、当時、誰もやったことのない前衛的とも言える内田のアイデアは日本の芸能界には理解されないままであった。
フラワー・トラベリン・バンドで世界進出
GSは約3年の間に200にも及ぶバンドがデビューしたが、1969年にはブームが急下降。同時期、芸能界主導のGSのスタイルに見切りをつけ、ハードロックやブルースロック、プログレなど欧米のロックの動きに呼応した“日本人のロック”を標榜するミュージシャンが登場し始める。これらは和製英語で“ニューロック”と呼ばれた。ウッドストックの影響もあり、日本でもロックフェスティバルを開催しようと、内田は、中村とうよう、成毛滋、福田一郎たちと共に、日比谷野外大音楽堂で「100円コンサート」などのフェスティバルを定例化させていく。
1969年末に、メンバー2人が渡米のためフラワーズを脱退してしまう。そこで内田は本気で世界に勝負に出ようと決心し、GS残党のミュージシャンたちから実力、ルックス共にインパクトのあるメンバーを捜しバンドを再編する。それがニューロック時代を代表するグループ、フラワー・トラベリン・バンドである(以下FTB)。
FTBの2ndアルバム「SATORI」の録音後、内田はマスターテープを持ってアメリカの名門アトランティックレコード本社に単身向かい、契約を獲得する。1971年4月、「SATORI」はアトランティックレーベルから、アメリカ、カナダ、日本で同時発売という快挙。ヨーロッパでもシングルがリリースされた。ジョー山中のハイトーンボイスと石間秀樹の超絶ギターを核とするFTBは欧米で高く評価され、シングル「Satori Part 2」はカナダではトップ10に入るほどのヒットとなった。日本のロックが「ロックとして」初めて海外で成功を収めた事件と言っていいだろう。FTBはしばらくカナダに渡りアルバム制作やフェスティバルに出演し人気を博したが、1972年に帰国した内田は日本の状況に大きく落胆したという。FTBの海外での活躍はあまり伝わっておらず、当時の日本は吉田拓郎に代表されるフォークブームの真っ最中であり、共演が決まっていたThe Rolling Stonesの来日中止など、ロックには不幸な時代が続いた。
時代は前後するが、1970年代初頭に音楽誌などで「ロックは日本語か英語か」といった論争が巻き起こった。はっぴいえんどのアルバムが賞賛される中、FTBに代表される英語派のミュ-ジシャンは「ロックのビートには日本語が乗らないから英語で歌う」というのが主な理由だという論調であった。それは「海外に進出するためには英語で歌うべきだ」という内田のコンセプトであり、内田自身は日本語で歌うことを否定していたわけではなく、例えば、頭脳警察、村八分、キャロルのような、ある意味はっぴいえんどと同等、またはそれ以上に革新的な日本語で歌うバンドを活動初期からバックアップしていたのだ。
名だたる海外アーティストを次々に招聘
1973年、ロック歌手・内田裕也としての実質的な1stアルバムとも言える「ロックンロール放送局」をリリース。ジョン・レノン「ロックンロール」より2年も先を行ったルーツロックンロールのカバーが中心で、ムッシュかまやつ訳詞の「ティーンエイジ・ブギ」、その後の定番レパートリーとなった「コミック雑誌なんかいらない」(オリジナルは頭脳警察)も収録されている今も人気の高いアルバムだ。そして、この年の12月31日に「NHK紅白歌合戦」に対抗したオールナイトコンサート「フラッシュ・コンサート」を渋谷・西武劇場にて開催。これが現在も続く、46回目を迎えた「NEW YEARS WORLD ROCK FESTIVAL」の原型である。
そして、内田は1974年8月4~10日に福島県郡山市で開催された野外フェス「ワンステップ・フェスティバル」をプロデュースする。このイベントには、ヨーコ・オノをはじめ、沢田研二、キャロルのような大スターから外道やシュガー・ベイブといった新人バンドも多く出演。「ワンステップ・フェスティバル」は、日本の最初期の大型ロックフェスとして伝説となっており、のちにDVDやライブ盤もリリースされた。1975年にはジェフ・ベックやNew York Dollsらを音楽フェス「第1回ワールド・ロック・フェスティバル」に招聘し、日本のアーティストたちとの共演を実現させる。また1976年にはフランク・ザッパの来日公演を成功させた。ザッパは内田を「JAPANESE CRAZY BOY」と言ってかわいがっており、内田が「ザッパの家に招かれて、ぜひ日本に来てほしいという話をしたら、ギャラは交通費程度でOK」という友好関係があってこその来日だった。
新しい音楽の動きにいち早く着目
1970年代後半からは、新しいレーベルを立ち上げたり、ジョー山中やクリエイションの海外進出もプロデュース。さらに映画界に進出するなど、その先鋭的な感覚とパワーは他に類を見ず、まさに八面六臂の大活躍であった。日本政府から入国許可が降りないThe Rolling Stonesの公演を船上でやろうとミック・ジャガーに直接交渉したり(ストーンズの初来日は1990年)、ブリティッシュレゲエバンド・Matumbiの楽曲を映画「餌食」で全面的に使う。パンク、ニューウェイブをはじめとする新しい音楽の動きにいち早く着目し、自らの活動に取り入れたり、新しい日本のアーティストの応援にも力を入れていた。一例として、1983年大晦日の「NEW YEAR ROCK FESTIVAL」の出演者には、JAGATARAからビートたけしまで幅広いアーティストが並んでいるところに内田のセンスを感じる。21世紀に入ってからの「NEW YEARS ROCK FESTIVAL」は、海外数カ所にて同時開催される「NEW YEARS WORLD ROCK FESTIVAL」となり、過去にはMr.Bigのビリー・シーン、Ramonesのマーキー・ラモーン、デヴィッド・ヨハンセンなどのロックレジェンドたちも出演している。
ソロアルバムでは、The Venturesと録音した1975年の「ハリウッド」を経て、1978年の「ア・ドッグ・ランズ」は「きめてやる今夜」「いま、ボブ・ディランは何を考えているか」などの代表曲も入った全曲日本語のロックンロール作品。1982年の「さらば愛しき女よ」はハードボイルド路線で、この時期の俳優活動とリンクした脂の乗った歌唱を聴くことができる。前述の「ロックンロール放送局」含め、これらのアルバムはもっと評価されるべきだと個人的には思う。
2008年に日本語訳が出版されたジュリアン・コープ著の「ジャップロック サンプラー」は、内田の業績を丹念に調査しながらもコープの妄想も多々入った日本ロックの歴史書であるが、ここで圧倒的に高く評価されているのはFTB「SATORI」である。ショーン・レノンは2017年に「Satori」のカバーをリリースしている。ジョン・レノン夫妻とは1970年代半ばから交流を深めていたが、酔っぱらいの内田にヨーコが説教したというエピソードもある。
ロックンロール魂の根底に流れるもの
10年ほど前に筆者がインタビューしたとき、内田は「ロックとかジャズという音楽は、もともとは、奴隷として連れて来られた黒人たちの魂の叫びや、差別された人々の怒りや苦しみから生まれたものであって、日本でのニューミュージックとかフォークと呼ばれるような(軟弱な)音楽とは違うんだ」と語っていたが、内田の信念と負けじ魂が集約されたのが口癖である「ロックンロール」だったのだと解釈している。
内田裕也とは、反体制文化としてのロック(映画も含めて)を日本に定着させるために誰よりも尽力し、ときには迷惑なくらいの破天荒さとウィットをもって、歌手としてはアウトローの魅力にあふれ、プロデューサーとしては突飛で過激なアイデアと有言実行の人であった。
裕也さん、ありがとうございました。合掌。
(敬称略にて失礼します)
- サミー前田
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音楽プロデューサー / 著述家 / DJ。インディペンデントレーベル「ボルテイジレコード」主宰。1960~70年代の日本のロックに造詣が深く、現代のアーティストの制作の傍ら、復刻音源の監修や選曲も手がけている。
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武内庶民 @shominn
かつて内田裕也が"日本政府から入国許可が降りないThe Rolling Stonesの公演を船上でやろうとミック・ジャガーに直接交渉した"というエピソードがあるんですが、リバティーンズさんこれどうですか? というかそもそも船上でやれば解消される話なんですか?
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